第四章 完全フリーランスへ(2)
「自分の復興」を目指して
どの自然災害の後もそうだと思いますが、地震以降の熊本でも、「がんばろう」や「復興」という言葉があふれていました。もちろん、それが当然の流れだろうし、いいことだと思います。ただ、私の知る範囲では、すでに出来るかぎりがんばっているのに「がんばれ!」と言われて、「どこまでがんばればいいの?」とキツい思いをしている人が結構いました(私もそうでした)。そして、「復興」の名を掲げながら復興とは無関係なイベントを行なっていた人たちが少なからずいました。これは、本当に復興を願って行なわれているイベント(とそれに携わる皆さん)にとっての冒涜にもなります。そういったいろいろなことで、ずっとモヤモヤしていました。そして達した結論は、
「まずは自分自身の復興」
でした。そこから始めないと、地域の復興には貢献できません。いや、ムリにそれを目指す必要もない。ムリならムリすることもないのではないか?そう考えたら、ものすごく気が楽になりました。
「自分の復興」がようやく軌道に乗り始めたのは、翌2017年の初夏ぐらいからでした。ムック本の仕事をいくつかまとめて頂き、徹夜した後にそのまま昼間の勤めに出る、ということが何日か続きました。元々睡眠不足に弱かったのですが、さすがに50歳へのカウントダウンが始まってからの連続徹夜はかなりシンドかったです。
ところが、お盆の頃にK氏から、今度は「松本清張原作の映画についての本」を書いてみいないかという提案がありました。清張映画なら、ド定番の『砂の器』(1974)は言うに及ばず、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960)など好きな作品が多い。でも全作品となると…と調べてみたら、意外にも36本。テレビドラマ化は異常に多いのですが、映画化はそこまでなかったのです。すぐにプロジェクトが開始され、私は北九州市の小倉にある松本清張記念館へ協力依頼と取材に行き、またも1ヶ月ちょっとの期間で書き上げました。
何せ推理小説の映画化作品なのでネタバレはできない。でも、ある程度語らないと面白さが伝わらない。なかなか骨の折れる作業でしたが、とにかくガイドブックに徹して、評論は必要最小限に抑えるという姿勢で書きました。その結果、出来上がった「旅と女と殺人と 清張映画への招待」は、私が悩んだところの匙加減がバッチリだというお褒めの言葉を結構頂きました。これもやはり、常日頃「映画解説」に徹するという基本路線を応用したからだったと思います。この時もまた睡眠をかなり削ったので、平均睡眠時間が2~3時間になってしまいました。しかも、そんな状態が続いたせいか、それより長く眠ろうとしても、体や脳が2~3時間すると勝手に目を覚ますようになってしまいました。どうも睡眠障害になってしまったようで、これが昼間の勤めを続けられなくなるきっかけになりました。
一方、私の娘は、高校進学の時にかなり迷った挙句、妻や義母の強い勧めもあり、看護師を目指すため私立高校の看護科に進学していました。高校で3年間、そして専攻科で2年間学んで卒業すれば、正看護師の試験を受ける資格ができます。地震の前の年に高校生になった彼女は、何とか専攻科に進むことができました。正直言って我が家の経済状態で私立はかなり冒険でしたが、正看護師になれば将来の生活は安泰と考え、かなり無理をして通わせていました。清張本の印税も、娘の授業料に消えました。ただ、それでも娘のどこかにまだ迷いが残っているようにも感じていました。本当にやりたいことが他にあるのではないか?しかし、ここまで来たらもう後戻りはできません。娘は一生懸命頑張っていました。
決断への道
その頃、昼間の勤め先に中途採用された事務の女性がいました。二十代前半の美人ですが、背が高くないせいもあり、ハロウィンの時にコスプレでセーラー服を着て行ったら、本物の中学生と間違われて補導されそう、などと言われていました。昼休みの食事の時などに冗談交じりでいろいろ話をするようになりました。
彼女はバンドが大好きで、全国各地に追っかけで行っていました。遠くへ行ってもライブに参戦するだけで、観光もせずに帰って来ると言っていました。かなり、私と似たパターンです。そのうち、本当はミュージシャンのイベント関係の仕事に就きたいけど、収入が心配なので今の仕事を辞められない、といった話をするようになりました。私も大雑把に言えばエンタメ業界に片足突っ込んでいるどころは半身浴ぐらいしているようなものなので、話しやすかったのでしょう。私も、まだ若いうちに決断した方がいいかも知れない、私ぐらいの年になると怖くてなかなか踏ん切りがつかなくなる、みたいなことを言いました。今考えるとちょっと無責任だったかも知れませんが、偽らざる本心でした。また、自分の娘に「本当に進みたい道」を歩かせていないのではないか?という罪悪感のようなものもあったのでしょう。そのせいか、そのうち、やはり会社を辞めてそっち関係の会社に就職することを決心した、と言い出しました。
「会社の人にはまだ言わないでくださいね。」
