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HCブログサイトのフランケ・グリクシュの再定住報告書記事へのカルロ・マットーニョからの反論と、HCサイトによる再反論

noteの方の更新をサボっていましたが、まー、色々とはやってます。

2019年8月11日に、Holocaust Controversiesブログサイト(以下、HCサイト)に掲載された、アウシュヴィッツ・ビルケナウにおけるユダヤ人の大量絶滅に関するナチスの文書:フランケ=グリクシュ報告は、否定派界隈を多少は賑わせたようです。否定派の人たちは、この「再定住報告」については、米国の修正主義者であるブライアン・レンクによる1991年の記事を非常に信頼しており、捏造で間違いないと判断していました。しかし、それはそれまで知られていた「再定住報告」の原本が存在せず、米軍将校によるタイプライターによるコピー文書しかなかったからなのでした。

ところが、レンクの記事から28年後、HCサイトの投稿者は、ドイツ連邦公文書館からネットを通じて、その原本(原本作成時に同時にタイプされて作成されたカーボンコピー)を発見し、HCサイトで公開したのです。その日本語訳は私の方で以下で公開しています。

もちろん、否定派は黙ったりしているわけがありませんでした。例えば以下。

で、2024年になって、マットーニョの新著にこのHCサイトの記事に対する反論記事が書いてあったのです。そして、それをさらにHCサイトが反論していたので、今回はその二つを翻訳して紹介します。

今回は、先に結論というか感想を述べておきたいと思います。マットーニョの反論はがっかりするものでしかありませんでした。もちろん彼は今や否定派の代表者の一人、ただ単に過去の反論を繰り返すだけではありませんでした。今回は、新たに「本物の」フランケ・グリクシュによるアウシュヴィッツ・レポートがあるとしてその内容を抜粋して紹介しました。

が。

残念なことに、マットーニョは、その「本物のフランケ・グリクシュによるアウシュヴィッツ・レポート」を紹介するにあたって、その同じ文書に書かれていた重要な箇所を省いたのです。それは、HCサイトによる反論記事の「8,悪を見ない」で確認することが出来るでしょう。マットーニョはやはり、ただの否定派の作法に則っただけでした。どうしてマットーニョら否定派は、論敵に簡単に見抜かれるような杜撰なことをやるのでしょうね?

さらに、もっと残念なのは、タイプライター・フォントの件でした。HCの記事では、フォントの分析の箇所は結構記事の目玉であり、そこではドイツの専門家であるベルンハルト・ハース氏による

「マッチングシステムの特徴と活字の特徴から、文書「A」と「B」は非常に高い確率で(mit großer Wahrscheinlichkeit)同じタイプライターで書かれたという結論が正当化される。調査した文書が原本として入手できなかったため、より高い確率の記述は不可能であった。」

という鑑定結果まで載せられていました。ところが、この件に関してマットーニョは、専門家の見解に頼ることすらせず、

第二に、当時の特定のタイプライターのシリーズ全体に、製造上の欠陥により「不良品」のタイプが含まれていた可能性を排除できない。

当然のことながら、これが本質的な点だが、「活字専門家」のいかなる「専門的意見」も、ある文章を書くためにあるタイプライターを誰がいつ使ったかを確かめることはできない。

とだけ述べて、一蹴してしまったのでした。不良品についてさえ、マットーニョは何の根拠も示していません。固有のタイプライターだけの問題ではなく、シリーズ全体に同じ欠陥を持つ不良品があったかどうかを示さない限り、意味のない反論だと思います。もちろんですが、ランズマイヤー・ロドリアン社が製造したAR1という品番を持つタイプフォントの一部に欠陥があったなどという情報は何もありません。マットーニョは暗に、否定派仕草の一つとして、「証明困難」な内容をちらつかせて「おまえら、そこまで調べてねーだろ」と、やったわけです。

後者の「ある文章を書くためにあるタイプライターを誰がいつ使ったかを確かめることはできない」なんてまさに、それそのものであり、そんなことを知る由はありません。それを言い始めたら、いかなる文書証拠も同じことが言えてしまいます。例えば、否定派が求めてやまない「ヒトラーの命令書」が仮に見つかったとしても、マットーニョ論法によれば「それが確かにヒトラーが使っていたタイプライターのフォントであることは認めるが、だからといって、ヒトラーがそのように命令したという証明はできない」のようにさえ言えてしまいます

否定派は、追い詰められると必ずこうした安易な反論を使うのです。もちろん、HCサイトの投稿者は、そうした指摘が入ることさえ予想して、否定派の論拠を丁寧に一つ一つ潰してさえいたのです。マットーニョはそんなのガン無視です。真面目に読んでさえいないとしか言いようのない反論しかしてませんでした。

さて、HCサイトからの再反論ですが、マットーニョへの反論としてはもちろん適切だと思うのですが、若干ですが違和感もあります。冒頭に示した過去の翻訳記事内でも述べていますが、私自身はもう少し、「自分自身だったらどうだろう?」のような立場に置き換えて考えています。

私は、フランケ・グリクシュ少佐は、その時たった一回しかアウシュヴィッツの火葬場を見てないわけですし、ベルリンに戻ってから報告書を作成したのであって、ちゃんと全て正確に覚えていることなどあり得ないと考えています。メモすら取ってなかったと思われます。したがって、記憶に基づいて書かれた内容でしかないため、誤りがたくさんあっても普通なんじゃないかとしか思えません。特にガス室に出入り口が2箇所あるような記述などは、単に記憶した内容を誤って思い出しているだけであり、プレサックのような視察時に休憩があったみたいなややこしい説明はいらないと思われます。この報告書は、旅行報告の一部にすぎず、別に正確さを求められていたとも考えられないので、単にグリクシュが「アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場も見てきました、こんな感じでした」だけを報告しただけなのです。仕事で、例えば業務日報を義務付けられているような会社だったら、ある意味「適当に書いただけ」ってことは誰でもあるんじゃないでしょうか? その程度のものなのではないかと思います。そのレベルから考えれば、実際にはかなり正確だと思います。本当に見てきた人でなければ書けない内容だと思うからです。

では、以下翻訳紹介です。マットーニョの記事が長いですが、中身は大したことはありません。この話題をよく知らない人はまずは最初に示してあるリンク先の記事から読んでください。


https://holocausthandbooks.com/wp-content/uploads/40-docwazta.pdf

▼翻訳開始▼

IV. ユダヤ人の「再定住」とフランケ=グリクシュ「報告書」

ホロコースト正史派は、「ユダヤ人の再定住のための資料」に関する1942年10月2日の旅行許可証に「犯罪的」目的があるとしているが、それは、いわゆるフランケ=グリクシュ「報告」によるものであり、これについては、別のところで脱構築的に詳しく扱った(正史派はこれを「否定主義的」と呼ぶだろう)。新しい資料にアクセスすることで、私はこの問題を建設的あるいは積極的に扱う機会を得た。これらの新しい情報源は、英国の歴史家デイヴィッド・アーヴィングが、リッチモンドのキューにある英国国立公文書館(旧パブ・レコード・オフィス)のこのSS将校に関するファイルから発見したものである。

問題の「報告書」は、1982年にジェラルド・フレミングが初めて発表したもので、それによって彼の驚くべき信憑性(彼の悪意はともかくとして;Fleming 1982, pp.155-157)を知ることができた。

1989年には、このレポートをジャン=クロード・プレサックも引用し、次のように紹介している(Pressac 1989, p.236):

「同日午後、マクシミリアン・フォン・ヘルフ親衛隊大将の補佐官であったアルフレッド・フランケ=グリクシュ衛隊少佐は、次のように述べた[…]。SS中央人事局長(SS Personal Hauptamt、ヴィルメルスドルファー通り98-99、ベルリン-シャルロッテンブルク)は、将軍に同行して「総督府」(ドイツ軍に占領され、ハンス・フランクの権威下に置かれたポーランド領土の半分)を視察し、アウシュビッツ強制収容所に到着した(報告されているが、フォン・ヘルフ将軍が出席していたかどうかは疑わしい)。フランケ=グリクシュはクレマトリウムIIを訪れ、(サロニカのゲットーから)2,930人のギリシャ系ユダヤ人の車列から、労働に適さない者がガス処刑されるのを目撃したとされている。この訪問の後、5月4日夜から5月16日のあいだに、彼は、アウシュヴィッツ・ビルケナウで見たことについての報告書を、主任フォン・ヘルフと親衛隊全国指導者ヒムラーのために書いた。この報告書のタイトルはこうであった:ユダヤ人の再定住行動」(強調はプレサックによるもの)

プレサックはこの文書の起源について次のように書いている(同書、238ページ):

