アウシュヴィッツ以外の絶滅収容所を知る(1):マイダネク収容所の基礎と収穫祭作戦
ホロコーストに関しては、ナチスの強制収容所、あるいは絶滅収容所を色々と知る・語る・議論する、のは当然避けられないのですが、私などは数多くのホロコースト関連記事を作ってきて(大半は翻訳)いるというのに、その数さえ未だ知りませんし、アウシュヴィッツのことですら未だクレマトリウムのうちⅣとⅤはよく知らないくらいに、実際のところ全然わかっておりません。ですから、せめて主要な収容所程度は、ある程度は知っておかないといけないなぁと常々思っています。
そこで、今回から何回になるのか分かりませんけど、中でも私にとって最も謎なマイダネク強制・絶滅収容所から先ずは色々と記事を翻訳紹介していきたいと思います。
マイダネク収容所は、アウシュヴィッツ収容所と同じ分類で、強制・絶滅収容所と二つの役割を併せ持つ収容所です。このような収容所はアウシュヴィッツとマイダネク以外にはありません。ところが、マイダネクの方はどうも妙なのです。何が妙って、例えば、その虐殺数の変遷です。以前翻訳したマイダネク収容所に関するソ連の報告書にはこう記載されています。
委員会は、火葬場だけで60万人以上の遺体が焼かれた事実を立証した;クレンベツキの森の巨大な焚き火では30万人以上の死体が焼かれ、2つの古い炉では8万人以上の死体が焼かれた;火葬場近くのキャンプの焚き火では、40万人以上の死体が焼かれた。
(中略)
ポーランド・ソビエト臨時委員会は、マイダネク絶滅収容所が存在していた4年間、ヒトラー派の殺人鬼が、犯罪政府の直接の命令を受けて、約100万5,000人のソビエト人捕虜を、ガス室での大量銃撃と大量窒息によって絶滅させたことを明らかにした。旧ポーランド軍の捕虜、ポーランド人、フランス人、イタリア人、ベルギー人、オランダ人、チェコ人、セルビア人、ギリシャ人、クロアチア人、そして多くのユダヤ人など、様々な国籍の民間人がいた。
これ、前半部分の犠牲者数をたすと、138万人になりますし、そこに含まれるのかどうかよくわからないのですが、ソ連人捕虜100万5,000人とあるのですが、ところが日本語Wikipediaの解説によると、「ポーランド側の発表によるとそのうち36万人以上が死亡したという」とあり、なんだかあまりに数字がバラバラで不可解なのです。アウシュビッツの犠牲者数の変遷に関しては自分なりにはある程度は解明できたと思ってるのですけど、マイダネクは謎です。同Wikipediaページによると、うちユダヤ人はヒルバーグの値として五万人だそうです。絶滅収容所と呼ぶには非常に少ないのですね。なのにソ連の報告書では
武装警官ハインツ・スタルベ:「この収容所の主な目的は、可能な限り多くの人々を絶滅させることだった。それが「Vernichtungslager」すなわち「絶滅収容所」と呼ばれていた理由です」
とあるのです。ユダヤ人犠牲者が五万人で絶滅収容所? と、とにかく不可解に思えてなりません。
今回はとりあえず、まずは学習の為、英語版Wikipediaから訳してみます。日本語版はあきあらかに参照文献も少なく、非常に物足りないと思いました。
▼翻訳開始▼
マイダネク強制収容所
マイダネク/ルブリン
ナチスの強制収容所
収容所の火葬場
場所 ポーランド総督府ルブリン(ドイツ占領下のポーランド)付近
運営 親衛隊髑髏部隊(第3SS装甲師団)
司令官
カール・オットー・コッホ(1941年9月~1942年8月)
マックス・ケーゲル(1942年8月~1942年11月)
ヘルマン・フローシュテット(1942年11月~1943年10月)
マルティン・ゴットフリート・ヴァイス(1943年11月~1944年5月)
アーサー・リーベヘンシェル(1944年5月~1944年7月)
当初の用途 強制労働
運営期間 1941年10月1日~1944年7月22日
収容者 ユダヤ人、ポーランド人
収容者数 150,000人
死亡者数 推定78,000人
開放日 1944年7月22日、ソビエト連邦によって解放される
マイダネク(またはルブリン)は、第二次世界大戦中、ドイツがポーランドを占領していた時代に、SSがルブリン市の郊外に建設・運営していたナチスの強制・絶滅収容所。7つのガス室、2つの木製絞首台、227の建造物があり、ナチスが運営した強制収容所の中では最大規模のものであった[1]。当初は絶滅ではなく強制労働を目的とした収容所であったが、ラインハルト作戦では産業的規模で人を殺すために使われた。ドイツが自国のポーランド総督府領内のユダヤ人を皆殺しにする計画であった[2]。1941年10月1日から1944年7月22日まで運営されていたこの収容所がほぼ無傷で捕獲されたのは、バグラチオン作戦におけるソ連赤軍の急速な進撃により、SSがそのインフラのほとんどを破壊することができなかったためであり、無能な副収容所司令官アントン・サーネスは、戦争犯罪の証拠となるものを取り除くという任務に失敗したのである[3]。
この収容所は、ルブリン郊外のマジェダン・タタルスキに隣接していたため、1941年に地元の人々からマイダネク(「小さなマジェダン」)という愛称で呼ばれた。ナチスの文書では当初、資金や運営方法から「ルブリンの武装親衛隊の捕虜収容所」と呼ばれていた。1943年4月9日にベルリンの帝国主管保安局によってルブリン強制収容所と改称されたが、通常は現地のポーランド語名が今でも使われている[4]。
建設
ルブリン収容所は、ドイツのソ連侵攻作戦「バルバロッサ」の一環として、1941年7月17日から20日にかけてヒムラーがルブリンを訪問した直後に、オディロ・グロボニックに伝えられたハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者の命令により、1941年10月に設立された。ヒムラーが作成した当初の計画では、少なくとも25,000人の捕虜を収容することになっていた[5]。
