殺人ガス車の存在を証明する当時のドイツの文書
ナチスドイツが用いたいわゆる「ガス車」は、「gas van」や「gas wagen」と表記されることが多く、これらを機械翻訳にかけると「ガス・バン」「ガス運搬車」「ガス車」「ガス・ワーゲン」などさまざまな訳語が登場します。どうやら、外国語でも統一された表記は存在しないらしく、いわゆる表記揺れがあっても仕方ないのかなと思いつつ、出来るだけ「ガス車」に統一したいと考えています。
ガス車は現物はもちろん、公式図面などは一切残っておらず、唯一ポーランドの調査委員会がヘウムノで用いられたとされるマギルス社製トラックを用いたガス車の写真を数枚残しているだけ(おそらくこちらにある4枚(うち一枚は消えているが))で、他は全て文書資料の記述や証言しかありません。
しかしながら、文書証拠は多数存在します。この記事ではHolocaust Controversiesブログサイトからガス車に関する文献資料の紹介記事を翻訳します。
▼翻訳開始▼
殺人ガス車に関する当時のドイツの資料
以下は、殺人ガス車に関する公開された当時のドイツ語資料の写真/フォトスタット、転写、翻訳をまとめたものである。この文書は、ドイツの準軍事組織による殺人ガス処理に関する強力な証拠であり、ガス車の建設、派遣、使用、および広範囲にわたる現場経験の後に計画された技術的修正についての洞察を与えてくれる。
ガス車とホロコースト否定に関しては、一連の投稿である「ガス車に関するアルバレスの反論」及び「マットーニョとアインザッツグルッペンの本、そしてガス車」を参照してほしい。
(註:元記事にあるリンクリストは省いた)
写真/フォトスタット、トランスクリプション、翻訳
1.)1941年10月25日のエルハルト・ヴェッツェルからヒンリッヒ・ローゼへのガス処理装置に関する手紙の草稿、「労働能力のないユダヤ人はブラッキアン救済策で排除される」。これはガス車または安楽死型ガス室のいずれかを指す可能性がある。
文書
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2.)1941年12月13日、アルトゥール・ネーべからアインザッツグルッペBへの 「特殊車両」に関する無線電報。
文書
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3.)「ガス車」に関する1942年3月1日のアインザッツグルッペBの報告書。
転記
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4.)1942年3月26日、ヴァルター・ラウフから国家刑事局刑事技術研究所への、強制収容所マウトハウゼン用の「特殊ワゴン」と「一酸化炭素入りガスボンベ」についての書簡。
文書
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5.)1942年4月11日のハラルド・ターナーからカール・ヴォルフへの手紙「私はこの地域の手に入るユダヤ人をすべて射殺し、すべてのユダヤ人女性と子供を収容所に集め、SDの助けを借りて、約14日から4週間後に収容所の最終的な撤去をもたらすであろう「害虫駆除車」を手に入れた」とする手紙。
文書
転記
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6.)1942年4月27日の「特殊車両用高速荷卸し装置」に関するメモ。
文書
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7.) 1942年4月30日のヴァルター・ラウフからガウブシャット社への「納入された10台のザウラーシャシー用の取り出し可能な格子」に関する書簡。
文書
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8.) 1942年5月14日のガウブシャット社からヴァルター・ラウフへの「10台のまだ納入されていない特殊車両」に関する書簡。
文書
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9.) 1942年5月16日のアウグスト・ベッカーからヴァルター・ラウフへの手紙「死のバン」と「処刑される人は窒息死するのであって、予定されていた居眠りによる死ではない」に関して。
文書
[ページ 2 は未公開]
転記
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10.) 1942年6月5日のウィリー・ジャストのメモ。「3台のバンを使って9万7000人を処理した」、「COを迅速に分配するため」、「後ろのドアが閉まって中が暗くなると、荷物がドアを強く押しつける」についてのメモ。
文書
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11.) 1942年6月9日のエマニュエル・シェーファーからフリードリヒ・プラデルへの電報で、「特別注文」の「特別ワゴン・ザウラー」について。
文書
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12.) 1942年6月15日、ハインツ・トゥルーエからRSHAへの電報。「Sワゴン」を持つユダヤ人の「特別処置」と「既存のSワゴン3台(ダイモンド2台、ザイラー1台)の排気ホース20個、利用できるものはすでに水漏れしているから」についての電報。
文書
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13.) 1942年6月22日のRSHAからオストランド治安警察・治安維持局司令官への電報「Sワゴン...5tザウラーの移送...100 m ホースも一緒に送られる」についての電報。
文書
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14.) 1942年6月23日の「納入されたシャーシのための 30 の特別コーチワーク」と「機密保持のためにそこで考慮できない変更 は社内ワークショップで行うこと」に関するメモ(その後、ガウブシャット社への書簡が続く)。
文書
転記
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15.)1942年9月18日、ガウブシャット社からRSHAへの書簡「コーチワーク f. 10ザウラーシャシーを納入」について
文書
転記
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1942年6月23日 Verk. Wa/Ka. ヴァッハスムート 1942年9月18日
16.) 1942年9月24日のガウブシャット社からRSHAへの書簡「コーチワーク f. 10ザウラーシャシーを納入」について。
文書
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17.) 1943年2月18日のワルター・ビアカンプからエルンスト・カルテンブルンナーへの「G-vanは爆破され、行進中に燃やされた」についての無線メッセージ。
転記
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18.) 1943年5月15日のエバーハルト・フォン・タッデンによる、ミンスクでの「クーベがイタリア人にユダヤ人の殺害が行われたとされるガス室を見せていた」ことについてのメモ
文書
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19.) 1943年5月17日、エーバハルト・フォン・タッデンからアドルフ・ヴィンデッカーへの書簡。「ガス室で殺された強制送還されたユダヤ人の最後の生き残りである。伝えられるところによると、ファシストたちは、そのようなガス室を見せられ」
文書
転記
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20.) 1944年9月2日のゲットー・ウッチ管理局の報告書、「ラアブス」の運転する「トラック71449」が90リットルのガソリンを給油していることについて
文書
転記
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投稿:ハンス・メッツナー 2015年10月28日(水)
▲翻訳終了▲
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