「この報告書は、第二次世界大戦後に発見したリッチモンド(バージニア州)の人物から、1976年にバージニア州ハンプトン・シドニー・カレッジ(米国)のチャールズ・W・シドナー教授に示された。この男、署名によればエリック・M・リップマンと思われるが、当時アメリカ陸軍に雇われ、ニュルンベルク裁判の証拠となりそうな文書を集めていた。彼は、正確な場所は思い出せないが、バイエルン州のどこかで、一連の書類の中に元の報告書のカーボンコピーを見つけたことを覚えているようだ。原本はそこになかった。アウシュビッツにおけるユダヤ人絶滅の全過程を記したこの報告書の価値をすぐに理解した彼は、ニュルンベルグの米国検察官にカーボン原稿を渡さなければならなかったので、自分でタイプしたコピーを作成した。彼は長文で自分が真正なコピーを作成したことを証明し、「エリック・M・リップマン」と署名した。彼がタイプした2枚のシートは現在、第三帝国の他の文書とともにブランダイス大学のタウバー・エステートに保存されている。」

プレサックは、欠陥だらけのドイツ語で書かれた問題の文書(資料18参照)を出版した。しかし、この文書には、プレサックが発表したバージョンとは若干異なる別のバージョンがある。この文書については次のセクションで説明する。テキストの逸脱のほとんどは翻訳中に失われたタイプミスであるが、例外としてカーボンコピーで文章の配置が異なっている箇所が 1 つある。ここでは括弧で囲んで追加する。これが私たちの翻訳である: [142]

「1943年5月4日から16日にかけて、SSフランケ=グリクシュ親衛隊上級大将が総督府を視察した際の報告の一部。[この見出しはリップマンのタイプスクリプトに英語でタイプされている]。
ユダヤ人の再定住行動
アウシュビッツ収容所は、ユダヤ人問題の解決において特別な任務を与えられている。最も近代的な手段によって、総統の命令は可能な限り短時間で、大きな騒ぎを起こすことなく実行される。ユダヤ人のいわゆる「再定住行動」は次のような方法で行われる:
ユダヤ人は特別列車(貨車)で夕方ごろ到着し、特別線路を通って、この目的のために特別にフェンスで囲われた収容所の区画に移動させられる。そこで彼らは荷を降ろされ、まず、収容所司令官と数人のSS将校の立ち会いのもと、医療委員会によって検査され、労働への適性が判断される。ここで、どのような形であれ労働過程に溶け込める者はすべて、特別収容所に入る[143]。一時的に病気になった人々はすぐに病院キャンプに移され、特別な食事で再び健康を取り戻す。基本的なルールは、仕事のためにあらゆる種類の労働力を維持することである。重要な仕事のエネルギーを継続的に破壊する余裕がないため、古いタイプの「再定住処置」は完全に拒否される。
不適格者は、地下の部屋にある、外から出入りできる大きな家屋に収容される。5~6段の階段を下り、長めの頑丈で風通しの良い地下室の部屋に入る。右側と左側にベンチが設置されている。明るく照らされたその部屋には、ベンチの上に番号が書かれている。囚人たちは、新しい任務のために、消毒と清掃が必要であり、そのために完全に服を脱いで入浴しなければならないことを告げられる。パニックや騒ぎを避けるため、服はきちんとたたみ、入浴後に再び見つけられるよう、決められた番号の下に置くよう命じられる。すべてがまったくの静寂の中で進む。そして、小さな廊下を通り、シャワー室のような大きな地下室の部屋に入る。この部屋には3本の背の高い柱がある。地下室の外から、特定の物質を上から降ろすことができる。この部屋に 300 ~ 400 人が集まったら、ドアを閉めて、物質の入った容器を上から柱の中に降ろす。これらの容器がカラムの底に触れるとすぐに、人を1分以内に眠らせるある物質が発生する。数分後、反対側のドアが開き、エレベーターにつながる。{数分後、反対側のドアが開き、エレベーターにつながる。}死体の髪を切り、他の専門家(ユダヤ人)が歯(金歯)を取り出す。ユダヤ人が歯の空洞に宝石、金、プラチナなどを隠していることを知った。その後、死体はエレベーターに乗せられ、一階上の階に運ばれる。大きな火葬炉が10基あり、そこで死体を火葬する。(新鮮な死体は特によく燃えるので、全工程に必要なコークスは25~50kgで済む)この作業は、この収容所から出ることのないユダヤ人被拘禁者たちによって行われている。
この「再定住作戦」のこれまでの成功:500000人のユダヤ人
現在の「再定住」炉の能力:24時間で10000人のユダヤ人。
[手書きメモ:]私は、これがオリジナルの報告書の真実のコピーであることを断言する。
エリック・M・リップマン

ブライアン・レンクは1991年にすでにこのテーマを扱っていた。私は前述の研究で、この「報告書」がひどい偽造であり、信じられないかもしれないがプレサックがそれを承認したことを実証した。この点について私は次のように述べた(2019、202ページ)。

「プレサックの発言は、優れた批判精神を持ち、時には非常に繊細な心を持つ学者が、いかにして役に立たない憶測や詭弁に迷い込むかを示す好例である。彼の推論全体は、何の証拠もないにもかかわらず、問題の文書が本物であるという仮定に基づいており、それゆえ彼の分析は、文書そのものの信憑性、ひいては真正性を調べるのではなく、単に「報告書」の「間違い」を説明することを目的としている。言い換えれば、彼は自分が何を見つけようとしているのかをあらかじめ示しているのである。」

この文書が実際に「ニュルンベルクのアメリカ人検事に」引き渡されたのであれば、どの検事が、どのニュルンベルク裁判のために引き渡したのであろうか[144] - 正統派のホロコースト物語にとってきわめて重要であるにもかかわらず、なぜ、プレサックは、この文書がニュルンベルク裁判のどのファイルにも即座に紹介されず、含まれなかったのか、その理由を尋ねようともしなかったのであろうか。

私は今、本物のフランケ・グリクシュ報告書を引用して、私の論証を極めて肯定的な形で完了させようと思う。この報告書は、この熱心すぎる米軍当局者によって愚かにも全く異なるものに変えられてしまった。

英国国立公文書館のファイル WO 309-2241 にある英国当局者の 2 通の手紙から、報告書が親衛隊大将フォン・ヘルフの文書の中に見つかり、これらの手紙が書かれた当時はドイツ語の原文が存在していたが、その後消失した (TNA、WO-2241、7 ページと 10 ページ) ことが推測できる。残っているのは、アーヴィングによって出版された抜粋と、別のファイルにあるドイツ語の原文の英語訳である。

付録として、この翻訳(資料19参照)を掲載し、アウシュヴィッツに関する抜粋を引用する(同書、6頁):

K.L.アウシュヴィッツ。1943年5月の囚人数は54,000人。収容所は20万人収容に拡張される。10,000人ずつのブロックに分割される。囚人は「ユダヤ人」、ジプシー、ポーランド人、女性。ポーランドの知識層は終生収容所に留まり、化学研究所で働くことになる。この研究室で働く女性は、ソルボンヌ出身のユダヤ人学生である。エッセンのクルップ工場が空襲で被害を受けたため、これらの工場の一部が収容所の近くに移された。囚人たちは3つの新しい作業場で働き、1ヶ月以内に、囚人たちはクルップ社のヒューズ製造の2/3を生産するようになったと言われている。
女性たちは養魚池のために新しい堤防を築き、灌漑溝などを掘らなければならなかった。警備隊は200人ずつの13個中隊からなる。中隊には将校が一人しかいない。彼らは少佐が指揮する「Lagersturmbann」に編成される。アウシュヴィッツ自体は、小さく、荒廃した場所であった。人口11,000人で、そのうち8,000人のユダヤ人が「消滅」した。L.G.ファルベンは、8平方マイルの工業工場を建設し、その一部は外国人労働者と収容所の囚人を使っていた。この工場では、ブナ、ガソリン、特別量のガスが生産される。

別のファイルには、報告書全体の翻訳が含まれている。それはデイヴィッド・アーヴィングによって、彼のウェブサイトに書き起こしで掲載され[145]、また、奇妙なことにコメントなしで、ウェブサイト「ラインハルト作戦収容所」にも掲載された[146]。文書自体は付録(文書20;TNA, WO-309-374)に再録されているが、以下にアウシュヴィッツに関する関連部分を再掲する:

アウシュヴィッツ 私たちはすぐにアウシュヴィッツキャンプに向かった。時13:00にアウシュヴィッツに到着すると、収容所の指導者たちが集められ、Gpf(大将)に紹介された。その中には、親衛隊としてすべての農作業を担当しているシーザー親衛隊上級大佐もいた。Gpfは指導者たちに挨拶し、訪問の目的を伝えた後、夕食に加わった。

