土佐偉人伝 〜 坂本龍馬(前編)
今回は、海を志した土佐の偉人・坂本龍馬について、2回に分けて取り上げたいと思います。
冴えない少年だった龍馬が、如何にして幕末の志士へと成長したのか。その生い立ちから振り返ってみましょう。(以下、文字削減のため「である」調で記載)
生い立ち
龍馬は、1836年1月、土佐高知城下本町の郷士(注1) 坂本家に誕生した。兄弟姉妹五人のうち末っ子だった。
坂本家は、元々、才谷屋という城下有数の商家で、1770年、龍馬の曽祖父にあたる八郎兵衛直益の時に郷士格を得た。
直益は、翌年5月、長男を坂本家として独立させ、次男に才谷屋を継がせた。これにより、龍馬は商家を本家とする下級侍という、ユニークな家柄の中で育まれた。
少年時代
少年の頃の龍馬は、ひ弱でいつまでも寝小便が直らず、周囲の者から「はな垂れ」と呼ばれるなど、冴えない子供だった。
1846年、10歳の頃に母親が亡くなったあと学塾に通ったが、勉強は一向に進まず、学友たちにからかわれ、度々、泣きながら家に帰った。
その後、龍馬の父・八平は龍馬を学塾や藩校に通わせることもなく、龍馬は、大人になるまで学問をする機会に恵まれなかった。
姉・乙女の存在
そんな龍馬の成長に欠かせなかったのが、3歳年上の姉・乙女(注2) だった。乙女は、まるで母親のように龍馬を育てあげた。
乙女は、軍書や講談書を好み、古今の英雄たちが活躍する様子を龍馬に語って聞かせ、弟の龍馬を、何とか男らしくしようとした。
剣術修行を始める
そんな龍馬を変えたのが「剣」との出会いだった。
1848年、龍馬は日根野道場へ入門し、幅広い武術指導で知られる小栗流の剣術を習い始め、日を追うごとに目覚ましい上達を見せた。
5年後の1853年春、順調に剣の腕を上げた龍馬は、剣術修行のメッカとも言うべき江戸に出て、更なる修行を積むことになった。
築地の土佐藩邸に着いた龍馬は、近くにある北辰一刀流・千葉定吉道場に入門した。
黒船来航
龍馬が江戸に来て1か月半ほどたったとき、日本を揺るがす大事件が起こった。1853年6月、ペリー提督率いるアメリカ艦隊、いわゆる「黒船」が浦賀沖に現れたのである。
龍馬も、土佐藩士として沿岸警備に駆り出されたが、どこかで遠目ながらに黒船を見た(注3) ことを手紙に残している。
佐久間象山の門下となる
大砲に関心を持った龍馬は、その年の12月に、西洋兵学者の佐久間象山の門下となり、西洋砲術の修行にも取り組んだ。
しかし、その象山は翌年4月、長州藩士・吉田松陰の外国船密航計画(注4) に加担したとして、幕府により投獄されてしまった。
攘夷論が巻き起こる
この年、幕府が日米和親条約を結び開国を決めたことで、世間には攘夷論が巻き起こっていた。
1854年11月、龍馬は、自宅の近くに引っ越してきた河田小龍を訪ねてみた。
ジョン万次郎から漂流体験を取材して「漂巽紀略」を著した人物で、海外事情にも詳しかった。
攘夷の話になったとき、河田はこう話した。
「攘夷は、とても行わるべからず」
つまり、日本の軍事力では、諸外国に打ち勝つのは不可能というのである。「ならばどうすればいいのか」という龍馬の問いに、河田はこう答えた。
「先ずは、商業を興すこと。外国船を買い、同志を集め、客や荷物を運び、運賃を得ながら航海術を習得する。そうして、外国に対抗できる軍事力を身につけてから、攘夷を実行すべきだ」
この意見に、龍馬は大いに賛同した。この時、龍馬は攘夷の無意味さや、海軍の重要性を理解し、その後の龍馬の思想・行動に影響(注5) を与えた。
