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アウシュヴィッツ親衛隊スタッフのペリー・ブロードによる報告:ブロード・リポート(1)

アウシュヴィッツに関して加害者側の回想録(回顧録、自伝)と言えば、もちろん司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスのものが最もよく知られています。

2024年現在では上の講談社学術文庫版ですが、これの初版が出た1999年以前はサイマル出版会というところから出ており(1972年〜)、今回は調べてませんがそれ以前にもあった様に記憶します。日本ではこのルドルフ・ヘスの回想録以外には、アウシュヴィッツに関する加害者側の回想録の日本語版は出ていないのですが、実はもう一人だけ加害者側からの回想録が出ています。それが今回紹介する親衛隊員のペリー・ブロードによるものです。

ペリー・ブロード(Pery Broad、1921年4月25日 - 1993年11月28日)は、ブラジル生まれのドイツ人で、1942年4月から1945年までアウシュビッツ強制収容所で活動した親衛隊(SS)の下士官であった。彼は収容所本部で通訳および速記者を務めながら、親衛隊伍長の階級にまで昇進した。[1] 戦後、捕虜となった彼は、収容所の運営に関する歴史的に貴重な報告書(通称「ブロード・レポート」)を書いた。

1921年にリオ・デ・ジャネイロで生まれたブロードは、5歳の時に母親と共にベルリンに移住した。彼はシャルロッテンブルクの工科大学(現ベルリン工科大学)で学び、1941年に外国人として武装親衛隊に入隊した。アウシュビッツに配属された彼は、政治部に異動を希望し、そこで尋問を担当した。収容所のオーケストラの指揮者であったサイモン・ラクスの証言によると、ブロードは音楽を愛し、ほとんどの演奏会に出席していたが、例外は収容所の売春宿に女性囚人を選ぶ際だったという。[2]

彼は1945年初頭に収容所が解散されるまでアウシュビッツに留まり、イギリス軍に捕らえられた。捕虜の間、彼は自発的にアウシュビッツでの経験について報告書を書いた。[3]

1947年に釈放されたが、12年後に再び逮捕され、1960年12月に5万マルクの保釈金を支払って釈放された。1964年11月、フランクフルトのアウシュビッツ裁判の被告として再び逮捕され、ビルケナウでの選別を監督したこと、また尋問、拷問、処刑に加担した罪で有罪判決を受けた。これらの犯罪により、1965年に4年の実刑判決を受けた。1979年、ブロードはヴッパータールで、クロード・ランズマンが1985年に発表したホロコーストに関するドキュメンタリー映画『ショア』の取材を受け、秘密裏に撮影された。

Wikipedoaより

実はこのブロード・レポートの一部を抜粋したものについては、以下で既に紹介しています。

ですが、これは一部分の引用に過ぎず、全体をどうにかして読めないかなと思っていたのです。何故なら、ブロード・レポートはヘスの回想録とほぼ同じくらいの価値を持つという話をどこかで目にしていたからです。もちろん日本語版はありません。海外で出版されているのは知ってはいたのですが、比較的安価に入手できるのも知ってはいたのですが、どーしても洋書の入手は億劫になってしまって、諦めていました。

でも、上記の抜粋の翻訳記事を修正していたときに、たまたま、それがインターネット・アーカイブ(Internet Archive Books)で公開されているのを発見したのです。

KL Auschwitz seen by the SS

この本では、ペリー・ブロードの回想録の他に、ルドルフ・ヘスの回想録、ヨハン・パウル・クレマー医師の日記が紹介されています。

ブロードの回想録だけでも結構分量がある様で翻訳は躊躇ったのですけれど、興味の方が勝った様で、今回翻訳することにしました。

なお今回は脚注も含めて翻訳していますが、脚注番号を連番リスト機能を使って表示させてはいますが、noteではセンテンスごとにしか連番リストを作成できないため、ページごとに番号がリセットされている点にご注意ください。原著では通しの連番になっています。

▼翻訳開始▼

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ペリー・ブロードの回想録

アウシュビッツ強制収容所[1]

ポーランドでは「死のキャンプ」として知られる強制収容所アウシュビッツは、ヴィスワ川とその支流ソラ川に挟まれた湿地帯に位置する同名の町の近郊にあった。この収容所は1940年に始まった[2]。収容所の中心は、古い駐屯地の兵舎と使われなくなった工場建物[3]から構成されていたが、その後、さまざまな建物からなる広大な複合施設へと発展した。いわゆる基幹収容所であるアウシュビッツ[4]が最初に存在していた。それはソラ川沿いにアウシュビッツとライスコ村を結ぶ道路の近くに位置していた。この道路から見ると、正門の近くに親衛隊中佐のヘスの豪奢な別荘が見えた。SSの警備員が数人いる有料道路が収容所の入口を封鎖しており、