キエフの戦いで大量のソ連軍捕虜が捕獲されたため、収容人数は5万人に増やされることになった。1941年10月1日、そのための建設が開始された(同じ命令を受けたアウシュヴィッツ・ビルケナウでもそうだった)。11月初旬には12万5千人、12月には15万人の収容が可能な計画に拡張された[5]。 1942年3月にはさらに拡張され、25万人のソ連軍捕虜を収容できるようになった。
建設には、グロボニックのルブリン収容所の一つから150人のユダヤ人強制労働者が参加し、彼らは毎晩、収容所に戻っていた。その後、2,000人の赤軍捕虜が加わり、野外での寝泊まりなど過酷な環境に耐えながらの作業となった。11月中旬には、500人しか生き残っておらず、そのうちの少なくとも30%はこれ以上の労働ができない状態になっていた。12月中旬には、2万人を収容するバラックの準備が整ったが、チフスが流行し、1942年1月には、ポーランド系ユダヤ人だけでなく、捕虜も含めた奴隷労働者全員が死亡した。新しい囚人が到着する1942年3月まで、すべての作業は停止していた。収容所は最終的には約5万人の収容能力を持っていたが、それ以上の規模にはならなかった。
運営
マイダネクの航空写真(1944年6月24日)。下から順に、煙突が見える解体中のバラック、補給路に積まれた板材、無傷のバラック
1942年7月、ヒムラーはベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの3つの秘密絶滅収容所を訪れた。これらの収容所は、ナチスドイツのラインハルト作戦でポーランドのユダヤ人を抹殺するために特別に建設されたもので、それぞれ1942年3月、5月、7月に操業を開始していた。その後、ヒムラーは、ナチス総督府を構成するポーランド占領下の5地区から収容所へのユダヤ人の強制送還を1942年末までに完了させるよう命令を出した[6]。その後、ヒムラーは、ナチス総督府を構成するポーランド占領下の5地区から収容所へのユダヤ人の移送を1942年末までに完了するように命令を出した[6]。
マイダネクは、ラインハルト作戦の開始時に、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの殺戮センターで犠牲者から奪った財産や貴重品の二次的な仕分けと保管のための倉庫となった[7]。しかし、クラクフ、ルヴフ、ザモシチ、ワルシャワのゲットーをはじめとするポーランド南東部には、まだ「処理」されていないユダヤ人が多く存在していたため、1942年3月頃には、マイダネクが殺戮センターとして改修された。建物の周りにはフェンスもなく、他の収容者の目の届くところでガス処理が行われた。また、トラウニキの分隊による銃殺も頻繁に行われていた[2]。 マイダネク博物館によると、ガス室は1942年9月に稼働を開始している[8]。
マイダネクには、チクロンBを使用した同じ建物が2つある。処刑は41番バラックで行われ、チクロンBから放出されたシアン化水素の結晶を使って行われた。同じ毒ガス弾が42番バラックの囚人の衣類の消毒にも使われた[9]。
軍需産業では外国人労働者の確保が急務となっていたため、ポーランドからのユダヤ人労働者は元々助かっていた。彼らはしばらくの間、ワルシャワのゲットー(ワルシャワ・ゲットー蜂起の後、強制収容所となった)などのゲットーに収容されるか、マイダネクなどの労働収容所に送られ、主にシュタイヤー・ダイムラー・プフ社の武器・軍需工場で働いた。
1942年10月中旬までに、収容所には9,519人の登録済み囚人がおり、そのうち7,468人(78.45%)がユダヤ人で、さらに1,884人(19.79%)が非ユダヤ系ポーランド人であった。1943年8月までに、大収容所には16,206人の囚人がいたが、そのうち9,105人(56.18%)がユダヤ人、3,893人(24.02%)が非ユダヤ系ポーランド人であった[7]。 少数民族の構成員には、ベラルーシ人、ウクライナ人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、スロベニア人、イタリア人、フランス人、オランダ人などがいた。公式のマイダネク国立博物館のデータによると、30万人が一度は収容所の囚人となっていた。常時の囚人の数はもっと少ない。
1942年10月以降、マイダネクには女性の監視員もいた。ラーフェンスブリュック強制収容所で訓練を受けたこれらのSS看守には、エルザ・エーリッヒ、ヘルミーネ・ベッチャー=ブルックナー、ヘルミーネ・ブラウンシュタイナー、ヒルデガルト・レヒェルト、ロージー・スース(スース)エリザベート・クノブリッヒ=エルンスト、シャルロッテ・カーラ・マイヤー=ウォエラート、ゲルトルート・ハイゼ(1942~1944年)が含まれ、後に戦争犯罪人として有罪判決を受けた[10]。
マイダネクには当初サブキャンプはなかった。これらは1943年初秋に、ブジン、トラウニキ、ポニャトワ、クラスニク、プラウィなどのルブリン周辺の残りの強制労働収容所と、「エアストリップ」(「飛行場」)、「リポワ7」などの強制収容所が、マイダネクのサブキャンプになったときに組み込まれた。
1941年9月1日から1942年5月28日まで、アルフォンス・ベンテレが収容所内の管理部を率いていた。アロイス・クルツ(親衛隊少尉)は、マイダネク、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ミッテルバウ・ドーラのドイツ人スタッフであった。彼は起訴されなかった。1943年6月18日、フリッツ・リッターブッシュは司令官の補佐官になるためにKLルブリンに移動した[11]。