収容所の構造と目的を明確に把握するため、ヘス親衛隊中佐が収容所全体を車で一周してくれた。収容所自体は、古いオーストリアの山小屋収容所で、親衛隊中佐ヘスの働きによって小さな町まで拡張された。アウシュヴィッツはドイツ最大の強制収容所である。面積は約18,000モルゲン(147)、収容者数は現在54,000人。この18,000モルゲンのうち、8,000モルゲンは耕作地、4,000モルゲンは魚の飼育場、3,000モルゲンは市場園芸とビニールハウスに使われている。

彼らは馬を繁殖させ、養鶏場を経営している。1932年(1942年と読むべきであろう)には、繁殖対策によって32,000羽のヒヨコが生まれた。その上、収容所には、囚人を監視するために特別に訓練された500頭の選ばれた動物(犬)がいる犬小屋がある。収容所は徐々に拡張され、20万人の囚人を収容できるようになる。革なめし工場、ブラシ工場、肉屋、パン屋、コブ屋、鍛冶屋、キジの飼育場、独自の研究所(植物の病気の研究など)、苗床、ゴムの苗床、東洋の目的に適したさまざまな種類のトウモロコシの試験場がある。入植のための経験を積むため、土壌を最大限に活用する最善の方法がキャンプで試されている。石炭[=寒さ]に耐える特別な果樹が植えられ、カウハサス[中略]で通常使われているトウモロコシが東部用に開発されている。

実際の強制収容所は1万人ずつのブロックに小分けされ、Ustbf/148)が各ブロックを担当することになっている。収容者はユダヤ人、ジプシー、極道、女性である。収容所にはオーケストラがあり、元ワルシャワ放送管弦楽団の指揮者が指揮している。ポーランドのインテリゲンチアは全員終身収容所に留まり、その知識に応じて研究所や科学研究機関で雇用される。化学研究所で働くユダヤ人女性はソルボンヌ大学の学生である。

エッセンのクルップ工場が実質的に破壊されたため、ポーランドとアウシュヴィッツ地区への移転が行われた。収容所には比較的短期間のうちに3つの新しい工場小屋が建設され、1ヵ月後にはクルップ社のマッチ生産の3分の2を引き継ぎ、すべて囚人労働によって運営されることになる。これらの上屋は近代的な原則に従って建設され、清潔で親しみやすい印象を与えている。

農業分野では、彼らは大規模な排水システムのネットワークを構築することで、広大な畑を作ることに成功した。これによって、彼らはこれらの畑を非常に広範囲に耕作することができるだけでなく、採算ベースに乗せて耕作することができるようになった。ポーランドの小さな農場や村は収用され、ポーランドの農民はさまざまな地域に定住した。

完全に放置された養魚池の近くでは、女性たちによって堤防が築かれ、そうして何千モルゲンもの湿地帯が排水され、新しい養魚場の基礎が築かれた。捕虜の警護は、200人ずつの13個中隊からなる「Wachkommando」によって行われている。各中隊にはリーダー(将校)がおり、13の中隊は、Stbfと1人の助手が指揮する、いわゆるLager-sturmbannを形成している。

収容所長の人事報告は非常に興味深い。囚人の個々のグループに対処するのは非常に難しい仕事だ。ジプシーとポーランド人、ポーランド人とウクライナ人は、それぞれ別の扱いを受けなければならない。衛生問題は、管理者にとって非常に重い責任である。ほとんどすべての収容者、特に東部と南東部のユダヤ人は、清潔を保つことに特別な恐れを示すため、この点で訓練を受けなければならない。一部の刑務所では、囚人たちに迷信を捨てさせるために非常に厳しい措置を講じなければならない。彼らは、シラミがいると病気にならないと信じており、シャワーを浴びるときには、シラミを紙で包んで口の中に隠し、新しい服を着るようにしている。

収容所視察の後、アウシュヴィッツ(AUSCHWITZ)をドライブした。一時は11,000人のユダヤ人が住んでいたが、今は8,000人が去ってしまった。この町は、ドイツの指導者たちによってすっかり変わってしまった。アウシュヴィッツの衛生状態は、ポーランドの不始末の典型である。ある砲兵連隊が6年間駐屯していた。明かりも水もなく、便所の近くに掘られた井戸があるだけだった。これらの便所は満杯になると閉鎖され、数メートル先に新しい便所ができたので、下水道、飲料水、下水道という、かなり興味深い循環が生じた。ポーランド軍当局も医務官も、部隊の健康に対する危険性について注意を喚起したことはない。

アウシュヴィッツからそう遠くないところで、4年目のドイツの強さを示す素晴らしい兆候を見た。HG[IGファルベン]は非常に短期間で、12キロ四方に及ぶ工業施設を建設した。これらの工場は、主に外国人労働者と囚人の助けを借りて運営されていた。この工場はドイツ最大の化学工場のひとつで、数ヵ月以内に生産を開始する予定である。ブナ(人工ゴム)ガソリンとかなりの量のガスを生産している。

収容所司令官と彼のアパートで少し話をした後、アウシュヴィッツを出発し、2時間かけてクラクフに到着した。

エリック・M・リップマンが作成したことが明らかな偽フランケ・グリクシュのリポートの存在を、正統派はどう説明するのだろうか?

「Holocaust Controversies」とフランケ=グリクシュ報告書

2019年8月、ウェブサイト「Holocaust Controversies」のブロガーたちは、彼らが主張するフランケ=グリクシュ報告書とされる文章の原文のカーボンコピーのスキャンを公表した[149]。彼らが言うようにセンセーショナルな発見だった。一般的に、私は紙媒体で発表されたものしか本には書かないが、今回は例外である。

その前に、歴史学の方法について一般的なことを述べておこう。

1943年6月28日のZentralbauleitung中央建設管理事務所の書簡の場合と同様、以下に述べるように、この文書の形式的な信憑性の問題は、その真実性の問題とはまったく二の次である。しかし、このカーボンコピーの信憑性を真剣に主張することはできない。「Umsiedlungs-Aktion der Juden」(「ユダヤ人の再定住作戦」)という見出しの文書には、署名も日付もなく、レターヘッドも、いかなる種類のスタンプもなく、また、親衛隊少佐アルフレート・フランケ=グリクシュとも、彼が親衛隊大将および武装親衛隊大将マクシミリアン・フォン・ヘルフとともにアウシュヴィッツ収容所を訪問した1943年5月4日とも、直接的にも間接的にも結びつけるいかなる要素もない。この報告が明らかに虚偽であるのに対して、この訪問が事実であることは、すぐに指摘することができる。

ブロガーたちは、「Sachverständiger für Maschi- nenschriften(活字の専門家)であるBernhard Haas氏による2019年4月3日の専門家意見」に基づき、この文書が本物であると主張している。この意見によると、「一致するシステムの特徴とタイプの特徴から、文書Aと文書Bは、おそらく(mit großer Wahrscheinlichkeit)同一のタイプライターで書かれたと結論づけることができる。調査対象の書類が原本として入手できなかったため、より高い確率の主張は不可能であった。」この結論は、「i、m、n、uの文字がフランケ=グリクシュ報告書とクルーガー宛書簡に欠陥がある」とする専門家の主張にもとづいており、これは、1943年4月22日のフォン・ヘルフからフリードリヒ=ヴィルヘルム・クルーガー(総督府高等SS・警察指導者)への書簡を指している。

仮に、このフランケ=グリクシュ報告書とされるものが、SS-Personal-Hauptamt(SS人事本局)のフォン・ヘルフの事務所から出されたものであるという仮説を仮定したとしても、アメリカ人がベルリンで、すべての機関の事務所から、紙、カーボン紙、タイプライターを含む大量の文書や文房具を押収したのだから、この文書やその他の文章を非常に簡単に記入できたはずであることを考えると、ブロガーたちが採用した検証基準はまったく不十分である。

第二に、当時の特定のタイプライターのシリーズ全体に、製造上の欠陥により「不良品」のタイプが含まれていた可能性を排除できない。

当然のことながら、これが本質的な点だが、「活字専門家」のいかなる「専門的意見」も、ある文章を書くためにあるタイプライターを誰がいつ使ったかを確かめることはできない。

したがって、この文書の内容に注意を払わなければならない。この文書には、「再定住作戦」についての記述があらかじめ提示されており、それは、正統派のホロコースト史学が提唱しているものとおおむね一致しているが、同時に、その記述と現実との間にはきわめて重大な矛盾がある。以下では、最も印象的なものを列挙し、簡単に検証する。正統派の言い伝えに従うのであれば、フランケ・グリクシュが報告書に記述されている出来事の目撃者であり、収容所の職員から直接、正確な情報を得ていたと想定されていることを念頭に置くべきである。この場合、しかしながら、そしてここで私は、フランク・グリックスの分析結果を予想する。フランケ・グリクシュは、精神異常者か、あるいは意図的な詐欺師のどちらかであっただろう。どちらも明らかに受け入れがたい仮説であるため、今のところは「偽フランケ・グリクシュ」と呼ぶのが妥当である。

とはいえ、本文の検討に移ろう。下線(註:ここでは強調)はすべて私によるものである。

1) 「ユダヤ人は夕方近くに特別列車(貨車)で到着し、この目的のために特別にフェンスで囲われた収容所の区画に特別線路で移動させられる

これは、いわゆる「ユダヤ人用プラットフォーム」、すなわち、ユダヤ人を移送する特別列車が到着する3つの線路を備えたプラットフォームが、ビルケナウ強制収容所の内部にあったことを明確に示している。問題は、1943年5月の初めにはまだ存在していなかったことだ。なぜなら、1944年4月16日に初めて使用が許可されたからだ。1944年4月19日、ドイツ国鉄の職員がアウシュビッツ中央建設事務所に伝えた。[150]

擬似フランケ・グリクシュが、当時存在しなかったものをどうやって「見る」ことができたのか?