  1. ここに掲載された文書はドイツ語で書かれており、タイトルも章分けもされていない。文書全体をより明確にするため、編集者はタイトルを付けた章に分けた。文書を英語に翻訳するにあたり、翻訳者は、翻訳の正確さを追求するために、明瞭さや完璧な文体を犠牲にせざるを得ないことが多かった。

  2. 最初の囚人が収容所に送られたのは1940年6月14日のことだった。彼らはポーランド国籍の者で、タルヌフの刑務所から連れてこられた。彼らの到着に先立って、ドイツ国籍の犯罪者30人がザクセンハウゼン強制収容所からアウシュビッツ強制収容所に移送されていた。SSは彼らから、収容所で機能する補助機関を組織した。

  3. これらはかつてポーランドたばこ専売公社があった建物である。

  4. 捕虜(囚人)収容所アウシュヴィッツ


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兵士であろうと民間人であろうと、収容所に入ったりそこから出たりする者はすべて厳しく検査された。正門の右後ろに中央監視塔が建ち、その斜め向かいに司令官のオフィスがあった。長いコンクリートの壁が、収容所内を見通せないようにしていた。その壁の上には監視塔が建ち、その向こうには殺風景な赤レンガの建物の妻壁だけが見えた。収容所の28の2階建てブロックは主に囚人の居住区として使用されていた。一部は病人のためのもの、事務所、囚人の所有物店などとして確保されていた。収容所内には囚人用の台所もあった。収容所は、人の背丈ほどの高さに達する2本の有刺鉄線フェンス[1]で囲まれ、電流が流れていた。夜には、ランプの列が近くに並べられ、見事に照らされていた。大きな投光照明も見張り塔に設置され、キャンプを明るく照らすことができた。内側のフェンスの向こうには、幅3メートルの砂利の帯があり、いわゆる中立地帯を形成していた。そこを踏んだ者は誰でも銃撃された。基幹収容所には2万から2万5千人の収容者がいた。

ベースキャンプから5~6キロ離れた場所には、悪名高いビルケナウ強制収容所[2]が1941年から42年にかけて建設された(註:Googleマップで調べるとわかりますが、アウシュヴィッツ基幹収容所からビルケナウまではおおよそ2〜3キロです)。その後、3万人の女性収容者と5~6万人の男性収容者が収容された。夕方、ビエリッツから列車でアウシュビッツに向かった。すると、左側に、まるで数珠の連なりのように延々と続くまぶしいランプの列と、白く塗られたコンクリートの列柱が並ぶビルケナウ収容所のフェンスが見えた。囚人たちの居住区は、窓のない馬小屋を兵舎として使ったものや、原始的な石造りの家屋が数百棟あった[3]。収容所は3つの建設セクターに分けられた。第1セクターは最も早く建設され、女性受刑者を収容した。第2セクターは6つの区画に分けられ、それぞれ異なる用途に使用された。例えば、このセクターの1つの区画は病院として使用され、別の区画はジプシーのキャンプとして使用され、また別の区画には新たに到着した人々のための隔離ブロックがあった[4]。セクター3は、1945年1月17日にアウシュビッツとビルケナウが急遽避難させられた際には、まだ建設中であった。すでに完成していた兵舎は、織物工場として使われたこともあり、


  1. フェンスの高さは4メートルに達した。

  2. ビルケナウは、アウシュビッツIIとも呼ばれ、基幹収容所の分所であった。

  3. ビルケナウには、レンガ造りと木造の2種類のバラックが建てられた。新参者、いわゆる「Zugang(ドイツ語で「アクセス」の意)」は、数週間の隔離期間を経て、ようやく本キャンプに移され、労働に駆り出されることになった。

  4. 数少ない釈放された囚人も、釈放前の隔離と呼ばれる隔離期間を過ごさなければならなかった。


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アウシュビッツ。収容所と収容所のフェンスの一部。解放後に撮影された写真。

また、時折、囚人も収容されていた[1]。ビルケナウの状況は、アウシュビッツの状況よりもはるかに悪かった。アウシュビッツの状況は十分にひどかったが、ビルケナウでは、一歩歩くたびに足がぬかるみに沈んだ。洗濯水はほとんどなかった。囚人たちは、3段重ねの木製板ベッドに6人ずつ寝ていた。ほとんどのベッドから藁のパレットが取り除かれていた。1日2回行われる点呼では、囚人たちはぬかるみに足を取られながら、寒い雨の中、何時間も立っていなければならなかった。昼間に雨が降れば、囚人たちは濡れた服のままベッドに横たわっていなければならない。毎日数百人が死亡したとしても不思議ではない。基幹収容所ととビルケナウ収容所を囲む見張り塔はいわゆる「小見張り番」を形成していた。昼間は「小見張り番」の警備員が呼び出され、「大見張り番」に人員が配置された。この鎖は広大な地域を取り囲み、その中で、