収容所がルブリンに近かったため、収容所に入った民間人労働者が密かに持ち出した手紙によって、囚人たちは外部と連絡を取ることができた[12]。 現存する手紙の多くは、受け取った人から収容所博物館に寄贈されており[12]、2008年にはそれらの手紙の一部を展示する特別展が開催された[12]。
1943年2月以降、ドイツ軍はポーランド赤十字社と中央福祉協議会が収容所に食料品を持ち込むことを許可していた[12]。囚人たちは、ポーランド赤十字社を通じて、自分の名前が書かれた食料品を受け取ることができた。マイダネク博物館のアーカイブには、10,300件もの明細付きの配達物が記録されている[13]。
1943年10月、マイダネクから上がる煙
収容所解放後、マイダネクのオーブンを調べる赤軍兵士たち(1944年夏)
保存されている火葬場のオーブン(クローズアップ)
収穫祭作戦
ラインハルト作戦は1943年11月初旬まで続き、総督府のルブリン地区からのサブキャンプであるマイダネク・システムの最後のユダヤ人囚人が、「収穫祭」作戦でトラウニキの男たちの銃殺隊によって虐殺された。マイダネクの主収容所に関しては、最も悪名高い処刑は1943年11月3日に行われ、1日で18,400人のユダヤ人が殺された[14]。翌朝、隠れることに成功した25人のユダヤ人が発見され、銃殺された。一方、女性311人、男性300人の計611人の囚人たちは、死者の衣服を整理し、埋葬用の溝に蓋をするよう命じられた。彼らはその後、ゾンダーコマンド1005に配属され、火葬のために同じ遺体を発掘しなければならなかった。この男性たちはその後、処刑された。女性の311人はアウシュビッツに送られ、ガスで殺された。「収穫祭」作戦が終了した時点で、マイダネクには6,562人の囚人のうち71人のユダヤ人しか生き残っていなかった[7]。
残った囚人の処刑は、その後も続いた。1943年12月から1944年3月までの間に、マイダネクには約1万8千人のいわゆる「病人」が収容され、その多くが後にチクロンBでガス処刑された。銃殺による処刑も続けられ、1944年1月21日に600人、1月23日に180人、3月24日に200人が射殺された。
カール・ヘッカー准尉の戦後の裁判では、この収容所で行われた大量殺人の責任が問われた。
「1989年5月3日、ドイツのビーレフェルト地方裁判所は、ポーランドの強制収容所「マイダネク」でポーランド系ユダヤ人を中心とした囚人のガス死に関与した罪で、ヘッケルに4年の禁固刑を言い渡した。収容所の記録によると、ヘッケルは1943年5月から1944年5月の間に、ハンブルグのテッシュ・アンド・スタベナウ社から、マイダネクで使用するためのチクロンB毒ガスを少なくとも3,610キログラム(7,960ポンド)入手していた」[15]。
また、アウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスは、ポーランドで裁判を待つ間、回顧録の中で、マイダネク(KZルブリン)で使われた殺人方法の一つがチクロンBであったことを書いている[16]。
避難
1944年7月下旬、ソ連軍がルブリンに急接近してきたため、ドイツ軍は急遽、収容所を退去させた。しかし、スタッフは1944年7月24日にソ連赤軍が到着する前に、火葬場を部分的に破壊することにしか成功しなかった[17][18]ため、副司令官アントン・サーネスの無能さのために、マイダネクはホロコーストの中で最も保存状態の良い収容所となってしまったのである。連合軍によって解放された最初の主要な強制収容所であり、そこでの惨状は広く公表された[19]。
それまでに1,000人の収容者がアウシュビッツに強制連行されていたが(そのうち生きて到着したのは半数)、赤軍は収容所内に数千人の収容者(主に捕虜)が残っており、そこで起こった大量殺人の十分な証拠を発見したのである。
死者数
犠牲者7万8,000人、そのうちユダヤ人5万9,000人という公式推定値は、2000年にヘフレ電報が発見されたことを受けて、2005年にマイダネク国立博物館研究部のトマス・クランツ部長が決定したものである。この数字は、現在、博物館のウェブサイトに表示されている数字に近いものだ[20]。犠牲者の総数については、1948年にズジスワフ・ウカシュキェヴィチ判事が36万人と概算したことを皮切りに、様々な議論がなされてきた。これに続いて、マイダネク博物館のチェスワフ・ラジカ(1992年)が約235,000人の犠牲者を推定し、長年にわたって同博物館が引用してきた。現在の数字はラジカによって「信じられないほど低い」とされているが[2]、ドイツの収容所管理者によってホロコースト列車の記録に記載されなかった囚人の数についてのさらなる調査を待つために、博物館の理事会は「一定の慎重さをもって」この数字を受け入れた。とりあえず博物館は、新しい調査に基づいて、34ヶ月の間に約15万人の囚人がマイダネクに到着したと発表している[21]。ラインハルト作戦の過程で殺された200万人以上のユダヤ人のうち、約6万人のユダヤ人(名前が判明しているのは5万6千人)[22]が、全体で約8万人の犠牲者が出たマイダネクで確実に絶滅させられた[2][23][24]。
マイダネク収容所外周の有刺鉄線二重柵に沿って設置された監視塔
ソ連は当初、死者の数を著しく過大評価しており、1944年(註:原文ママだがおそらく1946年の間違い)7月のニュルンベルク裁判では、ユダヤ人の犠牲者は40万人を下らないと主張していたが、ソ連の公式カウントでは、様々な国籍の犠牲者が150万人とされていた[25]。モスクワに駐在していたカナダの独立ジャーナリスト、レイモンド・アーサー・デイヴィスは[26][27]、1944年8月28日にマイダネクを訪問している。翌日、彼はカナダユダヤ人会議の事務局長であるソール・ヘイズに電報を打った。その内容はこうだ。「100万人のユダヤ人と50万人のその他の人々が殺されたマイダネクを強調したい」[26]、「少なくとも300万人の(ポーランドの)ユダヤ人が殺され、そのうち少なくとも3分の1がマイダネクで殺されたとアメリカに伝えることができる」[26]などと書かれており、このように広く報道されていたが、学者たちがこの推定値を真剣に受け止めることはなかった。