2) 「不適格者は、地下室の部屋にある大きな家に収容される[…]」

偽フランケ・グリクシュは「火葬場」という用語を知らなかったのだろうか。また、彼は火葬場の数がどれほどあるのか知らなかったのだろうか。この報告書には地下室の部屋について言及されているため、1943年5月の初めには第三焼却棟はまだ建設中であり、何かに使用されていたはずがないため、第二焼却棟について言及している。「目撃者」が、その疑惑の訪問が第2焼却棟で行われたと、あるいは「ただの焼却棟」で行われたと述べるのは、それほど難しいことだったのだろうか?

3) 「それから、小さな廊下を通り、シャワー室のような大きな地下室の部屋に出る。」それが殺人ガス室だと言われている。

この記述は1943年5月4日を指していることに留意しよう。

この問題についての詳細な分析については、他の研究を参照する[151]。ここでは、1943年6月24日に中央建設局から収容所本部に第三焼却棟が引き渡されたことを指摘するにとどめる。引き渡しプロトコルに添付された地下の目録には、死体安置所#1に14のシャワーが記載されているが、これらは本物のシャワーであり、ビルケナウ収容所の「衛生設備改善のための特別措置」プロジェクトと明確な関係があった。しかし、このプロジェクトはハンス・カムラーによって1943年5月7日にのみ実施された。つまり、フランケ=グリックスの訪問から3日後である! これらの措置が正式に導入されたのは1943年5月であったため、1943年3月31日に正式に引き渡された第2焼却炉の地下室の目録には、シャワーが記載されていない。[153]

これらのシャワーの設置期間は、ロバート・ヴァン・ペルトの証人として卓越したヘンリク・タウバーによっても確認されており、彼は次のように述べている。[154]

「当初、脱衣室にはベンチも洋服掛けもなく、ガス室にはシャワー[tuszów]もなかったことを強調しておく。どちらも、脱衣室とガス室を偽装し、浴室と消毒室として見せるために、1943年秋になってはじめて設置された[w jesieni 1943 r.]。」

偽フランケ=グリクシュが、ガス室とされる場所で、存在しないシャワーを「見た」ということがどうして可能なのか。

4) 「この部屋(とされるガス室)には、背の高い柱が3本立っている。地下の部屋の外から、特定の物質をその中に降ろすことができる。」

しかし、ホロコースト正史派は、死体安置所1号室には4本のチクロンB投入柱が設置されていたと主張している(Długoborski/Piper 2000, Vol. III, p. 166)。では、偽フランク・グリックスが「見た」のは3本だけだったと、どう説明できるだろうか?

5) 「この部屋に300~400人が集まると、ドアが閉められ、物質の入った容器が柱の上から下ろされるこれらの容器が柱の底に触れるとすぐに、特定の物質が発生し1分以内に人を眠らせる数分後、反対側のドアが開き、エレベーターにつながっている。」

a) 犠牲者とされる人々の密度は極めて低い。正統派は通常、少なくとも2,000人の犠牲者について言及している(同書、169ページ)。報告書の著者の考えでは、2,000人の殺害には5回のガス処刑が必要だったはずだ!

b) 報告書によると、そのガス室には2つのドアがあり、反対側に1つの入口と1つの出口があることになっているが、これは間違いであることが知られている。偽フランク・グリュックスが、存在しないドアを「目撃」したというのか?

Holocaust Controversiesのブロガーたちがこの誤りを説明しようとするやり方は決定的ではなく、ジャン=クロード・プレサックによってすでに試みられている。

「したがって、アウシュヴィッツ研究家ジャン=クロード・プレサックが指摘しているように、訪問中に中断があったと推測できる。もし、ガス室が開けられる前にSSの訪問者が地下室を出て、その後、別の入り口から地下室に戻った(あるいは戻らなかった)のであれば、ガス室の片付けに関する彼の混乱は誤解として説明できるだろう。」

この推測は明らかに無意味であるが、ここではそれを真剣に議論してみよう。

図1は、偽フランケ・グリックシュが目にしたであろう第2火葬場の地下の一部を示している(プレサック、1989年、303ページ)。

図1:死体安置所1番(LK 1)への3つの行き方:1. 死体安置所2番(LK 2)を通って。2. 建物の正面玄関近くの階段を通って。3. ガタガタ揺れる死体用エレベーター(Aufzug)で下に降りる。

報告書によると、偽フランク・グリクシュは中庭から入り口を通って第2死体安置所(脱衣室とされる)に入り、「5~6段の階段」を降りた。「それから、小さな廊下を通って、シャワー室のような大きな地下室の部屋に入る。」この「小さな廊下」とは、イラスト1にある長さ5m、幅1.97mの「Gung」のことであろう。この「Gung」は、クレマトリウムIIの設計図では、死体安置室♯2と、偽フランケ=グリクシュの知らない大きな「控え室」(Vorraum)とを結んでおり、そこから、ガス室とされている場所に右側からアクセスできるようになっている。プレサックの仮説に従うと、「Gung」を渡った後、偽フランク・グリクシュは控え室に入り、死体安置室1のドアを見つけ、恐らく中を覗いた。その後、理由は不明だが視察は中断され、1階で視察が再開された。死体用エレベーターは親衛隊少佐を2階に運ぶにはあまりにも不適切であり、また、非論理的な第2死体安置室への逆ルートを除外すると、彼は2号室を経由して外部の裏階段から外に出た。それから、再び1階への訪問が中断され、彼は再び地下室に連れて行かれ、死体安置所#1のドアを再び見たが、今度はそれが以前に見たドアの反対側にあるものだと信じた。

図2:ブロガーが描いた、おそらく偽フランケ・グリュックスが歩いたであろう道の絵。

目撃者はどうやって地下室に戻ったのか? 最初の時と同じ方法(死体安置所#2を通って)か、彼がちょうど出て行った方法(外階段と部屋2を通って)か、あるいは死体用エレベーターを使う方法かもしれない。彼は最初の2つをよく知っていたし、また「Fahrstuhl」と呼ぶエレベーターも知っていた。「数分後、反対側のドアが開き、エレベーターにつながっている。」したがって、エレベーターを使って地下室に降りたとしても、偽フランク・グリクシュは、さっき通ったドアを反対側のドアと間違えることはありえない。

図3: 偽フランケ・グリクシュ報告書に実際に記述されている経路: 第2死体安置室(LK 2)から通路(Gang)を通って直接ドアT/1へ(控え室/Vorraum)をスキップし、 エレベーター(Aufzug)を無視して)、そこから死体安置室1(LK 1)に入り、その部屋を通って反対側の端まで行き、存在しないドアT/2から出て、そのドアの向こうに存在しないエレベーター(Aufzug)を見る。

このような説明は、ただおかしなだけでなく、失礼でもある。なぜなら、目撃者とされる人物が完全な愚か者であるかのように思わせるからだ。つまり、その人物は、別の方法でそこに入ったというだけの理由で、ついさっきまでそこにいた場所を認識できないのだ!

ブロガーたちは、前述の地下の設計図を幼稚な方法で単純に解釈し、死体安置所2から死体安置所1への経路を示した(図2)。なんと驚くべき説明だろうか!

