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ギボン「ローマ帝国衰亡史」

 自由な時間が増えたので、退任時にいただいた餞別を使って「ローマ帝国衰亡史」<ちくま学芸文庫>全10冊を購入した。7月5日からボチボチ読み始めて二ヶ月かかったが、これだけ大部の書籍は若い頃に読んだ「資本論」以来である。

 読み始めてまず思ったことは、現代日本に暮らす自分にとって、世の中は平和であるのが正常で、戦争は異常な事件だと思っていたけれど、海外ではそうではなかったということである。反対に平和というのは戦争と戦争の合間の休息期間のように見える。これは中国やイスラム圏でも同様だろうと本書からも窺える。

 本書を読むにあたって注意しておくべきことがある。浩瀚で生き生きとローマの歴史をしたためたギボン(1737〜1794)であるが、これだけではローマの盛衰の全容を把握することはできない。一つには、ギボン以降の史学の発展によってギボンが本書で示した歴史認識に一部誤りがあることがわかっている。その点は、訳者が注記しているので都度補うことができる。

 より、本質的な点として、ギボンは政治と宗教の観点から、歴史を描いた。その筆致はゆたかで皇帝や彼を取り巻く人物たちの人となりをも生き生きと描いている。反面、政治や宗教における変動の動因たる経済や社会の底流を取り逃がしていることは明らかである。ここには、大土地所有をめぐるローマ社会の分断や、奴隷の供給不足についての指摘はない。この点、どうしても現代の史家の著書で補うことが必要である。

 そのような限界を有する本書ゆえに、また浩瀚大部であるがゆえに、万人にお勧めすることはできないが、ゆたかな内容を含む歴史読みものとしては現在でも一級品だと思われる。ただし、本書の読者として想定されたのは西洋史とキリスト教について一定の教養がある英国と欧州の人々なので、歴史の流れをおさえることを主眼として、細部にはこだわらずに読むしかないように思われる。

 なお、ローマ帝国の盛衰について述べた古典としては他にモンテスキュー(1689〜1755)による「ローマ盛衰原因論」を挙げることができる。こちらは、コンパクトで社会科学的な視点を有しており、ひろくお勧めできる。

 以下、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」全10冊の要点を摘記しておく。

㈠96〜278年:

 かつてPHPの縮約版を読んだが、やはり原典にあたってこそギボンの優れた洞察に触れることができる。わが国では中国語の皇帝をローマ帝国の支配者の呼称に用いているが両者はまったく異なる。ローマ帝国とその皇帝とは、アウグストゥスが元老院を無力化した上で、執政官と護民官、軍の司令官を兼務して生まれたものである。

 アテネが失敗した都市国家から帝国への脱皮成長にローマは成功したが、五賢帝の後の暗愚な独裁者、さらに皇帝をも差配する軍部の腐敗と横暴の下で帝国の繁栄にも拘わらずローマ市民は塗炭の苦しみを味わったのだった。

㈡268〜312年:

 皇帝さえも意のままにするに至った軍を再び統制しえたのは軍人出身の皇帝たちだった。特にディオクレティアヌス帝の出処進退は見事だった。帝国は周辺蛮族と属州潜帝の制圧にますます忙殺され、皇帝は地方に都を置き、ローマは首都の地位を失った。

 広大な帝国版図は2人の正帝、2人の副帝による分割統治に至り、分裂への可能性を孕んだ。更に信徒を組織化したキリスト教と教会の浸透が帝国を変質させ始める。外見的には教会の咎めを受けぬよう図られたギボンの表現の真意を理解するために、あとがきは必読である。

㈢324〜363年:

 コンスタンティヌス大帝の治世、新首都コンスタンティノープルが築かれ、帝位安定のため文武の権限を分離したが施政に支障も生じた。尚武の気風が薄れ、蛮族出身者を軍人に採用し始める。大帝は信仰をもち、成長したキリスト教徒の自治を特権として認めた。だが、大帝の後継帝の時代にキリスト教内部の分派対立は激化し、古来の異教徒も攻撃した。

 やがてギリシャ哲学と東方の秘教を学んだユリアヌス帝がガリアの軍に推戴され即位。哲人であり有能な新帝は内心キリスト教を敵視し、伝統的な神々への信仰の再興を期す。

㈣362〜408年:

 若き哲人皇帝ユリアヌスがペルシャ戦役で負傷し没する。キリスト教徒たちはまた勢いを取り戻し、ユリアヌスを背教者と侮蔑した。ウァレンス帝の時、フン族に圧されたゴート族が服属し帝国内に居住したがやがて敵対し、帝国と周辺蛮族との戦端が再び開かれた。

