土佐偉人伝 〜 坂本龍馬(後編)
(前編からの続き)
この後、いよいよ龍馬が本領を発揮し始める。
「亀山社中」の創設
1865年4月、神戸海軍操練所が閉鎖となったあと、培った航海術を生かしたいという思いに駆られていた龍馬は、その年の9月、日本初の商社で私設海軍でもある「亀山社中」を創設し、その拠点を長崎に置いた。
「薩長同盟」の成立
薩長は、1864年7月の禁門の変で衝突し、長州は朝敵と位置づけられたのだが、長州の巻き返しを恐れた幕府は、第二次長州征伐を計画した。
しかし、ここで長州の息の根が止められると、攘夷・倒幕の火が途絶え、益々、外国のいいようにされてしまう。
そのことを危惧した志士らが思いついた妙案が「薩長同盟」だったのである。
当初、長州の桂小五郎は、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することになっていたが、西郷は下関で下船せずに上京してしまった。
これに腹を立てた桂は、西郷と再び会談する条件として、薩摩名義の軍艦や武器を長州に横流しすることを龍馬に求め、西郷はこれを了承した。
亀山社中がその仲介役となり、軍艦や鉄砲などを買い付け、長州に渡した。
1866年1月、再び薩長会談が行われることになり、京都に西郷と桂が待機していた。
しかし、お互いに面子ばかり気にして一向に会おうとしなかった(注1) ので、龍馬がしびれを切らして桂を引き留め、西郷を説得した。
その後、小松帯刀邸において、龍馬仲裁の下で西郷と桂が会談し、薩長同盟が成立したのである。
この盟約は、事実上の倒幕のための軍事同盟であった。
寺田屋事件
2日後、龍馬が伏見の寺田屋で祝宴を上げ、風呂に入って寝ようとしたその時、おりょうが慌てて階段を上ってきて「敵襲です」と、龍馬に告げた。
薩長同盟は、密約であったものの、翌日には幕府側に漏れていて、龍馬は反幕府的な薩長同盟を周旋したとして奉行所から嫌疑がかけられたのである。
龍馬は、襲撃者にピストル(注2) で応戦し、かろうじて逃げることができたものの、手元を斬られて負傷してしまった。
手傷を負った龍馬は、おりょうとともに薩摩藩邸に逃げ込む。その後、西郷の計らいで、暫く療養することとなり、大坂から蒸気船で薩摩藩に匿われた。
日本初の新婚旅行
薩摩藩では、龍馬はおりょうと共に霧島などを訪れており、これが日本で最初の新婚旅行といわれている。
龍馬とおりょうは、高千穂峰にも登頂し、山頂にある天の逆鉾を引き抜いて、柄の部分にある天狗のような顔を見て、大笑いしたという。
龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙に、逆鉾のスケッチとともに、次のように書き綴っている。
「その形、たしかに天狗の面なり 二人大いに笑いたり」
龍馬とおりょうは、薩摩に3か月ほど滞在したが、この時が、二人が夫婦らしい時間を過ごせた最初で最後のひとときだったのかもしれない。
1866年6月、幕府は第二次長州征伐を始めた。
薩摩は、薩長同盟に基づき出兵を拒否したが、龍馬を船長とする「ユニオン号」が長州側に加わり、門司方面に居た幕府の敵砲台を壊滅状態に追い込んだ。
翌7月、将軍・徳川家茂が急死したため、第二次長州征伐は中止された。
「海援隊」の発足
年が明けて1867年、土佐藩の後藤正二郎が龍馬のもとに現れ、いよいよ土佐が幕府寄りの立場を捨てて、倒幕に向けて動き出すという話をする。
4月、龍馬と中岡慎太郎に土佐藩から辞令が与えられた。それは土佐藩の付属機関として、「海援隊」と「陸援隊」を創設し、それぞれの隊長に任命するというものであった。
しかし、その資金は自給自足で賄うこととされた。
金に困った龍馬は、後藤の紹介で長崎土佐商会の責任者である岩崎弥太郎(注3) と面会。この日をきっかけに龍馬は弥太郎と親交を深め、資金面で援助を受けるようになる。
「いろは丸」の事故
海援隊が発足した4月、長崎を出港した「いろは丸」の初航海で、とんでもない事件が起きる。
瀬戸内海で紀州藩の「明光丸」と衝突し、海に没したのだ。
この時、龍馬も「いろは丸」に乗船していたが、龍馬と乗組員は皆、無事だった。(注4)
大政奉還へ
一方、この頃、倒幕に舵を切った土佐藩は、京都で薩摩藩との間で密約を結ぼうとしていた。
土佐から中岡慎太郎、板垣退助、薩摩から西郷隆盛、小松帯刀らが会席し、武力倒幕に尽くすことを約束した。
しかし、龍馬はこの密約に反対だった。
内戦はできるだけ避け、無用の血を流さずに倒幕することが第一と考えていた龍馬は、先ず、正々堂々と幕府と腹を割って話し合い、朝廷との政権交代(注5) を迫るべきだと訴えた。
「船中八策」が生まれる
徳川家が自ら政権の座を降り、政権を朝廷に返還する代わりに、新政府の一員に迎える。
これが無血革命の策であった。龍馬はこの考えを伝えるため、京都に向かう。この途上の船中で、後藤に語られたことが船中八策と呼ばれるものである。
この話を聞いた後藤も承認し、土佐藩主・山内容堂から幕府に伝えれば、実現する可能性があると考えた。
京都に着いた龍馬は、早速、西郷らを説き伏せて、武力倒幕の準備を行いつつ、先ずは大政奉還を目指してみよう(注6) ということになった。
遂に「大政奉還」となる
1867年10月、ついに土佐藩の山内容堂から幕府に「大政奉還」建白書が提出された。後日、後藤から龍馬に届いた手紙には、こう書かれていた。
「政権を朝廷に返すの号令を示せる」
徳川慶喜が建白書を受け入れ、ここに無血革命が成立した瞬間であった。
このとき、龍馬は涙を流しながら、こう呟いたという。
「慶喜公、今日のご心中は深くお察し申す。龍馬は誓って、この人のために一命を捧げよう」
こうして、200数十年続いた徳川幕府が終わりを告げ、鎌倉幕府から侍が握り続けてきた政治の実権は、約700年ぶりに朝廷のもとに奉還されることになった。
この偉業は誰のもの?