  1. ハンガリー系ユダヤ人女性たちは、1944年7月から10月3日までの間、未完成の兵舎のその区画に滞在していた(いわゆる「Depotinger」)。織物工場は、おそらく同年11月になってから設立された。


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カポや現場監督[1]が監督する囚人の大半が工場や畑で働かされていた。「大きな歩哨の鎖」に沿って、死を象徴するドクロと「Interessengebiet des KL Auschwitz Weitergehen verboten Es wird ohne Anruf scharf geschossen!」[2]という警告が書かれた板が立てかけられていた。

しかし、そのような通知がなかったとしても、民間人がその不気味な国の一部に近づくことはほとんどなかっただろう。何らかの形で囚人と連絡を取ろうとしたり、スパイではないかと疑われることは容易であり、そうなれば容疑者は強制収容所に連行されることになる。大哨戒線の外側での作業に採用された外作業班[3]は、常に囚人の数と同じ数の警備員によって、行き帰りの作業が行われた。夕方、すべての作業班が大哨戒線の外の任務から全員で戻ると、哨兵は大哨戒線の監視塔を離れ、小哨戒線の持ち場についた。ブロックリーダーは、ブロックの入り口にあるブロックリーダーの事務所の前で、戻ってきた囚人の数を数えた。囚人の一人が行方不明の場合は、大きな見張り用の哨兵はそのままにされ、犬を連れた捜索隊が敷地内を捜索した。しかし、囚人たちは時折、目立たないように自分の班から抜け出し、一部が林になっている敷地内に隠れ場所を見つけ、そこから互いに30~40メートルの距離に配置された見張り兵の間を夜中にこっそりと抜け、こうして収容所から脱走していた。他のすべての囚人は、その夜、罰として一晩中屋外に立たされた。そのような苦痛に満ちた夜を過ごした後、翌朝からすぐに作業が始まった。[4]

劣悪な衛生状態、不十分な食糧配給、重労働、その他さまざまな苦痛により、アウシュビッツに送られた人々の大半は、数週間から長くても数か月で悲しい最期を遂げた。捨てられたロシア軍のコートやぼろ切れを身にまとった女性たちでさえ、


  1. Vorarbeiter.

  2. 「アウシュビッツ強制収容所の関心領域。立ち入り禁止。これ以上の警告なしに発砲する。」

  3. Aussenkommando.

  4. 長時間立たされることは、脱走に対する処罰のほんの一例に過ぎなかった。1941年、囚人の脱走が発覚すると、収容所の当局者(所長、収容所長)は、脱走者が暮らしていたブロック、または特定の作業班から10人、あるいは20人の囚人を選んだ。彼らはブロック11の地下室に監禁され、数日後には飢え死にした。


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石を運んだり穴を掘ったりと重労働を強いられていた。収容所内で何らかの機能を得ることができた幸運な囚人や、少数の優良部隊で働くことができた囚人は、もう少し長く生き延びることができた。アウシュビッツは絶滅収容所だった! 世界史上最大の。その存在期間中に、200万から300万人のユダヤ人[1]が殺害されたのだ! ポーランド人、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人など、数千人のことは言うまでもない。

「Achtung! Lebensgefahr!」[2]という警告文が書かれた、びっしりと張り巡らされた有刺鉄線のフェンス、機関銃や自動拳銃を携えた警備員、生命のない、むき出しのバラックは、この収容所に初めて来た人々に絶望感を抱かせずにはいられなかった。この収容所から自由の身となって帰れることはないだろうという絶望感である。周囲の麻痺させるような影響に抵抗するだけの強さを持たない人々は、やがて自らの苦しみから逃れるために自らの手で命を絶とうとした。外の分隊で作業しているときは、彼らは歩哨の列の間を走り抜け、歩哨に撃たれたり、収容所の隠語で「ワイヤーに突っ込んだ」[3]りした。高圧電流や機関銃の銃声が、彼らをさらなる不幸から救った。夜間に銃声が聞こえた場合、誰もが絶望した男が再び有刺鉄線に飛び込んだことを知っていた。そして、その男は今、生命のない塊となって中立地帯に横たわっているだろう。無数の人間が、自由へのあこがれや故郷への思い、飢餓、治療を受けることのほとんどできない何らかの痛みを伴う病気、あるいは残酷な殴打によって、自らの意思で死を選ぶという決断を下し、人間以下の存在であることをやめることを決意した。朝、寝台の板にベルトを張られた状態で発見された者もいた。自殺のケースは、その後、ブロック長からキャンプリーダーに簡潔に点呼で報告された。Erkennungsdienst[4]の役員は現場に急行し、死体をあらゆる角度から撮影し、目撃者には長時間にわたる尋問が行われた。これは、被害者が他の囚人によって殺害されたのではないことを確認するためであった。これは、まさに比類のない皮肉に満ちた茶番劇だった![5] 毎日何千人もの人々が組織的に拷問によって死に至らしめられている収容所のSS当局が、不幸な一人の男に何が起こったかなど気にかけるだろうか!