しかし実際には、偽フランケ・グリクシュ報告書にはまったく中断がない! そこで説明されている途方もない旅は、図3(その青写真はプレサック1989年、327ページから引用)で私が説明したものである。

この偽の目撃者は、死体安置所2番からGungとVorraumを通り抜け、T/1のドアから死体安置所1番に入り、中にある「3本の背の高い柱」を見、部屋の端まで行き、存在しないドアT/2から存在しない隣の部屋に出て、そこで「エレベーター(Fahrstuhl/Aufzug)」を見た!

c) 偽フランク・グリクシュは、チクロンBやシアン化水素について何も知らなかった。彼にとって、シクロンBの缶(Büchsen)は単純な容器(Behälter)であり、多孔性の担体材料に吸収されたシアン化水素ではなく、「ある薬剤」や「ある物質」についてのみ話していた。彼の話では、容器に入っている「物質」は「カラム」に注がれるのではなく、容器自体がカラムの底に達すると「ある物質」を発生させるのだという。その奇妙な効果は極めて早く現れた。なぜなら、被害者は「1分以内」に眠りに落ちたからだ! しかし、それだけでは十分ではない。「数分後」、被害者は明らかにまだ眠っている状態で、髪を切られ、歯を検査された後、炉に運ばれた。つまり、眠っている間に焼かれたのだ!

6)「この『再定住作戦』のこれまでの成功:50万人のユダヤ人」

フランチシェク・ピーパーによると、1943年4月までに33万のユダヤ人がアウシュヴィッツに送還された[155]。チェコは、『アウシュヴィッツ年代記』の中で、それまでに約24万5000人のユダヤ人がガス処刑されたと主張しているが、これはこの報告で主張されているユダヤ人の半分以下である。

7)「死体を火葬する大型炉が10基ある。(死体は新鮮なほどよく燃えるため、全工程で25~50kgのコークスしか必要ない。)...再定住炉の現在の処理能力:24時間で1万人のユダヤ人」

副詞 "there "は火葬場Ⅱを指しており、火葬場Ⅱにはそれぞれ3つのマッフルを持つ5つの炉があった。偽フランケ=グリクシュがそこで10個の炉を「見た」ということをどう説明すればよいのであろうか?

「Oefen」の「炉」の1943年5月4日の「現在の収容能力」(したがって、正史派の物語によると、当時使用されていなかった火葬用の穴は除外される)は、24時間以内に1万人の「ユダヤ人」であった。第3火葬場はまだ稼働していなかったため、この推定収容能力は第2、第4、第5火葬場に分散しなければならない。マッフルの数という唯一知られている要素に基づいて細分化を行うことができる。火葬場IIには15、火葬場IVとVを合わせると16の炉があったため、火葬場IIの24時間あたりの処理能力はおおよそ4,840体、他の2つの施設では5,160体となる。

しかし、この主張された能力を利用するためには、(4,840+ [300から400]) 12から16のガス処刑が24時間以内に第2焼却炉で実施されなければならなかっただろう!

したがって、問題の報告書では、ビルケナウの4つの焼却棟すべてで、24時間以内に14,840体(焼却棟IIとIIIで9,680体、焼却棟IVとVで5,160体)の死体を焼却できる能力が想定されていたと言える。これは、1943年6月28日付の手紙におけるビルケナウの焼却炉に関する「公式」数値の3倍以上である(それ自体すでに馬鹿げている):ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトが「本物」とみなす24時間以内の4,416体の死体数に対して。実際、彼は、ビルケナウの焼却炉の46個のマッフルはそれぞれ、1日に96体の死体を焼却できる(96×46=4,416)か、1時間で1つのマッフルで4体の死体を焼却できる(4×24×46=4,416;ヴァン・ペルト、345ページ)と述べている。

しかし、偽フランケ・グリクシュ報告書が主張するように、31個のマッフルで24時間以内に1万体の死体を収容できるという能力は、24時間以内に1マッフルあたり(1万体+31体)322体、1時間あたりに1マッフルあたり(322体+24体)13体の死体を収容できることを意味する。

次に、主張されているコークスの消費量に目を向けよう。1943年6月28日の書簡と、1943年3月17日に民間人従業員ルドルフ・イェーリングが書いたファイル・メモから、第一章で述べたように、火葬場II/IIIの「連続稼動中」の12時間以内のコークス消費量は2,800kg、火葬場IV/Vでは1,120kgであり、ヴァン・ペルトは、死体の火葬には3.5kgのコークスが必要であると結論している(2002, p. 122)。擬似フランケ・グリクシュ報告書では、「全過程」という表現は明らかに火葬の全過程を指しているが、それが何体分の遺体に対してなのかは不明である。

1943年3月17日付のイェーリングのファイルメモによると、当該の火葬場における「連続運転中」の24時間あたりのコークス消費量は次の通りである。

火葬場II:5,600kg
火葬場IV:2,240kg
火葬場V:2,240kg
したがって、合計10,080kg。

ヴァン・ペルトの推論を採用すると、死体を火葬するには(10,080kg/日 10,000遺体/日)1kgのコークスが必要だったことになる!!「全工程」が単独の死体の火葬を指している場合、コークスの日量は(25kgから50kg×10,000)250,000から500,000kgとなる。どう見ても意味をなさない。したがって、報告書に記載されている25~50kgという消費量は意味をなさない。

副次的な効果として、偽フランケ・グリクシュとヴァン・ペルトの主張は相互に排他的である。つまり、どちらか一方を認めるのであれば、もう一方を否定しなければならず、その逆もまた真実である。したがって、ヴァン・ペルトが著書『アウシュヴィッツの論拠』の中で、偽フランケ・グリクシュ報告書についてまったく言及していない理由は容易に理解できる。

8)「ユダヤ人は歯の空洞に、金、プラチナなどの宝石を隠していることを知った。」

ユダヤ人の歯はどれほど大きく、また、歯の空洞はどれほど大きかったのか。そして、空洞化した歯にともなう歯痛にどれほどの期間耐えることができるだろうか? 多くの証言によると、ユダヤ人女性はこのような貴重品を膣に隠していたことがあったため、特別行動部隊の男たちは、殺害した女性たちの膣を定期的に捜索しなければならなかった。歯をドリルで穴を開け、ほとんど何も入れられないほど小さく、時には痛みを伴う空洞に貴重品を隠すなど、まったく意味がない。

これほど明らかなナンセンスがあるにもかかわらず、ブロガーたちはこの報告書を「絶滅収容所におけるユダヤ人大虐殺に関する最も詳細かつ明白な当時のナチス文書」として振りかざしているのだ!

まったくの無能な人物か悪意のある人物でなければ、この馬鹿げた嘘の集まり、技術的なナンセンス、粗野なポーランドのプロパガンダの捏造を真に受けることはできない。これらの嘘はすでに戦時中に広まっていた。例えば、50万人という犠牲者数は、1943年2月のレジスタンス活動家「タデウシュ」の報告書にすでに登場しており、その後、他の報告書でも繰り返し登場している(Mattogno 2021a, p. 150を参照)。

「当初から、登録済みおよび未登録の受刑者約50万人が死亡しており、そのほとんどはユダヤ人、高齢者、女性、乳幼児である。」

3つの火葬場における10,000体の遺体の焼却能力という主張は、すでに「1943年7月10日、アウシュビッツ」の日付が記載された「アウシュビッツ強制収容所の説明」に記載されていた(同書、163ページ)。

「1日に1万体の遺体を焼却できる3つの大型火葬場が現在ビルケナウに建設され、絶え間なく遺体を燃やしている。地元住民はこれを『永遠の炎』と呼んでいる。」

そして、睡眠誘発「物質」を紹介する3つのコラムは、ウェッツラー=ヴルバ報告の3つの「屋根トラップ」から明らかにインスピレーションを得ている。 リップマンのタイプ原稿とカーボンコピーの違いについて少し触れておこう。前述の通り、リップマンの原稿には、カーボンコピーには存在しない誤字や表現の不適切さが数多く見られる。

カーボンコピーには、リップマンのテキストにはないカンマとピリオドが正しく挿入されている(「Gold{,} Platin usw.)」)。一方、リップマンのテキストにはない誤りが1つある(「gelassen」ではなく「gelässen」)。リップマンが誤りを故意に書き加えたと仮定するなら、これらは特に珍しいことではない。しかし、驚くべきことは、カーボンコピーの1文がリップマンの原稿とは異なる形で書かれていることだ。

"Einige Minuten Später öffnet sich die Tür an der anderen Seite, die zu ei- nem Fahrstuhl führt." Lipmann
"Einige Minuten später öffnet sich an der anderen Seite eine Tür, die zu einem Fahrstuhl führt." Carbon copy

文法的に言えば、この文章におけるリップマンの単語の並べ方は誤りであり、「ドア(Tür)」ではなく「反対側(Seite)」がエレベーターに通じているという意味になってしまう。リップマンがカーボン紙の文章をただ単にタイプし直しただけなら、単語はカーボン紙の通りに並べられるべきだが、実際にはそうはなっていない。リプマンがカーボンコピーからテキストを単にタイプし直しただけなら、単語はカーボンコピーの通りに並ぶはずだが、実際にはそうではない。さらに、このテキストの単語で大文字のウムラウトで始まるものは、リプマンのテキストでは「Öfen」と「Ärztekommissionen」と表記されているが、カーボンコピーでは「Oefen」と「Aerztekommissionen」と表記されている。小文字のウムラウトは両方のバージョンで同じように綴られているので、使用された両方のタイプライターにはウムラウトが装備されていたはずである。カーボンコピーのタイプライターのタイプが大文字のウムラウトを使用していない理由としては、タイプ方法を知らなかったか、あるいはこの特殊な方法でタイプすることに慣れていたかのどちらかである。ドイツ語を母国語とするタイプライターには、この2つの選択肢のいずれも当てはまらない。