「言いませんけど、若い女性と秘密を共有するのって、ワクワクしますね(笑)。」
「…上妻さんって、やっぱり変態ですね(笑)。」
というお約束の漫才風やり取りながら、彼女は真剣に前を向いていました。
そんな偉そうなことを言っていましたが、私にしては珍しく5年以上も同じ勤め先で続いていたのが嘘のように、その頃の勤め先での私は急激にボロボロになっていました。睡眠障害のせいか事務仕事に支障が出るようになりました。そのせいか、最上席の上司との折り合いも急に悪化していきました。私にも落ち度は多数ありましたが、これだけはちょっと…と思ったのが、先述の熊本地震の本のことを熊日新聞に取り上げていただいた時のことでした。実際は5000円の手数料を1回支払うだけのオンデマンド出版のことが、見出しに「自費出版」と書かれてしまい、変な誤解を受けなければいいがと思っていたら、その人が、
「何だ、自費出版できるんなら、お金持ちじゃないか。」
と言われたので、ちゃんと説明しようとしたらそれを即座に遮り、まるであの本の出版を「金持ちの道楽」とでも言わんばかりの言いぐさで、ひとしきり嫌味を言いました。こちらは、被災者として伝えなければならないことを伝えようとしたのに…。元々、思い込みと決めつけがひどく、人の話をきちんと聞かないところがある人でしたが、もう一つ大きな問題がありました。同じ熊本市内にいても、被災した人とそうでない人との「被災格差」があることは震災の直後から感じていましたが、ここまでひどいとは…。その頃から、あの手紙の仕事の時のように、
「これはもう、いくら私が残りたいと思っても、もう居られない…」
と感じるようになりました。その間にも、例の事務の女性をはじめ、私のように長く勤めていた人たちすら次々に辞め始めました。これはもう潮時だと思いました。
それに加えて、もう一つ面倒な状況も起きていました。私の母と伯母の視力が悪化し、自立型のケアハウスで生活させるのは困難になりました。とは言え、我が家は狭いし、不動産会社がまったく補修してくれないため半壊状態も続いていたし、何より母たちと妻の折り合いがよくないため、我が家で引き取るのは無理。そこで、全盲の人専門の特養老人ホームに入所の申し込みをしました。普通なら申し込んでから入所まで長くかかるらしいのですが、幸運にも震災の1年後には入所できることにありました。ただ、このホームは市の端にある上に公共交通機関も不便で、バスが1時間に1本、しかも最寄りのバス停から歩いて30分…。車でないとかなり時間を食ってしまいます。入所して面倒を見てもらっているのは本当に助かるのですが、二人とも身元引受人が私しかいないため、何かの手続き、病気やケガでの入院など、何かあると私が出向かなければなりません。そういうことが年々増えてきて、そのたびに私は勤め先を早退しなければなりませんでした。
「また?奥さんに頼めばいいじゃない?」
「…(頼めるなら最初から頼んでます)」
「会社が終わってから行けばいいじゃん。」
「その頃にはもうバスが走ってないんです。」
「そんなところがあるわけないでしょ?」
出た!思い込みと決めつけ!そもそも、いつもマイカーでしか動かない人が、公共交通機関のダイヤなんか知るわけないよね。
ただでさえ、行き着くまでにグッタリになってしまうのに…。それは私以外誰にもやってもらえない役目だからイヤではないのですが、この「時間の融通の利かなさ」が、恐らく大きな決断の最大の理由だったと思います。
そして、順調に行けば娘も来年の春には看護師になって就職…というところまで来た2019年の秋、私は昼間の勤めを辞めて完全フリーランスになる決断をしました。本当ならば、娘がきちんと就職する来年春まで頑張らなければいけなかったのですが、9月いっぱいで辞めることにしました。
会社にもその旨を伝えたものの、肝心の妻にどのタイミングで言おうかと悩んでいました。それでも、これまで以上に頑張って仕事を取り、今まで通勤に使っていた最低3時間も仕事にまわしてひたすら家で仕事をすれば、今よりそこまで減らすことなく収入を維持できそうだと読んだのです。
ところが9月も半ばを過ぎた頃、完全に私の読みが甘過ぎたことが露呈する事態が起こりました。娘が実習で単位を獲得することができず、来年春には卒業できなくなったのです。もちろん、正看護師の試験も受けられません。就職は1年延期。つまり、本来なら来年春で学費の支払いから解放されるはずだったのも1年延期。それだけでも妻は怒りと失望でパニック状態なのに、私が仕事を辞めたことまで知ったら、一体どうなるか…。
クヨクヨ悩んでいるうちに9月が終わってしまい、本当のことを言い出せないまま、私はしばらくの間、通勤を続けている振りをしました。幸運にも、9月に臨時の大仕事がたくさん舞い込んだので、それで辛うじて補填はできていましたが、それも時間の問題でした。しかも、それに輪をかけて大変な事態が、世界中に訪れようとしていました。
(つづく)
<これまでのお話>
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