  1. Vide p. 126, 脚注52。
    翻訳者註:これは、同著のルドルフ・ヘスの回想録の箇所にある脚注なので、以下にその全文を翻訳して紹介します。
    「オシフィエンチムの国立博物館は、KLアウシュビッツとその分所における犠牲者数を正確に算出できるような記録一式を保有していない。これまでに得られた推定評価は、ドイツ・ナチス侵略者とその共犯者を調査するためのソビエト国家特別委員会、主要戦争犯罪人の裁判中にニュルンベルク国際軍事裁判所、そしてポーランドの最高国家裁判所によって行われたものであり、部分的に保存されているSS上層部の文書、アウシュヴィッツ強制収容所司令部の文書、抵抗運動収容所組織の文書、証人の証言や報告書、裁判所の専門家による報告書や意見書、さらにはSS隊員が裁判中に行った説明に基づいている。上記の文書の分析によると、ガス室で直接殺害されたユダヤ人の数は250万人、さらに、飢えと病気で死亡したアーリア人とユダヤ人の囚人50万人については、ルドルフ・ヘスの所長在任期間、すなわち 収容所長ルドルフ・ヘスの指揮期間、すなわち収容所開設(1940年6月14日)からヘスがオラニエンブルクへ移動した時点(1943年12月1日)までの期間である。しかし、収容所の最後の日(1945年1月27日)まで、さらに約50万人(アーリア人とユダヤ人)が死亡した。これにより、アウシュビッツ強制収容所の犠牲者は合計で約400万人となった。」
    しかしこの説明には間違いがあります。「ガス室で直接殺害されたユダヤ人の数は250万人」はユダヤ人のみとは限定されていませんし、その250万人と「囚人50万人」までは全て、ルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言によるものであって、「上記の文書の分析」などではありません。さらに、その犠牲者数が出た期間をヘスの在任期間中のものとしていますが、これも間違いで、ヘスは回想録で「250万人」の数字を聞いたのは、アイヒマンが強制収容所総監のリヒャルト・グリュックスにそう報告しているのを1944年の4月(ベルリン包囲の直前)に聞いた、と語っています。実は、この脚注のあるルドルフ・ヘスの回想録のそのページ自体にそう書いてあるのに、どうしてそんな間違いを脚注に書くのかわけが分かりません。その上、全部足したって350万人にしかなりません……。いずれにしても、ヘスの述べた「250万人」はヘス自身が「アイヒマンから聞いた」と繰り返し語っているものであり、ヘス自身は自身の推測(記憶していた作戦の合計で113万人、最大で150万人)以外では犠牲者数の実数を知らなかったので、在任期間中(実際にはハンガリーユダヤ人の絶滅作戦中である1944年5月〜7月には再赴任していた)のものだけであると説明されることに意味はありません。

  2. 「注意!危険!」

  3. 「電線に接触する」という事故は、電線に囲まれた収容所で起こり得る。

  4. 政治課の部署の一つで、26号館に収容されている。

  5. ブロードは、有刺鉄線フェンスに近づいた囚人を殺害したとして、85人の男たちが3日、あるいはそれ以上の休暇を与えられた事実をよく知っていた。それは公式には「囚人の脱走防止」に対する褒賞と称されていた。


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[ブロック11]