これらの事実は、ひとつの可能性の高い説明を示唆している。すなわち、リップマンのテキストには多数の誤りや不適切な表現があり、それをタイプライターで(完璧ではないにしても)より良いドイツ語にタイプし直した人物は、ウムラウト付きのタイプライターや「B」の使用に明らかに不慣れであり、どちらのテキストでも「B」は使用されていない。

つまり、これらの手がかりは、リップマンの文章がオリジナルであり、カーボンコピーはそれをタイプし直して体裁を整え、改善したバージョンであることを示している。しかし、その文章はドイツ語を母国語とする人物によってタイプされたものではないか、あるいは完全に機能するドイツ語のタイプライターで作成されたものではない。リップマンが「オリジナルレポートの正確なコピー」と主張しているのは事実だが、この記述はタイプされた後に手書きで書き加えられたものであり、この疑いをさらに深めるものである。

最後に、いくつかの考慮すべき点がある。実際のフランケ・グリクシュ報告書は、英国によって押収され、英語に翻訳されたことで有名である(ドイツ語の原本は紛失または破棄された)。この翻訳のタイトルは「SS大佐フランケ・グリクシュによる1943年5月4日から16日までのポーランド通過任務に関する報告書」である。ホロコースト論争ブロガーたちは、この報告書を「付録A」として公開している。この報告書には、偽フランク・グリクシュ報告書の文面は含まれておらず、それについて言及している部分も、ユダヤ人の大量虐殺について言及している部分もない。この事実に対するブロガーたちの説明は幼稚である。

「アルフレッド・フランケ=グリクシュがアウシュビッツを訪問した際の、通常であれば長大な報告書(付録A)は、非常に短いものであり、ユダヤ人問題の最終的解決のための大規模なビルケナウ収容所の役割についてはまったく触れられていない。この微妙な問題が『ユダヤ人の再定住活動』と題された独自の報告書に分割されていたのであれば、この省略は十分に理解できる。」

この場合、実際のフランケ=グリクシュ報告書には、少なくとも「Umsiedlungs-Aktion der Juden(ユダヤ人の移住計画)」という文章への言及が含まれており、アウシュビッツの特定の側面が別の報告書で暴露されていることを読者に知らせるはずである。しかし実際には、報告書には火葬場や火葬炉、あるいは施設についてまったく言及されていない。この問題については後で再び取り上げる。

図4:英国のファイルメモ フランケ・グリクシュ報告書

フランク・グリクシュと上官は4月4日午後1時にアウシュビッツに到着した。 親衛隊上級大佐(ヨアヒム・)シーザーを含む数人の収容所職員が親衛隊上級大佐(フォン・ヘルフ)に紹介された。シーザーはアウシュビッツ農業事業体のリーダーであり、収容所の所長ヘス以外で名前が挙げられた唯一の職員であった。この紹介の後、全員で昼食をとった。その後、親衛隊中佐ヘスが2人の訪問者に案内をした。この報告書は、シーザーの農場について詳細に記述している。また、ユダヤ人についても次のように述べている。

「衛生問題は管理当局にとって非常に重い責任であり、ほぼすべての囚人、特に東部および南東部出身のユダヤ人は、自分自身を清潔に保つことに特別な恐怖心を示すため、この点について訓練を受けなければなりません。一部の場所では、囚人の迷信を訓練するために非常に厳格な措置が必要です。彼らは、シャワーを浴びるとき、シラミを紙に包んで口の中に隠し、新しい服を着るようにしています。シラミがいる人は病気にならないという彼らの考えによるものです。」

収容所の視察を終えた後、一行はアウシュビッツ市に向かい、さらにモノヴィッツのIGファルベン工業の工場も視察した。そこで彼らは、現地収容所の所長と短い会話を交わし、その後「2時間の旅」を経てクラクフへと向かった。実際には、午後早い時間から始まったビルケナウ収容所の視察は数時間しか続かず、主にアウシュビッツ周辺の数多くの農業事業に焦点が当てられ、焼却炉についてはまったく触れられなかった。

真のフランク・グリクシュ報告書のアーカイブ参照は、TNA、WO 309-374である。しかし、それと直接関係するもう一つのフォルダ、TNA、WO 2241には、報告書の英語要約が含まれており、その注釈には「SS Ograf VON HERFの文書の中に原本が発見された」と説明されている(図4参照)。

図5:英国による本物のフランケ・グリクシュ報告書の要約。

したがって、偽フランケ=グリクシュ・レポートはこれらの文書の一部ではなかった。

その幼稚な表面的な見方では、フォン・ヘルフとフランケ=グリクシュの旅の理由について、ブロガーたちは自分自身に問いかけることさえしない。フォン・ヘルフが率いる親衛隊人事本部は、親衛隊中央保安局を含む親衛隊の11の機関のうちの1つであった。これらは「親衛隊全国指導者の指揮下にある、党の独立した組織」であった。親衛隊人事本部の任務は、1943年のNSDAPの組織書で次のように説明されている。[156]

「SS将校全員の人事管理、およびSS大将、武装SS、SDの入隊、昇進、除隊に関する事項。さらに、SS在籍者名簿、名誉剣および名誉頚飾章の授与、およびSS大将の昇進に関する事項も扱う。」

アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅疑惑に関する報告書は、この部署の管轄外であることは明らかである。そのような報告書が作成される場合、その作成責任は国家保安本部の管轄となる。

第二の問題は、フォン・ヘルフとフランケ・グリクシュの出張は誰のために行われたのか?そして彼らは誰に報告すべきなのか?

フォン・ヘルフにそのような任務を命じることができたのは、彼が唯一の直属の上司であったヒムラー自身だけだった。ただし、フォン・ヘルフが自らの意思で旅に出た場合は別である。前者の場合、フランケ=グリクシュ報告書の最終的な受領者は明らかにヒムラーであり、後者の場合、フォン・ヘルフであった。このような状況下で、フランケ=グリクシュが、自分の責任ではない問題について、なぜ、主たる報告書には一切言及することなく、別の報告書をまとめたのか、と真剣に考えることはできない。

最後の観察である。真のフランケ・グリクシュ・レポートはP.6にこう書いている:

「トラウニキからルブリンに戻り、特殊企業ラインハルトの視察を行った。この支社は、ポーランド政府管区内のユダヤ人の流動資産のすべてを回収する任務を負っている。」

続いて、ラインハルト(t)作戦についての記述がある。TNA, WO 2241の要約では、その記述は次のように要約されている(図5):

「特別行動ラインハルト ユダヤ人の財産を押収する特別部隊である」

したがって、実際のフランケ=グリクシュは、ユダヤ人絶滅作戦である「ラインハルト作戦」については何も知らなかった。

▲翻訳終了▲

▼翻訳開始▼

カルロ・マットーニョとフランケ・グリクシュ・レポート

カルロ・マットーニョはイタリアのホロコースト否定論者であり、修正主義的歴史家である。

「カルロ・マットーニョとは誰か」という質問に対するChatGPT3.5の発言。熟練した弓手が的の中心を射抜くような正確さで、ブログ投稿を書くのにAIチャットボットが支援する際に、何がうまくいかない可能性があるだろうか。おそらく、マットーニョが「一般的に、私は書籍では紙媒体で出版されたもののみを考慮する」(マットーニョ著『コークス、木材、そしてチクロンBのアウシュヴィッツへの搬入:ホロコーストの証拠も痕跡もない』107ページ)と書く理由を理解するのに役立つだろう。

私が単純に「まあ、批判に直面するのが怖いからだろう」と思うところを、チャットボットはより洗練された分析結果を提示する(我らのニック・テリーだけが不十分だと考え、即座に最低10~15のより詳細な箇条書きを追加するような分析結果だ)。

マットーニョがインターネットの記事やブログよりも紙媒体の評論を好む理由は、いくつかの要因によるものかもしれないが、彼の正確な動機を特定するのは推測の域を出ない。考えられる理由としては、以下のものが挙げられる。

1 . 信頼性への懸念:マットーニョは、印刷された資料の方がオンライン上のコンテンツよりも信頼性が高いと認識しているのかもしれない。伝統的な出版形態である学術誌や書籍では、査読や編集部の精査がしばしば行われるが、これは自己出版のインターネット記事やブログと比較すると、より厳格な検証プロセスであると見なされる可能性がある。

