種子島紀行 〜 歴史編
種子島紀行の第2弾は、種子島の歴史に関するお話となります。
種子島文化の興り
種子島で最古の遺跡は、約3万5千年前のもので、旧石器時代に人が生活した数少ない離島のひとつとされています。
種子島の遺跡から、紀元前1万年までに本土で最盛期を迎えた細石器文化や縄文土器などが見つかっていることから、
少なくとも、この頃には本土と種子島間で流通があった(つまり、大隅海峡を越えられる船が存在した)と考えられています。
古来、この地域では、種子島と屋久島のみに自生するヤクタネゴヨウを用いて丸木舟が作られ、
トビウオ漁などに使われてきたので、ひょっとしたら、こんな小さな舟で本土と行き来していたのかもしれません。
種子島の古代史
8世紀になると、種子島・屋久島は律令国家に組み込まれ、702年に多禰国(たねのくに)が置かれました。
当時、大和朝廷は南九州において興隆していた隼人の平定に注力しており、
その沖合に浮かぶ種子島などの島々も、平定の対象になっていたものと推測されます。
しかし、多禰国は長く続かず、平安前期の824年に大隅国に編入され、鎌倉時代以降、見和氏、肥後氏、種子島氏がこの地を治めることになりました。
鉄砲伝来
時代は下って1543年、種子島氏第14代当主・種子島時尭(たねがしま ときたか)の頃に、種子島南端の門倉岬前之浜に1隻の南蛮船が難破します。
この船には、ポルトガル人が乗船していました。
南蛮船は、時尭の指示で居城・赤尾木城がある島の北西部に曳行され、
ポルトガル人を含む一部の乗員が時尭に謁見しました。
この時、時尭は彼らが所有していた見慣れぬ火器に興味を示し、2丁の火縄銃を2,000両で購入します。
そして、購入した鉄砲を基に、島の刀鍛冶・八板金兵衛清定に鉄砲の模作を命じたのでした。
しかし、金兵衛が見様見真似で模作した銃では、発射すると尾栓が吹き飛んで上手くいきませんでした。
ポルトガルの火縄銃は、尾栓をネジ込んであったのですが、当時の日本には未だ「ネジ」の概念がなく、金兵衛には銃身の底を強固に塞ぐ方法が判らなかったのです。
このことを知った金兵衛の娘・若狭(わかさ)は、ポルトガル人に嫁いで外国に赴き、
父・金兵衛の鉄砲造りに貢献しようとした、と言い伝えられています(日本初の西欧人との国際結婚)。
この娘の名は、現在、本土と種子島間を往来する貨客船にも名付けられています。
翌1544年、ポルトガル船が種子島南東部の熊野浦に来航したとき、金兵衛はポルトガル人からネジ作りを学び、ようやく国産銃を完成することが出来ました。
そして鉄砲は、新しい武器として急速に日本全土に広まることになります。
後年、薩摩藩が鉄砲や大砲の技術で先駆けたことは、種子島への鉄砲伝来と無関係ではないのかもしれません。
ところで、以前、伊能忠敬(いのう ただたか)の功績についてご紹介しましたが、忠敬は、1812年の第8次測量で、ここ種子島にも訪れています。
北隊と南隊に分かれ、わずか1か月足らずで種子島の測量を終えたようです。
あと、西郷隆盛ファンなら一度は耳にしたことがある川口雪篷(かわぐち せっぽう)は、種子島の生まれです。
1862年に沖永良部島で西郷隆盛と意気投合した雪篷は、その後、西郷家に寄寓して留守居役を果たし、また西郷の子弟の教育にも当たりました。
以下、自然・文化関連の地物についてご紹介となります。
宝満神社と赤米
種子島の南部に所在する宝満神社は、玉依姫(初代・神武天皇の母)を祭神とする神社で、
古代米とされる赤米に関わる神事を通じて、地域の稲作と深く関わっているそうです。
日本創生期の神々と稲穂は、日本人の美しい心の原点でもあるので、種子島宝満神社由来希少品種の赤米「たまより姫」を買って帰りました(写真右下)。
種子島各地に点在する、南国らしい風景も素晴らしかったです。
おわりに
種子島での宇宙開発と鉄砲伝来の歴史について、2回に分けてご紹介して参りましたが、それぞれ、宇宙のロマン、歴史のロマンを感じて頂けたのではないでしょうか。
ロケットと鉄砲、いずれもその本質は「物体を、より正確に、より遠くへ飛ばす」ことへのあくなき探求心と匠の技の結晶なのだろうと思いました。
このたび、種子島でそのような日本の美しい心を再発見することができて、本当に良かったと思います。
これからも、偽情報の山に埋もれてしまいそうな日本の美しい真心を掘り起こして、発信していきたいと思います🍀