かつての強制収容所アウシュビッツを知る人なら、ブロック11が何を意味するのかを知っている。外見上は、他のブロックとほとんど変わらなかった。建物の正面には、入口へと続く石段が数段あった。ドアの右側には、11という番号の書かれた、取るに足らない小さな黒い看板が掛かっていた。ドアのガラス越しに、建物全体を2つに分ける廊下が見えた。ブロック11のドアは常に施錠されていたが、他のブロックではそうではなかった。ベルを鳴らすと、SSの看守が近づいてくるのが見え、その足音が、一見すると誰もいない建物内に響き渡った。看守は、新参者に対しては常に疑いの目を向け、用件を伝えるとすぐに彼を追い返すことが多かった。会話は、小さな覗き穴を通して行われた。彼が人を中に入れる場合は、厳格な必要性がある場合のみで、その場合は、建物の裏側を隔てる、扉のついた頑丈な鉄格子の薄明かりが見える。窓はほとんどすべてレンガでふさがれ、手幅より広い狭い帯状の部分だけが、外光を取り入れるために残されていた。その様子は、外から見ると不気味な印象を与えたに違いない。地下室の窓にも分厚い鉄格子がはめられていた[1]。 地下室の窓の高さに、奇妙な形をしたブリキのケースがところどころに取り付けられており、それが何の目的で使われているのかは想像もつかなかった[2]。

ブロック11と隣のブロック10[3]の間の庭は、


  1. 窓の内側には鉄格子が埋め込まれていた。さらに、外側にはレンガ製のシャッターが取り付けられており、独房の囚人たちは、周囲で何が起こっているのかを見ることはできなかった。
    1階の窓にも鉄格子が取り付けられていたが、その後、1階の窓は高さの3分の2までレンガで埋められた。

  2. これらのケースは、バスケットのような形をしており、暗い独房や立ったままの姿勢で過ごすバンカーに空気が侵入する開口部を覆っていた。

  3. ブロック10は、1940年から1942年にかけて居住区として使用されていた。1941年には、新たに編成された囚人の懲罰教育隊(Erziehungskompanie)が短期間配置された。1942年3月から8月にかけては、ブロック1から10を占めていた女性収容所の女性囚人が収容された。同年末には、医療器具がここに集められ、X線室や手術室が設置され、婦人科病棟で必要とされる手術台やその他の器具が備えられた。1943年4月、ブロック10はカール・クラウベルク博士に引き渡され、彼が主にユダヤ人女性囚人を対象に行った不妊手術実験に使用された。アウシュヴィッツ強制収容所の駐屯地外科医であった親衛隊少佐のエドゥアルト・ヴィルツ博士も、ここで癌に関する研究を行い、癌の疑いがある女性囚人に対して手術を行った。また、ホルスト・シューマン医師も研究を行い、ビルケナウの女性収容所の実験施設でX線による不妊処置を受けた女性囚人に対して手術を行った。


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両建物の正面部分をつなぐ高い石壁に囲まれており、好奇の目から守られていた。頑丈な木製の門がその庭への入口を塞いでおり、内側から閉じられる覗き窓がついていた。隣のブロックの窓が交差するように板を貼って固定されていることに気づいたとき、その庭には特別な目的があったに違いないと確信した[1]。用事でここを訪れた者が、入口の扉のすぐ右手にある事務所で公式な用件を済ませてブロック11を出るとき、彼がこのブロックについて知っていることは、悪名高いKA[2]、すなわち囚人たちがどこかの独房に拘留されている収容所の監獄にいたという事実だけであった。しかし、ブロックの息苦しい雰囲気から離れ、再び外気に触れると、彼は無意識に深く息を吸い込んでいた。

司令官の宿舎の第2課[3]の課長の執務室には、すべてのデスクオフィサーと事務員が集まっていた[4]。親衛隊少尉のマックス・グラブナーがブリーフィングを行っていた。彼は中背の体格で、机の後ろに座り、威張ってふんぞり返っていた。彼の演説のつなぎ目のない文章と下品なドイツ語は、彼が全く教育を受けていないことを露呈していたが、それでも彼は制服に銀のストライプをつけていた。その人物は、民間人時代には山で牛飼いをしていたことを知っていた。今では、彼は誇らしげに親衛隊(SD[5])の制服を身にまとい、ゲシュタポの犯罪捜査官となっていた。彼は自分のセクションの仕事を不十分だとは思っていなかった。彼は囚人に対する犯罪報告や死刑執行の申請を十分な数得ることができなかった。彼は自分の部下を軟弱だと非難したが、彼らはただ目の前の一点を見つめているだけで、反論したり、自分自身を正当化したりする勇気はなかった。今後はもっと厳しくするようにとの指示は黙って受け入れられ、


1943年4月、ブロック10の敷地の一部がSS衛生研究所(Hygiene-Bakteriologische Untersuchungs-Stelle der Waf-fen SS für Süd-Osten)に割り当てられた。同研究所は、細菌学、化学、病理解剖学などに関連する研究を行うことになっていた。その1か月後、すなわち5月には、同研究所はアウシュビッツ近くのライスコ(Rajsko)に移転した。