再び、江戸へ
1855年に父親が亡くなると、翌1856年、龍馬は再び行動を開始した。更なる剣術修行のため、再び江戸に向かうことを藩に願い出たのである。
龍馬は、前回の江戸遊学で世間が如何に広いかを知った。
江戸に集まる様々な人や情報に触れることで開眼する感覚は、狭い土佐に閉じこもっていては決して得られないものだったのだろう。
龍馬の2度目の江戸遊学は、当初、1年間という期限が定められていたが、途中で延長が認められ、更に1年間、江戸で修行を続けた。
そして1858年1月、龍馬に、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」が与えられた。
千葉佐那との恋
長刀とは、いわゆる薙刀(なぎなた)の目録である。
龍馬は北辰一刀流の剣術を修行するかたわら、「千葉の鬼小町」と呼ばれた長刀使い、佐那とも稽古に明け暮れていたのだろう。
佐那は、龍馬より3歳年下で、剣で身を立て、国事に尽くしたいと本気で考えているような娘だった。
細おもてで鼻筋が通り、口元のきりっと締まった美人であったという。
3年後、龍馬は再び千葉道場を訪れているが、この時、龍馬は乙女に佐那と恋仲である(注6) ことを手紙に認めている。
佐那は生涯独身を貫き、「私は龍馬の許婚であった」と語っていた。
桜田門外の変
1858年、龍馬は2年ぶりに土佐に帰郷した。その直前、江戸幕府は日米修好通商条約を締結し、立て続けに蘭、露、英、仏とも同様の条約を締結し、攘夷派に対する取り締まりが強化された(安政の大獄)。
しかし、1860年3月、その立役者だった大老・井伊直弼が水戸浪士らの襲撃を受けて死亡(桜田門外の変)。
事件が土佐に伝わると、尊王攘夷思想が土佐下級藩士の主流となっていった。
1861年、武市半平太は、長州・薩摩・土佐の三藩で勤王同盟を結び、その後、龍馬を含む土佐の有志を集めて土佐勤王党を結成、土佐藩全体で尊王攘夷の力を結集することに力を注いだ。
久坂玄瑞との出会い
1861年10月、龍馬は小栗流の剣術を治めて免許皆伝となった。1862年1月、龍馬は長州に向かい、吉田松陰の門下生である久坂玄瑞と尊王攘夷について語り合った。
武市の土佐勤王党は、土佐の藩政を尊王攘夷の方向に向かわせることを目指していたが、久坂は、志士が藩という枠を超え、超党派勢力を作るほかに攘夷を実現する方策はないと考えていた。
龍馬、脱藩を決意
この頃、薩摩の島津久光が兵を率いて江戸に向かうという情報が諸藩に広まった。
実際、久光は「公武合体」を目指していたのだが、討幕挙兵と勘違いする者も多く、脱藩してこれに加わろうとする者が現れ始めた。
そして龍馬も、3月24日、沢村惣之丞とともに土佐藩から脱藩した(注7) のである。
このとき、龍馬の姉・乙女は、坂本家秘蔵の名刀を選別として龍馬に手渡したという。
三度、江戸へ
脱藩した龍馬は長州で沢村と別れ、反射炉や大砲を有する薩摩に向かったが、薩摩に入ることは出来ず、大坂に向かう。
その頃、土佐では、尊王攘夷に耳を貸さなかった吉田東洋が、武市率いる土佐勤王党により暗殺される。
脱藩のタイミングと同じくらいだったので、龍馬に東洋暗殺の嫌疑がかかり、龍馬は追手から逃れるため江戸へと向かった。
江戸に着いた龍馬は、武市、久坂、高杉晋作と会し、今後について話し合った。このとき、龍馬は久坂が在日外国人を斬る企てをしていることを知る。
しかし、外国人を排斥するには、河田が言ったように船を手に入れる他にないと考えていた龍馬には、久坂の考えは無意味に思えた。
