邪馬台国の謎 (19)
前回は、邪馬台国沖縄説が、距離や方位では魏志倭人伝に準拠しているものの、
沖縄に国家らしきものが登場するのが数百年以上あとになる
邪馬台国連合に比定される国々との距離が遠すぎること
から、ちょっと厳しいのではないか?
というお話をしました。
今回は、「南」を「東」の方位に読み解くという説。
いわゆる本州・四国系統の邪馬台国論を見ていきたいと思います。
とりあえず、有名な九州説や畿内説は後回しにして、それ以外の説から見ていきます。
邪馬台国千葉(惣社)説
神門古墳群がある千葉県市原市惣社こそが、邪馬台国に関係しているという説があります。
3号、4号、5号古墳が、三世紀中頃の古墳とされているからです。
この時代に関東に前方後円墳があるというのは、非常に重みがあります。
前方後円墳があるということは、その時期には大和政権の影響を受けていた地域であったと考えられているからです。
となると、大和政権は3世紀の段階で関東まで勢力を伸ばしていたことになります。
日本書紀で該当する天皇となると、第十代・崇神天皇の時代以降かと推測されます。
その理由は、日本書紀にある【四道将軍】の派遣についての記述です。
(古事記では四道将軍という括りではなく個別に記事になっています。)
以上のように、大和政権が関東圏に影響を与えたとされる記述があるのが、第十代・崇神天皇になるため、神門古墳群が、西暦250年前後の年代であるなら、築造期間も考慮すると、西暦200年代前半には、大彦命が派遣されていたと考える必要が出てきます。
なお、千葉説には、他にも館山説や安孫子説がありますが、古墳年代から見ると邪馬台国とするには、時系列上のズレが生じてきます。
また、魏志倭人伝におけるルートとの整合性、近隣諸国の位置関係もかなり無理がありそうです。
個人的に一番気になるのは、大和政権という王城の地があり、やがて全国の首都になっていくのに、なぜ、この時期に千葉県に邪馬台国があるのか? という不自然さです。
千葉に相応の勢力圏があったというのは間違いないと思いますが、邪馬台国だったとするのは、厳しいかな? と思います。
邪馬台国静岡説
古代史研究家の肥田政彦氏が唱えた説です。
当初は、焼津地域としていましたが、晩年になると、南伊豆を邪馬台国に比定するようになりました。
伊豆には日詰遺跡があり、弥生時代後期から集落や祭祀が行われた跡が見つかっています。
また、伊豆北部には高尾山古墳があり、築造年代が3世紀半ばなので、邪馬台国の卑弥呼時代に合致しています。
ただ、上述の千葉説にもありますように、四道将軍がやってきての古墳とも考えられますので、卑弥呼に関連していると断言するには、根拠固めが不足しているようです。
他にも、邪馬台国長野説とかがあるのですが、長野の遺跡は縄文時代にまで遡るので、時代が合致していません。
むしろ、【国譲り神話】で、大国主命の息子である建御名方神が、建御雷神に敗北して逃走し、信濃まで逃げ落ちたという伝承とのマッチの方に目がいきますね。
さて、今回取り上げた東国の遺跡群は、卑弥呼と同時代の建造物ということもあり、邪馬台国の比定地として有力視されている場所です。
ただ・・・それなら首都機能のある大和周辺に卑弥呼がいたと考える方が、良いのではないだろうか? とも思えます。
同じ大和政権の勢力下にあり、国を指導する立場にあるのですから、首都に近い方が、何かと都合が良いと思うんですよね。
東日本説も、面白いのは確かなのですが、邪馬台国との接点は、私には見えてこないです。
もちろん、諸説色々あり、私が知らない強力な根拠のもと、提唱されている方もいらっしゃると思います。
私自身、それらの情報をすべて把握しているわけではありません。
ですから、今後、私の感想を覆す重大事実が発見されるかもしれません。
その時は、「ワクワクすっぞ! 」とドラゴンボールの孫悟空ばりのセリフをはいて、楽しみたいと思います。