2 . 選択的な関与:特定の形式での批評を要求することは、マットーニョがどの批判と関わるかを選択することを可能にするかもしれない。これは、オンライン空間ではより一般的であるかもしれない、形式が不十分であったり、厳密に調査されていない批評を避ける方法である可能性がある。

3 . 権威への訴え:批評を印刷物という形式に固執することは、確立された学術的慣行と関連付けることで、彼の研究に正当性を付与しようとする試みである可能性がある。これは、彼の見解を学術的で考慮に値するものとして位置づけようとする試みである可能性がある。

4 . 物語のコントロール:印刷物は一般的にオンラインコンテンツよりも寿命が長い。批評を従来の出版に限定することで、マットーニョは自身の作品に関する物語をコントロールしようとしているのかもしれない。印刷物はより永続的な存在であり、より慎重に管理されているとみなされることが多いからだ。

(ポイント4. 母国語であるドイツ語に訳しても理解できない。そして、何かが翻訳で追加されることを期待して、何度も前後に確認した。)

「紙媒体で出版されたものだけを考慮する」というマットーニョのアプローチは、厄介な事態を招いた。多くの学者、特にホロコースト史の広大な分野に携わる学者たちにとって、彼は精彩を欠いた研究者と見なされており、多くの人が彼の研究に回答を与えることを拒否している。対決の準備をしているようなものだが、誰も現れる気配がない。弾丸を無駄にしたくないからそれを避ける人もいれば、武器の選択が合わないからそれを避ける人もいる。誰もいないのか? いや、まったくいないわけではない! 不屈のブロガーの小さなグループが残っている。正午に立ち、ガリアの剣のように鋭い論拠を武器に...あるいは何かを武器にしている。

とにかく、ルールは破るためにあるのだ。2019年に私は『ナチスによるアウシュヴィッツ=ビルケナウのユダヤ人大量絶滅文書:フランケ=グリクシュ報告書』(日本語訳)を発表したが、マットーニョは「この場合は例外だ」と説明している。そもそも意味をなさないルールに対する例外。ホロコースト否定活動のほとんどはオンラインで行われている。ホロコースト否定論の論破のほとんどはオンラインで行われている(デビッド・アーヴィングが裁判にかけられない限り)。もし、すべてのブログ投稿をオンデマンドで書籍として出版すれば、それらは突然、検討の対象となる資格を得るのだろうか?

その一方で、この規則は作業量を減らす。マットーニョは、私たち以外には誰も読まないであろう5万ページもの文章を新たに書く必要がなくなる。私たちは、いくつかの投稿記事を作成する必要もなくなる。ウィンウィンだ。個人的には、この作業モデルを維持すべきだと考えている。

しかし、例外がある今、私は返事をしなければならない。ほとんど病的だ。申し訳ないが、根拠のないマッ トーニョの主張を無視することはできない。

1.メンタル面の低下

このブログの仕組み2006年以来(だと思う)、holocaust controversiesへの投稿は同じ構造になっている:

  • 日付

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  • 本文

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投稿の著者の情報を探している場合は、本文をスクロールするだけでよい。マットーニョ氏は、過去に当ブログを読み、引用した経験があり、当ブログに精通している。フランク・グリクシュの投稿を検証する中で、初めて当ブログを目にしたという新参者ではない。

しかし、ブログの構造に精通しているにもかかわらず、マットーニョは『アウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人大虐殺に関するナチ文書:フランケ=グリクシュ報告書』は「著者の帰属なしに」出版されたと主張している(107ページ)。私はすでに、彼の精神的な衰えについて、別の場所で疑問を呈している。

2.オウム返し

提示された議論に積極的に関わるのではなく、彼はブログ記事ですでに十分に論じられた点を繰り返し述べている。これは、読解力の問題か、認知的な課題が原因かもしれない。

例を挙げよう:

項目1. p.109。ユダヤ人の「収容所の特別な区域」への到着と時期の矛盾の主張。

この件については、付録Cの「キャンプの特別指定地区における特別トラック」と、ブライアン・レンクに焦点を当てた付録Dで広く取り上げている。さらに、「ヴァンサン・レイヌアールとフランケ・グリクシュ・レポート(パート1)」(日本語訳)と題された別の記事で、より詳細な調査が可能である。要約すると、報告書に時期の矛盾はない。フランケ・グリクシュは、ユダヤ人専用のスロープがビルケナウにあったとは述べていない。

項目2.p.109。「火葬場」という用語は使用していない。これは付録Cの「大きい家」[größeres Haus]のセクションで対処されている。

「彼のメッセージの主旨に従えば、被害者は運命に騙され、苦しまない。彼が火葬場を、無知な人や被害者がどう見るかを想定して、大きな家と呼んだのはそのためだ。」


翻訳者註:そうかもしれないのですが、いまいちピンとこない説明でもあります。私としては、グリクシュがどう感じたにせよ、「大きな家」が火葬場建物を指すことは明らかであり、偽造を疑う根拠にはなり得ないと思います。単なる視察報告であり、正確性が求められている文書とは考えられないものなので、何か問題があるとは思えません(この再定住報告書全体がそうです)。むしろ、偽造ならばもっと正確に書かれたはずでしょう。


...そして付録Dのカルロ・マットーニョの項を参照:

[...]
しかし、明らかなのは、報告書の著者はその用語を使用したくなかったということ、そしてその場所を「大きい家」と表現することにしたということだ。その動機は何か? 報告書は大量虐殺を、被害者に対しても、また暗に加害者に対しても、最も肯定的な方法で描写している。その焼却炉を「大きい家」と呼んだ理由は、外からでは自分が本当は屠殺場に連れて行かれていることに気づかないという点を強調するためだったのかもしれない。

項目6:113ページ。「50万人のユダヤ人」。このブログ投稿のセクション「この「再定住活動」のこれまでの成果:50万人のユダヤ人」で既に言及済み。

[...]

50万人という数字は、当時、アウシュビッツの親衛隊が流布した誇張された数字のように思われる(実際の記録ではなく、彼らが保持することを許されなかった記録に基づいて、稼働時間、収容能力、輸送予定数などを基に算出された可能性がある)。アウシュビッツの親衛隊当局は、登録された収容者については責任を持っていたが、収容所の記録に登録されることなく、すぐにガス室に送られた人々については責任を持っていなかったため、正確な数字を知る必要はなかった。

もう一つのポイントは、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスは、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボルといったラインハルト作戦収容所の犠牲者数に関する報告に追いつくために、アウシュビッツの犠牲者数について自慢したかったのではないかということだ。

戦後、ヘスは「ユダヤ人問題の最終的解決」に関する原稿の中で、アウシュビッツへのユダヤ人移送について、ある程度まともな数字を提示している。彼によると、その数字は「アイヒマンまたは彼のスタッフから」入手したという。1944年になって初めて入手可能になった数字である可能性が高い。

1943年5月までの50万人という死者の数は、戦後、終戦時および終戦後に流布されたはるかに高い数字を伴う偽造としてはあまりにも低すぎる。ソ連は、アウシュビッツでの死亡者数を400万人と主張していた。アウシュビッツの脱走者であるルドルフ・ヴルバとアルフレッド・ヴェツラーは、「1942年4月から1944年4月」の間に176万5000人のユダヤ人がアウシュビッツでガス処刑されたと報告している。


翻訳者註:これも、そうかもしれない説の一つですけど、例えばの話、グリクシュとヘスの会話の中で…
グリクシュ「だいたい、今までで何人くらいのユダヤ人を?」
ヘス「そうですねぇ、実は知らないのです」
グリクシュ「知らない? あなた責任者ではないのですか?」
ヘス「そうなのですが、上から数の記録を取るなと命令されていて」
グリクシュ「なるほど。でもそれじゃ、報告に書けないので大雑把でもいいので」
ヘス「うーん、多分、50万はいかないと思うのですけど」
グリクシュ「50万ね、なるほど、ありがとうございます」
みたいな会話があったとしても別にいいんじゃないでしょうか? もちろん、特に根拠も何もありません。しかし、なぜグリクシュがそう書いたのかについては「わからない」のですから、これもまた偽造を疑う根拠にはなり得ないと思われます。肝心なことは、マットーニョら否定派は疑うべき根拠ばかり挙げるだけで、合っている部分については何も言わないことです。グリクシュ文書は、大体の内容は合っているからこそ、否定派にとっては「否定しなければならない」文書なのです。