1961年、ラウル・ヒルバーグはユダヤ人犠牲者5万人と推定した[2]。 1992年、チェスワフ・ラジカは23万5千人と独自の推定を行い、収容所博物館に展示された[2]。 2005年、マイダネク博物館の科学部門長である歴史家トマス・クランツの調査では、犠牲者は7万9千人で、そのうち5万9千人がユダヤ人であったとされている[2][24]。
推定値の違いは、推定に用いられた方法や研究者が入手した証拠の量が異なることに起因する。ソ連の数字は、アウシュビッツの見積もりにも使われた最も粗雑な方法に頼っていた。つまり、犠牲者の数が火葬場の能力にほぼ対応していると仮定していたのである。 その後の研究者たちは、国外追放の記録、同時期の人口調査、ナチスの記録の復元など、より多くの証拠を考慮に入れようとした。これらの記録を用いたヒルバーグの1961年の推定値は、クランツの報告とほぼ一致している。
マイダネクの第2クレマトリウムにある保存状態の良いオリジナルのオーブンは、1943年にハインリッヒ・コーリによって作られた。それらは1942年にザクセンハウゼン強制収容所からマイダネクに持ち込まれたオーブンの代わりとなった[28]。
マイダネクの司令官
カール・オットー・コッホ 親衛隊大佐。1941年10月から1942年8月まで収容所司令官。1945年4月5日、帝国からユダヤ人の金品を奪ったとして、SSにより処刑される[29]。
マックス・ケーゲル 親衛隊少佐。1942年8月から1942年11月まで収容所司令官。1946年6月27日に逮捕された翌日、ドイツの連合軍の拘置所で自殺した[30]。
ヘルマン・フローシュテッド 親衛隊中尉。1942年11月から1943年10月まで収容所司令官。1945年4月15日、コッホと同じように帝国から盗んで金持ちになったとして、SSによって裁判にかけられ処刑された[30]。
マーティン・ゴットフリート・ヴァイス 親衛隊中佐。1943年11月1日から1944年5月5日まで収容所司令官。1945年11月のダッハウ裁判で裁かれ、1946年5月29日に絞首刑[30]。
アーサー・リーベヘンシェル 親衛隊中佐。1944年5月5日から1944年7月22日まで収容所司令官。クラクフのアウシュビッツ裁判で裁かれ、死刑判決を受け、1948年1月28日に絞首刑となる[30]。
副官は親衛隊中尉のアントニー(アンソニー)・サーネスであった。ルブリンのマジダネク裁判で裁かれ、人道に対する罪で有罪となり、絞首刑の判決を受け、1944年12月3日に処刑された[30]。
余波
収容所への「入口ゲート」にある記念碑。象徴的なパイロンは、ぐちゃぐちゃになった体を表現するためのものだ[31]。
収容所占拠後の1944年8月、ソ連は収容所エリアを保護し、ポーランドとソ連の特別委員会を招集して、マイダネクで行われた人道に対する罪を調査し、文書化した[32]。この取り組みは、東欧におけるナチスの戦争犯罪を記録する最初の試みのひとつである。 1944年秋、マイダネク強制収容所の敷地内に「マイダネク国立博物館」が設立された。1947年、ポーランド議会の政令により、実際の収容所は殉教者の記念碑となった。 同年、人間の灰や骨の断片が混ざった約1,300m³の表土が集められ、大きなマウンドになった。マイダネクは1965年に国立博物館の地位を得た[33]。
収容所のナチス関係者の中には、戦後すぐに起訴された者もいれば、その後数十年の間に起訴された者もいる。1944年11月から12月にかけて、4人のSSメンと2人のカポーが裁判にかけられ、1人は自殺し、残りは1944年12月3日に絞首刑になった[34]。1975年から1981年にかけて西ドイツで行われたのが、広く公表された最後の大規模な訴追で、マイダネク出身の16人のSSメンバーが起訴された(ドイツ語ではMajdanek-Prozess)。しかし、マイダネクで働いていて名前が知られている1,037人のSS隊員のうち、起訴されたのは170人だけだった。これは、西ドイツの司法制度では、殺人に直接関与した者しか起訴できないというルールがあったためである。
1969年に建立された霊廟には、1944年の収容所解放後に火葬された犠牲者の遺灰や遺骨が塚に集められている。
ソ連NKVDによるマイダネク収容所の利用
ソ連軍がこの収容所を占領した後、NKVDは、ポーランド亡命政府に忠誠を誓っていたAK(ポーランド国内軍:Army Krajowa)や、ドイツやソ連の占領に反対していたNarodowe Siły Zbrojne(国民軍)の兵士たちのための刑務所として、この既製の施設を保持したのである。NKVDは、かつてのSSのように、同じ施設を使ってポーランドの愛国者たちを投獄し、拷問した。
1944年8月19日、ポーランド亡命政府への報告書の中で、国内軍(AK)のルブリン地区はこう記している:「NKVDによるAK兵の大量逮捕が各地で行われている。これらの逮捕をポーランド民族解放委員会は容認し、AK兵士はマイダネク収容所に収容されている。祖国と祖国軍の損失は、ドイツ軍の占領下で受けた損失に匹敵する。我々は血で償っている」。
マイダネクNKVD収容所の囚人の中には、AKのヴォルヒニア人メンバーや、ワルシャワ蜂起に参加するためにワルシャワに向かって移動していたAK部隊の兵士たちがいたのである。1944年8月23日、マイダネクの収容者約250人は、ルブリン・タタリー鉄道駅に運ばれた。そこでは、犠牲者全員が牛車に乗せられ、シベリアなどソ連各地の収容所に連れて行かれた。
記念事業