  1. ブロック10の窓は、ブロック11の庭に面しており、ブロック11の囚人がブロック11の庭で起こっていること、特にそこで執行される死刑を目撃しないように板で目張りされていた。そのような予防措置にもかかわらず、囚人たちは命を懸けて板の隙間から仲間の囚人の銃殺刑を目撃した。

  2. KA Kommandanturarrest.

  3. 政治課(Politische Abteilung)のこと。

  4. Sacharbeiter und Schreiber.

  5. SD Sicherheitsdienst 親衛隊保安部。Vide p. 38, Note. 14


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ヒールがカチカチと鳴らされた。グラブナーは、その非情な残忍さ、病的な野心、自己主張の必要性、そして有名な二枚舌によって、アウシュビッツで最も傑出した人物へと成長した。彼と同等にサディスティックな残虐性と不謹慎さを備えたSS中佐のヘスでさえ、このゲシュタポのベテランと意見が対立することをできる限り避けていた。説明会はいつものように土曜日の朝に行われていた。グラブナーは、皮肉を込めて「バンカーの掃除」と称して、週末をすべて使うのが習慣だった[1]。会議の後、全職員がブロック11に向かった。実際には3人か4人の幹部だけでよかったのだが、グラブナーはいつも全員を呼び集めていた。彼は、大勢の部下たちに囲まれていると幸せを感じたのだ。その後、収容所長であるSS大尉オーマイヤーは、ブロック11のオフィスで待たされた。彼の重要性を強調するために、彼は人々をしばらく待たせた後、小柄なバイエルン人が元気に部屋に入ってきた。彼の鋭くしゃがれた声は、彼が酔っ払いであることを告げていた。彼が残酷な人間であることは明らかだった。彼の目や顔の特徴が物語っていた。彼はヒムラーの親しい友人であることを自慢し、金色の党バッジを誇らしげに身に着けていた。彼は、報告担当のSS伍長のスティヴィッツに付きまとわれた。SSの医師も姿を見せた。残りのパーティーは刑務所の看守と一部のブロックリーダーで構成され、全員が「掃除」される地下室に向かった。中央の広い廊下は、1階と同じように格子状の頑丈な鉄格子で仕切られ、格子状のドアが取り付けられていた。ここは、短い平行の廊下に枝分かれしていた。それぞれに3つから5つの独房が置かれていた。頑丈なオーク材のドアには鋼鉄製の金具と覗き窓が付いていた。地下通路の空気は息苦しく、呼吸することさえ不可能に思えた。独房の扉の向こう側から聞こえる押し殺した話し声、電球のまぶしい光、刑務官と一部のブロックリーダーの服装の鮮明なコントラスト、そして最後に、SS隊員の帽子に輝く死神のマークによって、奇妙な雰囲気がさらに強調されていた。

刑務官が大きなキーホルダーから選んだ鍵で最初の独房のドアを開けた。そして、2つの鉄のボルトが引き抜かれた。この刑務所からの脱獄は不可能だった。特に、生きた電線を張り巡らせたフェンスで囲まれたキャンプの真ん中に位置していたため、なおさらだ。狭い雑居部屋から、息が詰まるような悪臭が立ち込めていた。一人の囚人が


  1. 収容所の囚人たちは、この行動を「掃除」または「空にする」と呼んでいた。


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「Achtung!」[1]と叫んだ。 無気力な表情で、痩せこけた男たちが、汚れた白と青のぼろ切れをまとって一列に並び、立ち上がった。そのうちの何人かは、立っているのがやっとの状態であることが見てとれた。彼らは、自分の生死を左右するかもしれない手続きを、おそらくは幸運にもすでに経験済みであるにもかかわらず、無関心な態度で受け入れていた。それは、生き延びようとする意志を失った男たちの無気力だった。オーマイヤーは、その日に裁判にかけられる囚人たちのリストをドアに押し当てた。最初の囚人は自分の名前を告げ、収監されてからの期間を述べた。収容所のリーダーは、報告した担当官に逮捕の理由について簡単に尋ねた。もしその囚人が通常逃亡犯の再逮捕の場合に該当する第2課によって逮捕されていた場合、その件はグラブナーの管轄範囲内であった。その後、両名の収容所幹部が処罰報告1または処罰報告2のいずれかを選択した。どちらのグループに属する囚人も独房を出て、廊下で二つのグループに分かれて整列した。残りは「捜査中」として拘置所に留置された。第1グループの囚人たちの「犯罪行為」とは、どこかでジャガイモを数個盗んだり、下着を1枚多く所持していたり、作業中にタバコを吸ったりといったことであり、この種の些細な行為も含まれていた。彼らは鞭打ちや懲罰中隊[2]への配属(過酷な労働を意味する[3])で済めば運が良いほうだった。

しかし、「処罰報告2」という暗号でその後の運命が決まった不運な者は、もっとひどい扱いを受けることになる。オーマイヤーは青い鉛筆で、すべての名前に太い十字を書き、十字の角に小さな線を付けた。それは誰の目にも明らかだった。「処罰報告2」の意味は秘密でも何でもなかった。命拾いした重要性の低いケースのグループは、罰を受ける収容所に連れて行かれた。

1階と2階にある大きな共有スペースには、時には100人以上が押し込められていたが、その窓が中庭に面している場合は、そこから人が退避した。


  1. 注目!

