モアイ像を倒したナンヨウネズミ
そんなバカなことが……!ってことがイースター島で起こっていた。
南太平洋に浮かぶ島々、ハワイ、タチヒ、サモア、トンガあたりのポリネシア地域にイースター島はある。この島の面積は淡路島の1/4しかなく、南米大陸から西に3000キロ、最も近い有人島からも2000キロも離れている絶望的な距離感のある孤島である。
もともとは50万年前、三つの火山の噴火によって形成された島で、火口湖も三つ存在する。ただ、川はなく、真水の確保が難しい。現在島の人口は7750人で、コロナ前の観光客は年間15万人を超えており、観光業で成り立っている。燃料と食料は全て本土チリからの輸送に依存していて、近年の世界的なインフレにより、経費は高騰している。そんなことから島の草原を利用した再生エネルギーを積極的に取り入れ、自給自足の道を模索しているが、そんな島民を倒れたモアイ像が軽薄な笑みを浮かべているように見えなくもない。
イースター島の平均気温は19°から20°くらいで、強い貿易風にさらされ肌寒さを感じる。土壌は痩せていて植物も育ちにくい。木はほぼなく、草原が広がっている。島の形成当時から今日まで木々が育たない環境だった・・・
というと実はそうではない。1970年〜1980年にニュージーランドの生物地理学者ジョン・フレンリー氏によって火口湖の堆積物に含まれる花粉を分析したところ、かつては高いヤシの木などが生い茂る森に覆われていたことがわかっている。そして絶滅してしまったヤシの実や種子の残骸からは、多数のネズミの鋭い牙で噛み砕いた跡が多数残されていた。その跡からナンヨウネズミだと判明している。
ナンヨウネズミはポリネシア地域に生息しているネズミでこのイースター島にももともと生息していたのか。もともとのこの島は無人島で先住民ポリネシア系ラパヌイ人がカヌーで移住してきたのだ。先住民ラパヌイ族の伝説によれば、ハバの王ホトゥ・マトゥアが祖国の資源不足に嫌気がさし、新天地を求めた。そして新天地を探すよう命令を受けた七人の航海者がイースター島を発見したとか。
そこで西暦1200年頃、ホトゥ・マトゥア王の一族がこの地に移り住んだと言われている。おそらく、この七人の航海者がイースター島にたどり着いた時にはヤシの木が生い茂る緑の森を海岸線から見えていたに違いない。
おそらく、その眼は新しい生活への希望に光り輝いていたに違いない。この七人の航海者はアフ・アビキといって7体のモアイ像が立ち並ぶ巨石群で、内陸部から海を見つめる形で今に伝わっている。その視線の先は故郷ハバを見つめているとも言われているが、その後の歴史を知るとどんな思いで見つめているかは解釈が分かれるところだろう。ちなみにハバとは現在のソシエテ諸島(タヒチ周辺)、クック諸島とも言われているがはっきりとしたことはわかっていない。そのホトゥ・マトゥア王の一族の移住とともに持ち込まれた鶏や食物の中に非常食としてナンヨウネズミもやってきたというのが有力な説となっている。
ポリネシア人にとってナンヨウネズミは主食ではもちろんないが、補助的なタンパク源として食す文化があった。同じ地域のハワイでも古文化として食用として飼育されていた記録が残っている。ニュージーランドのマオリ文化でも同様にネズミを焼いたり、煮たりして食していたとされている。
仮にナンヨウネズミのオスとメスがイースター島にやってきたとする。なんの試練もなく育った場合、たった10年でその数は天文学的な数に増幅するという。
食料が乏しい絶海の孤島ではナンヨウネズミが貴重な食料となっていたことはもはや疑いようがない。
イースター島に降り立ったラパヌイ族の七人の航海者もまさか一族が再び悲劇に襲われるとは夢にも思わなかっただろう。