3. 円形の銃殺隊

109ページの項目3に関して、マットーニョは、1943年5月に第2焼却棟にシャワー・ヘッドが存在したことの証拠として、ユダヤ人特別行動班(Sonderkommando)のメンバーであったヘンリク・タウバーを引き合いに出し、「偽フランけ・グリクシュが、ガス室とされる場所に存在しないシャワーを『目撃』したなどということはあり得るだろうか」という結論に達している。しかし、タウバーは同時に、マットーニョによって「明白な偽証者」であり「故意の詐称者」であると退けられている(マットーニョ著『アウシュヴィッツ第2強制収容所』149ページ)。自分の主張に都合のよいものを無差別に持ち込んでおり、そのアプローチが系統的かつ理性的に正しいかどうかを評価していない。

タウバーはシャワーヘッドが「1943年の秋」に設置されたと述べている。タウバーは一般的に有力な目撃者と見なされているが、もしフランケ=グリクシュが1943年5月に火葬場のシャワーヘッドについて述べたのであれば、それは説得力のある証拠となる。

しかし、よくよく調べてみると、フランケ=グリクシュはシャワーヘッドについて明確に言及しているわけではない。むしろ、「シャワー室に似た大きな地下室の部屋」について述べている。タウバーの年代が正しいと仮定すると、この記述は被害者たちが聞いた内容とガス室の一般的な外観と一致する。それは、シャワー室に似た配管システムと排水設備を備えた無実を装った部屋を示唆している。フランケ=グリクシュは、案内役からシャワーヘッドが将来設置される予定であると聞かされていたのかもしれない。

4.証拠なき理論

マットーニョによると、米国第三軍のエリック・M・リップマンによる戦後の粗雑な報告書のコピーが「オリジナル」の文章であり、実際の戦時中のカーボンコピーは「タイプし直され、修正され、改善されたバージョン」であるという。マットーニョは、何の説明もせず、証拠も示さない理論を展開している。もし誰かがナチスの残虐行為を裏付けるような性質の理論を提案したとしたら、マットーニョはすぐに批判し、そのような推測が裏付けのないものであることを強調するだろう。

5.言語分析の採点は「F」。

リップマンが文法を変えたことは「驚くべきこと」であり、「文法的に言えば、リップマンがこの文で単語を並べた方法は間違っている」とされている。しかし、文法的な観点から見ると、この文は間違いではない(前置詞的属性の用法)。

さらに、リプマンがそうしたように、不注意で急いでいる人が文章をタイプし直す際に、すべての文章で語順を完璧に維持できると期待する理由はまったくない。注意深く作業し、校正を行なえば、このようなことは起こらないはずだが、今回はそうではなかった。

6.専門家不在

イタリアの否定論者は、他の人々よりも専門知識がほとんどないにもかかわらず、数え切れないほどのテーマについて大胆にも権威者の役割を担い、今では原稿用紙にまで主張を広げている。彼は、フランケ=グリクシュの報告書とクルーガー宛の手紙の文字の特徴とタイプ機能の一致は、「当時の特定のタイプライターのシリーズ全体が、製造上の欠陥により、一部の文字が『欠陥品』であった」ことによる可能性があると主張している。しかし、ブログ記事に専門家の意見を求める目的は、偶然の一致やそのような系統的な問題の可能性をチェックすることにあった。マッ トーニョは専門家に助言を求める権利があるが、彼自身の推測は素人じみており、議論に有意義な貢献をしていない。

さらに彼は、「ブロガーたちが採用した検証基準はまったく不十分である」と主張する。なぜなら、それは「誰が特定のタイプライターを使って特定の文章を書いたのか」を明らかにしないからだ。これは明白な事実であり、ブログ記事がタイプライターの問題だけに焦点を当てなかった理由を明確に示している。なぜなら、それは比較的単純な作業であったはずだからだ。代わりに、ブログ記事では、文書の真正性を証明する多数の論拠が提示された。マットーニョはこれらの論拠の大部分を無視することを選択し、彼の反論はまったく不十分なものとなった。

7.傲慢と無知

もし傲慢さがあなたの特徴であるなら、何か目覚ましいことで秀でなさい。もし無知が蔓延しているなら、謙虚さを身につけなさい。もしあなたがその両方を体現しているなら、マットーニョとタッグを組むことを検討しなさい。

マットーニョは、ホロコースト研究の頂点に立つエリートであるかのように自らを演出している。彼の視点では、特に「ブロガー」は劣っており、欠点があり、単なる負け犬である。

この自己認識は、90年代にマットーニョが、モスクワの特別文書館からアウシュビッツのファイルを入手するという大きな功績を、グラーフとともに成し遂げたことで確固たるものとなったのかもしれない。彼の主張の誤りを指摘する声があるにもかかわらず、未発表の当時の文書を広範に利用したことで、彼の傲慢さはいくらか正当化された。

しかし、マットーニョは進化できず、急速に遅れを取り、歴史家やブロガーたちにさえも遅れをとった。 専門知識ではなく、無知が残ったのだ。 そして今、同じ傲慢さが加わった。

「彼らの幼稚な表面的な見方では、フォン・ヘルフとフランケ=グリクシュの旅の理由について、自分自身に問いかけることさえしない。」(マットーニョ著『コークス、木材、およびチクロンBのアウシュヴィッツへの搬入』118ページ)

ナチス親衛隊中央事務局について、「1943年のNSDAPの組織書」を参照した以外には何の調査も行わず、フォン・ヘルフとフランケ=グリクシュがたどった道のりの分析も提供していない人物が、何を言うのか。

「ブロガー」は、SS人事局の多数の人事および案件ファイルやその他の情報源を系統的に調査した。投稿の主題部分には、この旅の意味を理解しようとする「背景」というセクションがまるごと存在している。この結論に異論を唱えることはできるが、「ブロガー」が「フォン・ヘルフとフランケ=グリクシュの旅の理由について、自分自身でさえも考えなかった」という主張は、まったく馬鹿げている。マトニョーは、関連セクション(116ページ)を引用しているにもかかわらず、彼の主張する欠陥が投稿で指摘されていることを認識できないようだ。

8.悪を見ない

マットーニョは結論部分で、広範なフランケ=グリクシュ報告書から「特別企業ラインハルト」に関する抜粋を引用している。この部門は、ポーランド政府管区内のユダヤ人の流動資産をすべて実現させる任務を負っていた。マットーニョは満足感を示しながら、「実際のフランケ=グリクシュは、ユダヤ人絶滅作戦からなる「ラインハルト作戦」については何も知らなかった」と断言している。

「本物のフランク・グリクシュ」は、労働に適さないユダヤ人の行方についても何も知らなかったらしい。 すべては強制労働収容所と「ユダヤ人の所有物および動産」についてだ。 そしてワルシャワ・ゲットーの「クズども」が「清算」される。 労働に適さない何十万人ものユダヤ人に対処するという、はるかに大きな課題についてはどうだろうか? 彼は作戦に関与したSS要員を視察したが、作戦については報告していない。

しかし、彼は「我々の世代がユダヤ人問題を完全に解決し、その最後の結果を出すか、あるいは彼らの清算が完全に達成されない場合、ユダヤ人はこの弾圧の波の後に再び立ち上がるだろう」や、「この問題は、世界をこの疫病から永遠に解放するために完全に解決されなければならない」といったジェノサイド的な発言を繰り返している。(註:このグリクシュの発言についてはこちらで読むことができます)

ホロコースト否定論者は、これらのすべてについて説明する必要がある。「ラインハルト特別作戦」という言葉の定義について勝利の舞を踊っても、歴史の根底にある現実にはほとんど影響しない。

ブログ記事で指摘したように、アウシュビッツにおけるユダヤ人大虐殺に関するフランク・グリクシュ報告書は、長い報告書が残した空白を埋める重要な要素となっている。

9.フライング攻撃ロバの誤謬

マットーニョによれば、「この文書の形式的な信憑性の問題は、その真実性の問題とはまったく二の次である」。SS将校の旅行報告という文脈では、そうではない。

もしフランク・グリクシュがアウシュビッツでのユダヤ人大虐殺に関する詳細な報告書を書いたのであれば、おそらくアウシュビッツでユダヤ人大虐殺が行われていたからだろう。実に単純なことだ。だからこそ、ホロコースト否定派はそれが本物ではないと思わせるためにあらゆることを試みるのだ。彼らは、それ以外にできることはないことを知っている。誰もが、フランク・グリクシュが書いたのは本当だが、彼はそれを意図したわけではないと主張したいわけではない。それは擁護できる立場ではないことは誰もが知っている。

マットーニョを除いて。彼は、ナチスの残虐行為に関するドイツの当時の文書は真正であるが、実質的な意味はないという考えを展開した。ガスプロー文書日本語訳)について、彼は「形式上は真正であるように見えるが...問題の文書には価値はなく、空飛ぶロバの攻撃について言及した軍事文書以上のものはない」と主張した。

そして、マットーニョは、その厩舎で一番の駄馬であるはずだ。

▲翻訳終了▲


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