  2. Strafkompanie SK。1940年8月頃に結成された。当初は現在のブロック3aの1室に置かれていたが、その後ブロック11の1階に移された。1942年5月8日、ビルケナウのBIb地区に移された。女性囚人がその地区に収容された際には、SKは男性収容所のブロック11、BIId地区に移された。

  3. そのほかの任務に加え、この強制労働班はビルケナウの「ケーニヒスグラベン」と呼ばれる排水溝の掘削に従事していた。 強制労働班は、他の囚人が休息できる時間帯にも、終日作業に従事していた。 最も残忍なSS隊員、例えばSS上級曹長オットー・モルや、看守長やブロック長などがSKを監督していた。


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囚人と拘留中の民間人は、男女別に廊下の反対側の独房に連れて行かれた。

死刑宣告を受けた者は、一階のトイレに連れて行かれた。ブロック11で事務員や清掃係として働く囚人たちは、窓を覆い、仲間の服を脱がせた。被害者たちはすでに世間と別れを告げたかのようだった。そして、数分後には拷問者や苦しみから解放されることを知って、彼らにとってはそれが救いだったのかもしれない。補助者たちは、後に死体安置所や火葬場で遺体を識別できるようにするため、犠牲者の裸の体に消えない鉛筆で囚人番号を書き込んだ[1]。オーマイヤー、グラブナー、そして数人の親衛隊員がその間、中庭に入っていった。しかし、親衛隊員の大部分はすでに去っていた。ゲシュタポの男から常に怠慢を責められるのは危険だったため、グラブナーの仲間になりたがる者は誰もいなかった。そして、グラブナーの部下たちの間には狂信的な者が大半を占めており、彼らを軟弱だと非難することはほとんどできなかった。11ブロックの石壁には黒い壁が建てられていた。この壁は、黒い隔離板でできており、何千人もの罪のない人々にとって、旅の終着点となっていた。その中には、金銭的利益のために愛する国を裏切らない愛国者、アウシュビッツの地獄からなんとか脱出し、再収容されるという苦い不運に見舞われた人々、そして、当時ドイツに占領されていたすべての国々の、自らの国籍を自覚する男女がいた。死刑囚の銃殺刑は、報告官または刑務官によって執行された[2]。石壁からそれほど遠くない場所にある道路を歩いている通行人の注意を引かないように、使用された武器は、10発または15発の装弾数を持つ小口径の銃であった。オーマイヤー、グラブナー、そして実際の処刑人である男は、銃を背中に構え、全知全能の気分を満喫しながらそれぞれの位置についた。背景には、数人の怯えた担ぎ手が担架を用意し、恐ろしい任務を遂行する準備ができていた[3]。彼らの顔にはっきりと表れた恐怖を隠しきれない様子だった。黒い壁の近くにシャベルを手にした囚人が立っていた。掃除班に属し、その力を買われて特別に選ばれた一人の囚人が走り寄り、