解放25周年を迎えた1969年7月、ヴィクトール・トゥルキン(通称ヴィクトル・トルキン)が設計した大きなモニュメントが建設された。このモニュメントは、収容所の入り口にある大きな門のモニュメントと、その反対側にある犠牲者の遺灰を納めた大きな霊廟の2つの部分から構成されている。
2005年10月、マイダネク博物館の協力を得て、4人のマイダネクの生存者が現場に戻り、考古学者が収容者が埋めた時計、イヤリング、結婚指輪など約50点を発見した[36][37]。 ドキュメンタリー映画『Buried Prayers』[38]によると、これは死のキャンプにおける貴重品の回収としては、これまでに報告された中で最大のものであった。政府の歴史家とユダヤ人生存者のインタビューは2005年以前は頻繁に行われていなかった[37]。
現在の収容所は、当初の2.7km2(約670エーカー)の約半分を占めており、かつての建物を除けば、ほとんどが裸の状態である。2010年8月に発生した火災により、7,000足の囚人の靴を保管する博物館として使用されていた木造の建物の1つが焼失した[39]。 第二次世界大戦後、ルブリン市の面積は3倍になり、大収容所も今日ではルブリン市の境界内にある。この収容所は、市内の高層ビルに住む多くの住民にはっきりと見えており、多くの訪問者がこの事実を指摘している。住宅やアパートの庭は収容所に接しており、収容所を見下ろすことができる。
2016年、国立マイダネク博物館とその分館であるソビボルとベウジェツには、約21万人の来館者があった。これは、前年よりも1万人の訪問者が増えたことになる。訪問者には、ユダヤ人やポーランド人をはじめ、人類に対する過酷な犯罪について知りたい人たちが含まれている[40]。
著名な受刑者
ヘニオ・ジトミルスキー、1939年7月5日
・ハリナ・ビレンバウム - 作家、詩人、翻訳家
・マリア・アルビン・ボニエツキ - アーティスト
・マリアン・フィラー-ピアニスト
・オットー・フロインドリヒ-ナチスが1937年に開催した「退廃芸術」展に出品された芸術家の一人
・ミエテク・グローチャー - 9つの異なる収容所から生還。Jag överlevde (eng. I Survived)の著者。
・イスラエル・グットマン - 歴史家
・ローマン・カントー (1912-1943) - エペ・フェンサー、ノルディック・チャンピオン、ソビエト・チャンピオン、ナチスに殺される
・ドミトリー・カルビシェフ - ソビエトの将軍、ソビエト連邦の英雄
・オメラン・コフチ - ウクライナの司祭
・ディオニス・レナード - 1942年にスロバキアのユダヤ人コミュニティに警告して逃亡
・イゴール・ニューエリー - 作家
・ルドルフ・ヴルバ - アウシュヴィッツに移送され、そこから脱出し、戦時中に出版された最初の収容所内部レポートの一つであるヴルバ-ヴェツラー報告書を共同執筆
・ヘニオ・ジトミルスキー - ポーランドにおけるホロコーストの子供の象徴
・ソニア・モッセ[41] - 女優、マン・レイのモデル、有名な写真「ヌシュとソニア」の被写体。
・イレーナ・イワコヴィッチ - ポーランドのレジスタンス運動であるNSZ(国民軍)の少尉で諜報員、1943年に収容所から脱走。
▲翻訳終了▲
日本語版のマイダネク解説よりはるかに詳しいのがお分かりいただけるのではないかと思います。ドイツ語版も一応確認はしていますが、英語版の方が若干詳しいようです。
ところで、霊廟が記事中で紹介されていますが、ここには俄かホロコースト否定論者が泣いて喜ぶ?かもしれないあるものが展示されています。記事中にも書いてありますが、屋根の下はこんな風になっております。
マイダネク周辺の土地で戦後に採取された、骨の混じった土をここに集めて、上から「水ガラス」で表面を覆ってあるそうです。俄かホロコースト否定論者の人たちは「ホロコーストには骨もないじゃないか!」とよく仰いますので、ここへ行けばその骨が確認可能ということです。
ちなみに、1943年当時のマイダネク収容所の平面図はこんな感じだそうです。
この図面ですと、火葬場は真ん中下の方の5、ちょっと分かりにくいですがガス室は上の方にある6(12の下辺り)になってます。「ガス室と火葬場が離れ過ぎなのはおかしい!」と思うなかれ、ガス室の左には野外火葬炉があります。なお、向きがややこしいですが、現在のGoogleマップ航空写真を以下に示します。多分、うまく表示されないと思うので、ご自身で調整して下さいね。
こんなところで今回は終わろうと思いましたが、記事中にある「収穫祭作戦」の英語版Wikipedia記事を追加で翻訳しておきたいと思います。マイダネク収容所は犠牲者総数は少ないものの、この収穫祭作戦は一箇所・二日で銃殺にしたホロコーストの虐殺事件としては最大規模のものらしいです。
しかし……、どーも、マイダネクは不思議な収容所です。この収穫祭作戦で使われたのは銃殺刑であり、ガス室ではありません。囚人から丸見えのところでガス殺をしていた、と上の記事であるので、囚人の殺害にはガス室は使えないと判断したからなのでしょうか? ともかく翻訳してみましょう。
▼翻訳開始▼
収穫祭作戦
収穫祭作戦
マイダネクの集団墓地の跡
場所 総督府ルブリン地区のマイダネク、ポニャトワ、トラウニキ強制収容所
日付 1943年11月3~4日
攻撃対象 ユダヤ人
攻撃方法 射撃
武器 ライフル、自動小銃
死亡者数 39,000~43,000人
加害者 SS、秩序警察、トラウニキの男たち
収穫祭作戦(ドイツ語:Aktion Erntefest)は、1943年11月3~4日に親衛隊、秩序警察大隊、ウクライナのゾンダーディエンストによって、マイダネク、ポニャトワ、トラウニキ強制収容所で最大4万3千人のユダヤ人が殺害された事件である。
