「桜」二篇
近年、卒業式の頃に満開となる桜が、今年は久しぶりに入学式の頃に咲いた。やはり、入学式や入社式の時に葉桜を眺めるよりも満開の桜を眺めることができれば、それに越したことはないように思った。
桜は、咲き誇ったかと思うと直ぐに桜吹雪と散っていってしまう。狂おしいほどの生命を直ぐに燃やし尽くすような散りぎわのコントラストが何とも感慨深い。
梶井基次郎の「桜の樹の下には」は、驚くほど短い掌編小説だが、春の桜の美しさに畏怖を覚えて「櫻の樹の下には屍体が埋まっている!」と述べた着想は現代にまで影響を及ぼしている。
坂口安吾には「桜の森の満開の下」という、これまた恐ろしい短編があり、太田紫織の「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」というミステリー小説はアニメ化、ドラマ化までされた。
考えてみれば「花の下にて春死なむ」と詠んだ西行法師とは少し違う感じ方だが、梶井の病的にも思える鋭い感受性と表現力には感嘆する。
他方で前述した坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、桜の妖しいまでの美しさをファム・ファタール(運命の女)に魅せられた恋愛心理に重ねた小説である。時代は中世、主人公は桜の咲く森に棲む盗賊で、都から来る旅人を一人で襲っては殺し、金品や見目の良い女を奪って暮らしていた。桜の美しさは感じるが、なんの教養もない粗暴で強欲な男である。ある日、彼は旅人を殺し、その美しい妻を奪って棲家に帰るが、その日から男は女の下僕のようになってしまう。
女は異常で尽きることのない欲望を顕にし、男はそれに応えるが自分を失っていくのだった。まず、女は盗人の隠れ家に身を寄せると男の妻を殺させる。そして、女が男にせがんで二人は都に棲むようになったのだが女は夜ごと、男に人の首を切り落として持ち帰らせる。女は集めた首を人形のように弄ぶのだが、その間の描写が読み返すと恐ろしい。
人は燃えるような恋をしている最中でも、死すべきものである運命からは逃れられないことを暗示しているのだろうか。満開の桜が美しいだけではなく、なにか恐ろしさまで感じさせるのも、人が無意識に死を想起するからだろう。最後に盗人の男は女の異常な欲望から逃れて自分を取り戻そうとある決意をするのだった。
桜とは直接、関係ないが坂口安吾には「夜長姫と耳男」という短編小説もある。飛騨から召喚された若い匠の耳男は長者から夜長姫のために仏像を作るように命じられる。姫は耳男の仕事について「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロク(注:弥勒菩薩の仏像のこと)がダメなのもそのせいだし、お前のバケモノが素晴らしいのもそのためなのよ」と言う。まだ女ではなく魔性の娘である夜長姫を耳男は心底恐ろしいと思うのだが、「桜の森の満開の下」において、恋に潜む魔を描いた安吾は、本作では美に潜む魔を描こうとしたのかも知れない。