現在、イースター島には900体以上のモアイ像が確認されているが、19世紀、ヨーロッパ人が海を渡って訪れるようになった時には、その全てが倒されていた。
モアイ像はイースター島を取り囲むように海岸線を中心に建てられている。平均にして4メートルから5メートルで重さは10トンから20トンある。最大のもので10メートル、75トンのモアイ像がある。ラノ・ララクと呼ばれるモアイ像製作地があり、そこには未完成ではあるが、21メートル、150トンのモアイ像が横たわったままである。モアイ像とは何か。一部の研究者からは、森林がなかったため、強風にさらされる生活から身を守るために建造されたと言われている。確かに筆者も富士山の山頂に登った際、強烈な風に吹き曝しにされる状況を味わったことがある。これが日常となると確かに苦になることはあると思われる。ただ、モアイ像は先祖を意味し、霊的な力(マナ)によって一族の守護するとして崇拝される対象だったようだ。
1722年、オランダ人探検家ヤーコプ・ロッフェーンがイースター島に降り立った。このヤーコプの探検記録から当時のイースター島の様子が窺い知れる。
「我々は、島の海岸線に沿って巨大な石像が立ち並んでいるのを目撃した。これらの像は人間の形をしており、非常に大きく、驚くべきものであった。像の高さは約30フィート(約9メートル)に達し、その上に赤い石で作られた帽子のようなものが載せられていた。」
「これらの像がどのようにして作られ、また運ばれたのかは全く理解できなかった。島には大きな木が見当たらず、これほどの巨石を移動させる手段が想像できなかったからである。」
「島民たちは、これらの像を神聖視しているようであり、我々が像に近づくと、敬意を示すような仕草を見せた。」
またヤーコプは「乾燥していて、不毛な土地」とも書き残している。そこからホトゥ・マトゥア王の一族が移り住んで500年でヤシの木の森林はすでに消え失せていたと考えられる。
木々は住居や薪、漁業に必須なカヌーの材料となってなくなってしまったのだろう。森林がそんな簡単に消えてしまうのかと疑ってしまうが、19世紀の朝鮮半島でも同様のことが起こっており、日本帝国軍が植民地化する際には朝鮮半島はほぼ木々はなく、禿山だったとか。そこに植林したのは日本帝国だった。
1904年(明治37年)に衆議院議員に当選した荒川五郎が朝鮮を視察し、そこで見聞きしたことをまとめて「最近 朝鮮事情」という本を出した。
それを見ると、「朝鮮に山無しといっても差し支えない」と書いてある。民衆が見境なく薪のために伐採した結果ということだ。
そこからもラパヌイ族が生活のため切り倒し、枯渇したことは想像に難しくない。おそらく当初はモアイ像運搬に木々を利用していたと思われるが、だんだんと山肌が目立ってきたので運搬方法も変化していったのではないだろうか。
1955年、トール・ヘイエルダールはモアイ像を木の幹に乗せて180人で引いたのではないかと考えた。ただ、先住民からは「全然違います」と全否定されたようだが・・・
2011年、考古学者テリー・ハントと、カールリボは、「モアイ像は歩いた」というラパヌイ族の伝説からヒントを得て、モアイ像の運搬方法を解明した。それは3組の少数グループに分かれ、左右からモアイ像を引っ張って揺さぶり、後ろで倒れないようにバランスを保つという方法だ。
これなら木々は不要で少しずつだが前にズレてまるで歩いているように見える。
そして木製カヌーはトトラ製のカヌーに姿を変える。トトラとは、イースター島や南米のアンデス地域(特にチチカカ湖)で見られる水生植物の一種で、主に湿地や湖、ラグーンなどの淡水環境で育つ。イースター島では三つの火口湖で自生していた。成長すると2メートルから3メートルあり、スポンジ状で浮力があることから束ねてカヌーに使用していたと考えれている。今でも南米チチカカ湖では現地人がバルサ(船)として使用している。ただ、トトラ製のカヌーも資源に限りがあったため、漁業を継続できたのも森林が消失してからそれほど長い期間ではなかっただろう。