ゲットーや絶滅収容所でユダヤ人の反乱が相次いだ後、ハインリッヒ・ヒムラーは、ドイツ占領下のポーランドのルブリン地区に残っていたユダヤ人強制労働者の殺害を命じた。収容所のユダヤ人労働者は、10月下旬に防空のためと思われるジグザグの塹壕を掘らなければならなかった。11月2日、数千人のSS・警察関係者がルブリンに到着した。その日、作戦の責任者であるSSと警察のリーダーヤコブ・シュポレンベルグは、作戦を計画するための会議を開いた。
殺害は11月3日の朝、ユダヤ人の囚人を非ユダヤ人の囚人と分けていたマイダネクから始まり、リポワ7やルブリン飛行場のユダヤ人を投獄した収容所を包括して行われたものである。夕方までに合計18,400人が射殺された。同日、トラウニキではドロフクザの人も含めて6,000人が殺害された。マイダネクでの作戦を終えた後、関係部隊のいくつかはポニャトワに向かい、11月4日に収容所の14,500人の囚人を殺害した。この3つの収容所では、ユダヤ人は裸にされ、あらかじめ掘られた塹壕の中に入っていき、そこで銃殺されました。銃声を隠すために大音量の音楽が流れていた。
作戦後、約1万人のユダヤ人がルブリン地区の各労働収容所に生きたまま残された。犠牲者の遺体は、一時的に死を免れた他のユダヤ人によって焼却された。約4万人の犠牲者を出した「収穫祭作戦」は、ドイツ軍によるホロコースト中の単一のユダヤ人虐殺としては最大のものであった。
背景
1942年、ドイツ占領下のポーランド総督府ルブリン地区に住んでいた36万人のユダヤ人が「ラインハルト作戦」で殺害された。年末までにドイツの収容所やゲットーに住んでいたユダヤ人はわずか2万人で、さらに2万人以上が身を隠していた[1][2]。1943年1月以降、ユダヤ人はワルシャワ・ゲットー、ビャウィストク・ゲットー、トレブリンカ絶滅収容所など総督府内で相次いで反乱を起こし、各地で反ナチスのパルチザン活動が活発化していた[3][4]。収穫祭を命じた直接的な理由は不明だが、歴史家は1943年10月14日のソビボル絶滅収容所での反乱を受けてのことだと考えている[3]。ルブリン地区の収容所にいる数千人のユダヤ人囚人は、ワルシャワ・ゲットーでの蜂起が失敗した後、ワルシャワ・ゲットーから運ばれてきたものだった[5][6]。
ハインリッヒ・ヒムラーは、これ以上の抵抗を避けるために、圧倒的な軍事力で一撃でルブリン収容所のユダヤ人囚人を絶滅させることを決定した[3][7][5]。ヒムラーは、総督府の高等SS・警察指導者であるフリードリヒ・クリューガーに殺害の実行を命じたが、クリューガーはオディロ・グロボクニクの後任となったばかりのSS・警察指導者ヤコブ・シュポレンベルクに殺害を委任した[8][7][9]。ユダヤ人収容者は、マイダネク、ポニャトワ、トラウニキ強制収容所の外周に沿ってジグザグの塹壕を掘るように命じられた。マイダネクでは、300人の囚人チームが3交代で、火葬場の南側にある第5フィールドに溝を掘った。長さは約100メートル、深さは2~3メートル、幅は1.5~3メートルだった。塹壕は空襲を防ぐためのものとされ、ジグザグの形をしていることから、その嘘にも信憑性があったが、囚人たちはその真の目的を推測していた[7][10][11]。
11月2日、2,000~3,000人のSSと警察官がルブリンに到着した:遠くクラクフから来た武装親衛隊、警察連隊22、警察連隊25(予備警察大隊101を含む)、ルブリン保安警察などである。その日の夜、シュポレンベルクは、自分のスタッフ、マイダネク、トラウニキ、ポニャトワの司令官、地元の治安警察司令官カール・ピュッツ[de]、各部隊の司令官を集めて会議を開いた[3][12]。翌日の明け方から始まる予定の殺人作戦は、軍事作戦として計画されており、コードネームは「Erntefest(「収穫祭」)」であった[5]。マイダネクでは、パトカーに取り付けられた2台の拡声器が、1台は塹壕の近くに、もう1台は収容所の入り口に配置されていた[13][14]。ユダヤ人捕虜を収容していたルブリンのリポワ7収容所の指導者は、捕虜の処刑を許可してジュネーブ条約に違反するかどうかをヒムラーに質問した。ヒムラーの側近であるヴェルナー・グロートマンは、「例外なくすべてのユダヤ人は清算の対象である」と答えた[15]。
総督府の強制労働収容所。右上は「収穫祭」作戦の被害者。
殺害
マイダネク
第5収容所は、このマイダネクの地図の左下にある長方形の部分。
1943年11月3日の5時、マイダネクの囚人たちはいつものように暗闇の中で起こされたが、夜の間に500人の兵士が追加で収容所を取り囲んでいた[3][13][14]。 3,500人から4,000人のユダヤ人囚人[16]は、非ユダヤ人の囚人の中で生活していた。朝の点呼の後、グループは分けられ、ユダヤ人は第5収容所に行くように命じられた[13][14]。医務室にいたユダヤ人はそこにトラックで運ばれ、第5収容所にいたユダヤ人以外の囚人は第4収容所に移された。鉄条網の位置を変えて、死刑執行エリアをコードの中に入れた。囚人たちは服を脱がされ、100人単位のグループ[17]で収容所の向こうの野原にある3つの塹壕に追いやられた[18]。塹壕に続くスロープの始まりで、ユダヤ人は10人のグループに分けられ、強制的に塹壕に向かった[19]。 警察大隊と第5SS戦車師団Wikingからそれぞれ10~12人の処刑部隊が待機しており[18]、数時間ごとに交代していた。囚人たちは塹壕の中で横にさせられ、うなじを撃たれた[20]。