  1. これは、囚人の入れ墨が導入される前の期間、すなわち1942年3月以前の期間に関するものである。

  2. ブロードは真実をすべて語っていない。ブロードも勤務していた政治課の職員も処刑を行っていた。

  3. ブロードは、死体を運び出すために囚人を使うことを考えていた。


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最初の二人の犠牲者を素早く前へ押し出していた。彼は彼らの腕をしっかりと掴んだまま、彼らの顔を壁に押し付けた。彼らのうちの誰かが横を向いた場合、「Preste(まっすぐ)」が合図だった。 歩く骸骨の何人かは、動物でも飼えないような悪臭の漂う独房で何ヶ月も過ごし、やっとのことでまっすぐ立つことができた。 それにもかかわらず、その最後の瞬間に彼らの多くが「ポーランド万歳」あるいは「自由万歳」と叫んだ。そこで死刑執行人は、彼らの後頭部を銃で撃つことに特に急いだり、残忍な殴打で彼らを黙らせようとした。SS隊員たちは、自分たちの権力を十分に自覚していたため、このような場合、神経質に笑ったが、彼らは、国家の誇りと自由への愛が、最大の恐怖によってさえも打ち砕かれることはないという証拠である、このような叫び声を聞くのは好きではなかった。このようにして、ポーランド人もユダヤ人も死んでいった。ナチスの宣伝では、ユダヤ人は卑しい奴隷であり、慈悲を求めて泣き叫び、生きる権利など全くない、生きる権利があるのはドイツ人だけだ、とされていた。SS隊員たちは、老若男女、あらゆる人々が名誉ある死を遂げるために最後の力を振り絞っている光景を、ほとんど常に目の当たりにしていた。慈悲を乞うようなひどく卑屈な態度は一切なく、むしろ、底知れぬ軽蔑の最後の視線が、原始的な凶悪犯たちをサディスティックな怒りに駆り立てた。銃声が次々と鳴り響いたが、ほとんど音はしなかった。犠牲者たちはうめき声をあげて倒れた。処刑人は、数センチの距離から発射した銃弾が確実に命中していることを確認した。彼は地面に横たわる男の額を踏みつけ、まぶたを引っ張り、犠牲者が死んでいることを確認した。まだ息の音が聞こえる場合、SSの指導者の一人が「もう一発だ!」と命じた。こめかみや目への一撃が悲惨な命に終止符を打った。運搬係は最速のペースで行き来していた。彼らは死体を担架に載せ、その広場の反対側の端にある山まで運んだ。そこには血まみれの死体がどんどん積み上げられていった。銃殺後、数分間は頭の後ろの傷口から血が細い流れとなって流れ続けた。静かに、そして表立っては動じることなく、シャベルを持った囚人は、2つの死体が運び去られ、泡立つ血の水たまりが砂で覆われるたびに、一歩ずつ近づいていった。死刑執行人は機械的に銃を何度も何度もリロードし、1つの処刑が絶え間なく次の処刑へと続いた。もし仕事の手を休める必要がある場合は、銃を置いて、口笛を吹いたり、周りの男たちとまったくどうでもいいようなことを話したりする。その皮肉な態度によって、彼は「あの暴徒を始末する」ことに


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まったく影響されないことを示そうとした。そして、自分がどれほど「タフ」であるかを誇示しようとしたのだ。彼は、罪のない犠牲者を殺害しているときに良心の呵責を感じないことを誇りに思っていた。もし彼らのうちの一人がじっと頭を支えていない場合は、銃口を首に押し当てて、顔を壁に直接近づける。これはとりわけ、彼が愛国的な叫び声を聞いたときに起こった。SS隊員たちは、壁の向こうの囚人たちが、殉教した男たちの狂信的な信仰の最後のデモンストレーションを聞き、彼らによって道徳的に高められ、愛国心も強められていることを知っていた。黒い壁の前に立たされた男たちの最後の数秒間は、残酷なまでに長く感じられた。彼らは、銃の冷たく血なまぐさい銃口が首に押し当てられているのを感じ、引き金の引かれる音を聞いた……銃が動かなくなった! 退屈した死刑執行人は銃をしまい、ゆっくりと修理を試みた。仲間たちに、新しい銃を手に入れる時が来た、と告げた。誰も、長引く処刑の間、被害者が耐え難い苦痛に苦しんでいることなど気にも留めなかった。彼の腕を掴む鉄のグリップは緩むことはなかった。銃は最終的に修理され、その時は正常に作動したが、さらに障害が発生することになる。何とも言いようのない恐ろしいショーは1時間ほどで終わった。グラブナーはバンカーを「掃除」し、充実した朝食を楽しむことができた。11区画の芝生は再び無人となった。黒い壁の前の砂は新たに熊手でならされており、その壁は無感動にそこに立っていた。庭の反対側では、大きな黒赤い染みの上を無数のハエが飛び交っていた。広い暗い跡が収容所の中に続いており、それは庭への入口を塞ぐ覗き窓付きの頑丈な木製の門から始まっていた。その道は収容所の出口、つまり火葬場へと続いていた。収容所の門では、囚人楽団が陽気なドイツ行進曲を演奏しており、その伴奏に合わせて作業班が午後の作業へと向かって行進していた。不器用な木靴で足にマメを作りながら、彼らに足並みを揃えるのは容易ではなかった。足並みを揃えられない囚人がいれば容赦なく蹴られたり、顔を叩かれたりした。11区画のトイレでは、清掃係が殺された犠牲者の濡れた衣服をその時点で仕分けしていた。死刑執行人は、自分の服についた血のりを落とし、最高の機嫌で兵士向けの教育講演に出席する準備をした。講演のテーマは「SSのヨーロッパにおける任務」であった……。

▲翻訳終了▲



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