勝海舟との出会い
その船を買うには大金が必要なので、幕府と掛け合うしかないと考えた龍馬は、福井藩主・松平春嶽に会って海防の重要性を訴えた。
この話に感銘を受けた春嶽は、幕府の中でも海軍に詳しい勝海舟を紹介するということになった。
1862年12月、龍馬は勝海舟を訪ねた。当初、龍馬は幕府側の人間である海舟を斬るつもりだったが、実際、1860年に「咸臨丸」で外国を見てきた勝海舟から語られる言葉は龍馬を震撼させた。
「先ず、国を挙げて兵制を改革し、海軍を創設して諸外国と対等に渡り合うべきだ」
勝海舟の話にすっかり感銘した龍馬は、その場で弟子にしてくれと懇願した。
攘夷運動の高まり
この頃、龍馬が懸念していた外国人排斥事案が相次ぎ、下関戦争や薩英戦争が勃発する。
下関戦争の後、幕府が同じ日本人である長州の征伐に動いたことに憤りを感じた龍馬は、1863年6月に姉・乙女に宛てた手紙にこう記した。
「日本を今一度、洗濯いたし申し候」
龍馬は、世直し(注8) への思いをより一層、強くした。
神戸海軍操練所の創設
1864年4月、勝海舟は将軍・徳川家茂に海軍学校の必要性を説き、家茂は即座に学校の設立を許可した。ここに、神戸海軍操練所が誕生した。
これに隣接した勝海舟の私塾(海軍塾)には諸藩の志士が集い、佐幕派、討幕派、攘夷派、脱藩浪人が一堂に会して航海術を学んだ。
龍馬は、勝海舟の下で海軍塾の塾頭になったことを、姉・乙女に宛てた手紙で、このように書いている。
「すこし、エヘン顔してひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」
龍馬にとり「幕府、諸藩の枠を超えて日本の海軍を創る」という勝海舟の壮大な計画の一員となれたことは、大変、誇らしいものであったのだろう。
楢崎龍との出会い
1864年、龍馬は京都に潜伏していた頃に、楢崎龍(以下「おりょう」)と出会う。
龍馬は、おりょうが、遊女屋敷に連れて行かれた妹をたった一人で取り戻したという話を聞き、すっかり気に入った。
龍馬は、姉・乙女の影響からか、先述の平井加尾といい、千葉佐那といい、男勝りで強気な女性が好みだったようだ。
禁門の変と、海軍操練所の閉鎖
龍馬が江戸に向かって旅立った7月、新選組が攘夷派の長州藩士を襲撃した池田屋事件をきっかけに、長州軍が入京。
これを阻止するため、薩摩にも出兵命令が出て、8月、京都で薩長が衝突した(禁門の変)。
西郷隆盛率いる幕府軍に長州は敗退し、久坂玄瑞も戦死した。
これを機に、長州藩士に同情的な生徒が海軍塾に出入りしているとの理由で、勝海舟は責任を取らされ軍艦奉行を罷免され、創設から僅か1年で海軍操練所も閉鎖された。
西郷隆盛との出会い
龍馬や勝海舟が、明治維新の最大の立役者となった西郷隆盛と顔合わせしたのが、丁度、この時である。
西郷に興味を持った龍馬は、薩摩藩邸で西郷と面会した。この時、龍馬は西郷のことをこう評した。
その後、長州は朝敵(朝廷の敵)とされ、幕府軍の参謀を命じられた西郷は、9月、幕府海軍の出兵を要請するため勝海舟を訪ねる。
このとき西郷は、幕臣でありながら「幕府の政治はもはや限界、これからは諸藩が手を取り合って政治を行う世にすべきだ」と語った勝海舟の知見と懐の深さにすっかり感銘し、長州征伐の無意味さを知る。結果、長州征伐は行われずに終息した。
この後、大器晩成型の龍馬が、いよいよ本格始動することになります。
その話は後編で🍀