ルブリン飛行場の収容所では、マイダネクでの虐殺の後始末をするために、男女半々の約600人の囚人が選ばれた。残りの約5,000~6,000人[21]は、リポワ7のユダヤ人捕虜2,500人とともに、マイダネクに向けて行進した[21][22]。厳重に警備されていたにもかかわらず[19][15]、ユダヤ人捕虜たちは警備員に突進して逃げようとし、「Niech żyje wolność!(自由万歳!)」と叫んだと伝えられているが、ほぼ全員が逃げる前に射殺された[23][15]。他の収容所からの最初の囚人は7時半頃にマイダネクに到着し、午前中はずっと到着し続けた[23][16]。マイダネクのユダヤ人の中には、自殺したり、バラックに隠れたりして運命から逃れようとする者もいた。翌日、23人のユダヤ人が発見され、マイダネクの火葬場で処刑された[24][19]。 前日から設置されていたスピーカーは、銃声が聞こえ始めるとすぐにスイッチを入れたが、それでも聞こえてきた[19][16]。地元のポーランド人は、収容所の外にある近くの建物の屋上から見ていた[18][25]が、シュポレンベルクはフィーゼル・シュトルヒの飛行機から観察していた[25]。作戦が進行中であったため、誰が指示したかは不明である:シュポレンベルクかヘルマン・ヘーフレだったのかもしれない[19]。殺害は17時頃まで途切れることなく続き[24][19]、それまでに18,400人の囚人全員が殺害されていた[18]。
トラウニキ
この作戦の前には、収容所に隣接するポーランド人は引っ越しを余儀なくされ、少し離れたところに住んでいる人は家に留まることを余儀なくされた。収容所の外の集落に住んでいたユダヤ人囚人は収容所に戻された。11月3日の5時、囚人たちは点呼のために招集され[26]、駆り集められ、塹壕の横で拡声器が音楽を流しているヒウィの訓練所に行進した。犠牲者は服を脱いで山積みにし、すでに撃たれた者の上にうつ伏せになって、死刑執行人がうなじに銃を撃って処刑するように命じられた[21]。 女性や子供よりも男性が先に射殺された[26]。 7時にドロフクザからの囚人が鉄道で到着したときには、すでに射殺は始まっていた[21]。塹壕が埋められた後、一部のユダヤ人は労働キャンプの砂場で処刑された[27]。6,000人のユダヤ人の処刑は15:00(または17:00)まで継続して行われ[21][26]、隠れて生き延びることができたのはわずかだった[21]。
作戦中に殺害されたトラウニキのユダヤ人囚人に発行されたID。
ポニャトワ
マイダネクにいたSSや警察の兵士の多くは、虐殺が終わった後も、約50キロ離れたポニャトワに向かっていた[18][28]。ポニャトワでの虐殺に参加した部隊は、予備警察大隊101、[28][29]自動車化憲兵大隊1、警察大隊41、警察大隊67などであった[29]。虐殺前の収容所には14,800人のユダヤ人がいたが[29]、そのほとんどがワルシャワ・ゲットーから来た人々だった[5]。11月3日、ユダヤ人たちは点呼の後、兵舎に戻された[30]。収容所は封鎖され、電話線も切断され、囚人たちは自分たちにどんな運命が待ち受けているのか知ることができなかった[25]。選抜があると思って、自分をより健康的に見せようとした者もいた[18]。 その晩、キャンプは1,000~1,500人のドイツとウクライナの兵士に囲まれ[27]、朝までにキャンプの周りに3つの同心円状のセキュリティ・コードが形成された[29]。
翌朝(11月4日)、4時30分には点呼のために囚人たちが起こされた[26]。虐殺の後始末をするために、司令官ゴットリーブ・ヘリングの強い要望で一時的に免れた200人の囚人を除いて、ほとんどが第3ホールに収容された;キャンプのキッチンに閉じ込められてしまった。警察官は、バラックや工場の中に隠れている人がいないかどうかを調べた後、収容所内のラガーシュトラーセ(大通り)の両側で見張りをしていた。囚人たちは裸になり、すべての貴重品を渡し、50人のグループでラガーシュトラーセを男性から順に歩くように命じられた[31]。大音量の音楽が鳴り響く中、囚人たちは長さ95メートル(310フィート)、幅2メートル(7フィート)、深さ1.5メートル(5フィート)の収容所の入り口脇にある2つの塹壕に押し寄せた[32][33]。 一人の兵士が鞭を持って塹壕の入り口に立ち、ユダヤ人たちに、すでに射殺された人たちの死体の上にすぐに横たわるように促した。2人の狙撃手が塹壕の長辺にそれぞれ立ち、犠牲者を交互に撃っていたが、それぞれがシュナップスのボトルと武器を再装填するためのアシスタントを装備していた[31]。 目撃者によると、犠牲者の多くは殺されずに負傷して塹壕に横たわり、その上にさらに死体が積み重なり、SSを罵っていたという[34]。
14時頃、昼食休憩のために処刑は中止され、酔っ払った処刑人たちは解放された。塹壕は浅すぎることが判明し、血まみれの死体が端からこぼれ落ちた[35]。ポニャトワの囚人の中には、抵抗グループを結成し、いくつかの武器を手に入れることができた。18時、約100人のユダヤ人グループが、衣類の詰まったバラックに火をつけ、別のバラックに立てこもった。ドイツ軍はこれに火をつけ、レジスタンスのメンバーを皆殺しにした[27][35]。ポーランド人の消防士が消火のために投入され、ドイツ人が負傷したユダヤ人を炎の中に投げ込むのを目撃した[27]。処刑が終わったのは17時頃だった[35]。その後、ドイツ兵は塹壕を調べ、生き残った捕虜を処刑した[26];そして、死体に石灰を振りかけ、モミの枝で覆った[35]。3人の女性が生き残り、その夜に集団墓地から這い上がり、ジェゴタの助けを借りて戦争を生き延びた[36]。 全体では、数時間のうちに14,500人が殺された[37]。
隠蔽
殺害の痕跡をすべて取り除くことは、東部戦線におけるソ連軍の勝利のため、ナチスの指導者の優先事項であった[38]。 スターリングラードでのドイツの敗北の後、ソ連軍は1943年末までにウクライナ、ロシア、ベラルーシ東部の大半を奪還した[39]。マジュダネクでは、清掃に2ヶ月を要し、アウシュビッツで死刑執行人だったエーリッヒ・ミュフスフェルトの監督のもとで行われた[38]。飛行場収容所[21]の男女600人は、マイダネクで殺害されたユダヤ人の衣類を選別しなければならなかった[24]。この作業を終えた女性たちは、アウシュビッツに送還され、ガス室で殺された[24][19]。男たちは死体を火葬しなければならなかったが、その後、彼らは殺されるか[24]、ゾンダーコマンド1005に採用された[19]。 目撃者たちは、数ヶ月間、肉の焼ける悪臭が周辺に漂っていたことを思い出した[40][41]。 溝は土で埋められ、平らにされた[40]。