イースター島で森林が再生しなかったのは、ナンヨウネズミがヤシの木の実や種子を食い荒らしたことも考えられる。
土壌は侵食され、農耕でタロ芋やサツマイモを育てていたようだが、ヤシの森を食い散らかしたナンヨウネズミは当然、農作物にも牙を向く。こうしてどんどんと生産は減少の一途を辿っていった。
ラパヌイ族は生活に困窮していき、これが部族間の内部争いに発展していく。
ラパヌイ族は暴走した非常食ナンヨウネズミも一匹残らず食し、おそらく疫病などの蔓延も手伝って衰退していき、食物を全て失い、この時期は食人にも及んでいたと口伝で伝わっている。
モアイ像は各部族の先祖を表し、巨大さを競うようになっていた。ラノ・ララクで最大級のモアイ像を制作している時期がおそらくピークで人口は7000人から15,000人に膨れ上がったと言われている。
残された農耕可能な地域が垂涎の的となって、敵対する部族のモアイ像を倒しあうようになり、これが内戦となっていったと考えられている。
1722年に訪れたヤーコプ・ロッフェーンの証言からこの時期まだ内戦には至っていなかったとされ、おそらく18世紀後半から19世紀にかけてと考えられている。
この内戦で崩壊した社会から、モアイ信仰は廃れ、代わりにタンガタ・マヌ鳥人信仰が発展していく。これは食物や資源不足の中、公平に部族間を調整する指導者を選出する社会が形成された結果だ。この鳥人信仰が不安定な社会を安定させる役割を果たしたと考えられている。
しかし、1860年代、南米ペルーでは農耕の発展から労働力不足に陥っており、大規模な奴隷狩りが行われていた。それはイースター島にも火の粉が降り注ぐ。1862年に奴隷船がやってくると大規模な奴隷狩りによって1500名以上が連れ去られ、過酷な労働を強いられ落命した。さらにその奴隷船が持ち込んだ天然痘が島中に蔓延したことでラパヌイ人は次々と落命し強烈な人口減となり、1860年半ばで島民はたった100名まで減少したと記録が残っている。
非常食として持ち込んだナンヨウネズミによって島の生態系は崩れ去った。かつてハバの王ホトゥ・マトゥアは資源不足で国を捨てたが、それから数百年経って同じ歴史を繰り返してしまったことは皮肉といえよう。
さらに今回は航海するカヌーの材料も術もある意味ナンヨウネズミに食い散らかされたことで全てを海に遮られてしまった。
今もオロンゴ村の岸壁に残る鳥人タンガタ・マヌの絵にラパヌイの人々は何を見出したのだろうか。内戦で殺し合う自分たち、屍体を喰らうしかなくなった自分達にそこまでして生きる無意味さを悟ったのではないだろうか。
そしてふと気持ちよく飛ぶ鳥に目を奪われた。当時ラパヌイ族の人々はその自由に青空を羽ばたく鳥に何を見ていたのだろうか。おそらく、どこにも逃げられなくなって絶海の孤島に閉じ込められた状況に、羽を広げて新しい大地へと飛び立ちたい、もう一度やり直したいという思いからなのではないだろうか。
しかし皮肉にもそれは奴隷船によって現実となった。奴隷となったラパヌイ人は死に絶えたが。ただ、奴隷船とはいえ、初めて海を渡る大航海に大きな不安と恐怖と共に、ラパヌイ族の人々は鳥人タンガタ・マヌとなり、新しい大地へと飛び立つ限りなく小さな希望もあったと信じたいところだ。
かつて守護してきた部族が連れ去られる様子をモアイ像はどのように眺めていたのだろうか。アフ・アキビの七体のモアイ像は何も語らず、ただずっと遠く海を見つめている。