この偉業は、今でこそ龍馬の代名詞のようになっているが、当時は土佐藩の山内容堂と後藤象二郎の手柄のようになっていた。
しかし、龍馬は次のように言って笑ったという。
「事は十中、八か九まで自分でやり遂げ、残りの一か二を他人に譲って手柄にさせるのがいい」
手柄(名声)に執着せず、常に裏方で最善の結果を追い求めた坂本龍馬という偉大なるフィクサー(調停役)が居なかったら、明治維新は成し得なかったことだろう。
世界の「海援隊」を夢見て
その後、龍馬は新政権の編成案まで考えている。
その中に龍馬の名がないことに気づいた西郷は、龍馬に「なぜ、政府に加わらないのかと」聞いたところ、龍馬は「俺は役人には向いていない」と答えた。
更に、西郷は「では、官職につかず何をなさる」と聞いたところ、龍馬はこう言った。
「そうだな。世界の海援隊でもやるか」
実に、龍馬らしい言葉である。
11 月京都に戻った龍馬は自らの船中八策を更に発展させ、維新後新政府設立のための政治綱領として「新政府綱領八策」を作成した。
そして、この八策は、後の明治新政府によって次々に実現されることになる。
龍馬、刺客に襲われる
1867 年11月15日、龍馬は、京都の近江屋で中岡慎太郎と酒を酌み交わしていたところ、突然、刺客が襲いかかってきた。
龍馬は、常に懐に忍ばせていたピストルを使う間もなく、斬られて絶命してしまった。龍馬を手にかけた刺客が誰であったかは、分かっていない。
「おりょう」のその後
おりょうは、龍馬が暗殺された1867年以降、一時期、未亡人として土佐の坂本家に身を寄せた。
しかし、それも長続きはせず、各地を転々とした末に、1875年に大道商人・西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして1906年に亡くなるまで約30年の余生を横須賀で暮らし、没後は横須賀市大津の信楽寺に葬られた。
龍馬という偉人が生まれた背景
冴えない子供で勉学も出来なかった龍馬は、剣術修行と江戸遊学の辺りから、めきめきと成長し始め、亀山社中・海援隊(1865年)、薩長同盟(1866年)、大政奉還(1867年)等、大きな仕事を成し遂げ、船中八策(1867年)により、明治新政府の基礎を作った。
ここからは、こうした「大器晩成型」ともいうべき龍馬の背景にあったものを探っていきたい。
📌 下級藩士と商家という家柄
土佐の下級藩士は、とりわけ貧しく、しばしば、上士から虐げられることもあり、「世直し」に向けた反骨心を蓄えるには十分だった。
また、才谷屋という商家としてのルーツからも、元々、商業に関する知識や関心は高かったものと考えられる。
📌 姉・乙女の存在と、少年の心
龍馬は、乙女に140通もの手紙を送っている。
龍馬は、成人後もどこか少年のようなところがあり、「ねえ、聞いてくれる? 僕はこんなことが出来るようになったんだよ」といった、母親代わりの姉に対する承認欲求が強かった。
それが、龍馬の行動力の源になっていたのだろう。
「故郷に、自分の成長を楽しみにしてくれている人がいる」というのは、人が成長する上で、大きな力になるのである。
📌 黒船、河田小龍、勝海舟との出会い
黒船、河田小龍、勝海舟との出会いが、龍馬が海にロマンを感じ、海を志すきっかけとなった。
龍馬の人生を俯瞰すると、人は強く願えば良き出会い引き寄せ、その出会いを通じて芽生えた閃きを大切にすれば、自ずと道は拓けていくということが分かる。
龍馬が目指したもの
龍馬が目指したものを端的に言い表すと、次のようになる。
● 上も下もない平等な世の中
● しがらみに捕らわれない自由な暮らし
● 争い事は、出来るだけ無血で解決
あの時代に、これらの考え方に至り、実践できたからこそ、龍馬らが「志士」と呼ばれる所以なのかもしれない。
そして、志を持つ人は、ある種このような達観を秘めているものである。
もし、龍馬が生きていたら…
龍馬は「世界の海援隊をやりたい」と言っていたので、もし、暗殺されずに生きていたら、自由で平等な世界を実現するため、海を舞台に東奔西走し、争い事を無血で解決するフィクサーとして活躍したことだろう…
土佐の海を見つめなが、そんな事を考えていました🍀
余談ですが、桂浜で食べたカツオのたたき丼がとても美味しかったです😋
佐藤直紀さんの音楽はいいですね✨