ミレジョウォ強制収容所のユダヤ人たちは、11月5日にトラウニキに送られ、大虐殺の後始末をすることになった。6人の女性は厨房で働かされ、男性は死体から金歯や隠された貴重品を取り出すよう命じられた。8日後(2~3週間後)に男性は処刑されたが、イェーヘル・ヘリングだけは女性に化けて彼らと一緒に隠れていた。女性たちは1944年5月まで収容所に残り、殺されたユダヤ人の持ち物を整理していたが、その時点でマイダネク経由でアウシュヴィッツなどの強制収容所に移送された[42][13]。
約50人のユダヤ人はポニャトワで銃撃から逃れ、150人のユダヤ人は銃撃の後、死体を片付けて火葬するために生き残った。それを拒否した彼らは、11月6日に銃殺された[27]。そこで、ウクライナ人にも命じたが、彼らは非常に嫌がり、大酒を飲んだ。多くの人が脱走し、1週間後には残ったウクライナ人もそれ以上は拒否した[35]。イスラエルの歴史家デビッド・シルベルクラングによると、120人のユダヤ人が作業のためにマイダネクから連れてこられたという[43]。 他の報告では、クラシュニクからの警察大隊316の警護の下、6週間かけて作業を成し遂げたゾンダーコマンド1005の囚人は60人から80人。 死体は馬のチームによって塹壕から引きずり出され、木とガソリンを使って火格子で焼却された。ある夜、6~8人のユダヤ人が逃げ出したが、その多くは後に捕らえられて処刑された[35]。このプロセスの間、腐敗した死体は非常に悪臭を放ち、硬いSS隊員が嘔吐したと伝えられている[41]。 その後、ユダヤ人の囚人たちはプワウィの警察大隊101の男たちによって処刑された[35]。
トラウニキの収容所事務所で働いていたユダヤ人囚人のリスト。11月3日に全員が殺害された。
余波と意義
マイダネクの記念プレート
11月3日はマイダネクの囚人たちから「血の水曜日」と呼ばれていた[44]。 この作戦の後、ルブリン地区(デェンブリン・イレーナとブジン[pl]を含む)にはユダヤ人のための10の労働収容所があり、約1万人のユダヤ人がまだ生きていた[45]。ブジンのユダヤ人は、マイダネクの収容所のサブキャンプであるにもかかわらず、処刑されなかった。生存者の話によると、ブジンからマイダネクに連れて行かれたユダヤ人は一握りで、血まみれの服と虐殺の話を持って帰ってきたそうである。イスラエルの歴史家デビッド・シルバークラングは、収容所が存続したのは、地元のドイツの役人が奴隷労働から経済的な利益を得続け、前線への移動を避けたかったからだとしているが、なぜ収容所がヒムラーの目を逃れたのかは不明だと述べている[46]。
収穫祭の作戦は、クラクフ地区やガリシア地区のドイツ国防軍の収容所を含む生き残ったユダヤ人の他の虐殺と重なっていたが、SSの指揮下に置かれていなかったラドム地区の強制労働収容所は免れていた[47][48]。ルブリン地区では、ユダヤ人はアンノポル=ラチュフ、プワヴィ、その他の小さな場所で別々に殺された[49]。殺害された囚人の多くを雇用していたSS企業「オストインダストリー」には、事前に知らされていなかった;同社は月の終わりに清算された[50]。この作戦でラインハルト作戦は終了した[24]。
クリストファー・ブラウニングによると、死者数の最小推定値は、マイダネクとポニャトワで30,500人であった[51]一方、トラウニキでの死者数の推定値は6,000人から始まっているが[21][27]、8~10,000人もの死者が出た可能性がある[27]。全体として、この作戦では39,000人から43,000人[24]、少なくとも40,000人、[3]42,000人、[48]または42,000人から43,000人の犠牲者が出たと様々に推定されている[47]。収穫祭は、ドイツ軍が行ったホロコーストの中でも最大規模のユダヤ人虐殺であった。これはキエフ郊外のバビ・ヤールでの3万3000人以上のユダヤ人の殺害を上回り、1941年10月にルーマニア軍が行ったオデッサでの5万人以上のユダヤ人の虐殺に匹敵するものだった[5]。
戦後、シュポレンベルクは作戦に関わったとしてポーランドの法廷で裁かれ、有罪判決を受けて処刑され、ピュッツは自殺した[37]。 1999年、アルフォンス・ゴッツフリッドはマイダネクでの殺戮に参加したとして刑期を終えた[53]。 マイダネク国立博物館では犠牲者を追悼する式典が行われている[54][55]。
▲翻訳終了▲
確かに、収穫祭事件単体では約四万人という膨大な犠牲者を出していますが、前述の通り、現在のマイダネクの犠牲者数は八万人弱であり、つまり、収穫祭作戦を除くと、四万人しか(「しか」は変ですが)犠牲者がいないことになり、しかも収穫祭作戦はユダヤ人ばかりが犠牲者ですから、ユダヤ人犠牲者総数は六万人弱なので、それ以外ではユダヤ人は二万人弱しか犠牲者がいないことになります。
これのどこが絶滅収容所なのでしょう? しかも収穫祭作戦ではガス室は使っておらず、それ以外を全てガス室で殺していたとしても、ガス室で二万人弱しか殺されていないという事実は、絶滅収容所の機能を果たしていると言えるのでしょうか? しかも、収穫祭作戦で生き残ったユダヤ人女性をアウシュヴィッツ送りにしてガス室で殺害、だなんて不自然です。どうしてそこで殺さないのでしょう?
疑ってるわけじゃなくて、マイダネク収容所の実態がよくわからないのですよねぇ。実に不思議な収容所です。ともあれ今回は以上です。マイダネクシリーズはあと何回か続きます。
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