 ウァレンス帝の戦死後、西の皇帝グラティアヌスがテオドシウスに東の皇帝を継がせる。テオドシウスは帝国の動揺をよく治めたが、その2人の子息が帝位についた時代に帝国は東西に分割された。そしてテオドシウスの没後、鳴りを潜めていた蛮族たちが動き出し帝国は再び戦乱の時代を迎える。

㈤408〜502年:

 将軍スティリコはゴート族の王アラリックの反乱を撃退した後に懐柔したが失脚、刑死した。アラリックはローマ市を蹂躙し多くの富者が奴隷同然に没落した。アラリックの寿命が尽きた後、アッティラが率いる凶暴なフン族が東帝国の属領を侵し帝国を圧迫する。

 その他、ローマ帝国と蛮族との争いは様々な局面を経るのだが、結局のところゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが西帝国の皇帝を廃した上で、帝位を東の皇帝に返上し自らはイタリア王国の王となることで西ローマ帝国は解体され滅亡に至った。その後、西帝国の領域には、フランク王国が樹立された。

㈥475〜594年:

 ユスティニアヌス帝治下のビザンチン帝国(イタリア半島を含む)ではコンスタンティノープル市民が派閥に分かれ暴動を繰り返した。反面、帝国の農業は発展し、分業と商品経済により国富は増した。優れた将軍ベリサリウスの働きによって旧西帝国の属州の半分も回復された。後にゴートの王、トティラによりローマが占領された時も老将、ベリサリウスが召喚され、ローマを回復したがユスティニアス帝は嫉妬に駆られ彼を冷遇したのだった。

 第44章はローマ法を説明しているが財産権(占有、時効)の概念は重要と思われる。

㈦565〜1356年:

ユスティニアス帝の死後、イタリアの大方はランゴバルド族の王国となり、ローマの栄光は失せた。フォカス帝を討って帝位についたヘラクリウス帝はササン朝ペルシアの王ホスローによる圧迫に対抗して外征しササン朝を破滅に追い込んだが長い戦乱は東帝国をも疲弊させた。

 47章のキリスト教教理は退屈だが、映画「アレキサンドリア」にも描かれたヒュパティアの悲劇は酷い。48章の600年に60人の皇帝たちの物語も歴史の歩みとは無縁。8世紀に聖像崇拝を巡り東西教会が分離。教皇レオ3世は800年、シャルルマーニュに戴冠した。

㈧569〜933年:

 アラブの地にも教会が進出し、聖書がアラビア語に翻訳された土壌のもとに、マホメットが啓示によりユダヤ教、キリスト教を包含した新たな宗教を創始した。イスラム教で緩やかに統合されたアラブ人は征服により、ペルシャ、シリア、エジプト、アフリカ、スペインに至る広大な版図を占めるに至った。しかし、コンスタンティノープルは落とせず、カール・マルテルにトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れた。そしてアラブの栄華と裏腹にトルコ人親衛隊がカリフから実権を簒奪するに至る。他方、ヨーロッパでフランク王国は10世紀初めには分裂した。

㈨840〜1352年:

 サラセン人、フランク人、ギリシャ人を中心とした諸民族の争いの中でセルジュク・トルコが興隆した。シャルルマーニュ戴冠によって東西教会の分裂は決定的になったのだが、コンスタンティノープル奪還のために十字軍の遠征が試みられた。

 第4回十字軍で地中海に興隆したヴェネチアとフランスの同盟によってコンスタンティノープルが占領され、ビザンチン帝国は分割されラテン帝国と化したが、後にギリシャ人はコンスタンティノープルを奪還する。しかし、ラテン帝国は内戦と破局に陥り、ヴェネチアとジェノアの栄華に帝国がかすんでしまった。

㈩1210〜1500:

 チンギスハーンの征服と並行して、オスマントルコが興隆した。ティムール率いるモンゴルはペルシャ、インド、ロシア、シリアなどを征服し、トルコも屈服させたがティムールの死とともに彼の帝国は解体に向かう。

 オスマン帝国が復活した頃、火薬が発明された。メフメット二世のトルコが1453年にコンスタンティノープルを陥落し、ビザンチン帝国は滅亡した。西欧諸国には十字軍の熱情は失せており、これを傍観した。

 総括として、ギボンはローマ帝国衰亡の主要な原因を4つ挙げるが、その最大はローマ市民自身の内部抗争だと指摘する。

(2021年9月)カバーは、Peter HによるPixabayからの画像

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