「前提」の重要性
皆さんは他人との会話のなかでその会話の「前提」というものを意識したことがどれくらいあるだろうか?
きっとほとんどないと思う。
かくゆう私も大学に入り、読書をするようになるまではそんなことは考えたことも意識したこともなかった一人である。
しかし大学に入り、自分で本を読むようになってから「前提」というものが我々が生活するなかで非常に大切な役割であることに気がついた。
そこで我々の生活の陰で前提が果たしている役割を少し深ぼってみたいと思う。
意見の違いは前提の違い
私が本を読んでいて頻繁に出くわすのが、「同じ事柄に対して筆者によって言っていることが違う」という減少である。
私は他の人がどうやって読書をしているのかにすごく興味がある。
そのため、これまでも何冊か読書の方法論について書かれた本を読んできたが、同じ「読書」ということに関しても言っていることが全く違うことがよくある。
読書論などの場合は個人の嗜好がかなり影響しているのでなんとも言えない部分も多いが、往々にして人によって言っていることが矛盾しているということは誰もが遭遇したことがあると思う。
ではなぜこんなことが起こるのか?
その原因こそが、「前提の違い」なのである。
前提というのは、ある結論を導くにあたっての一種の条件のようなものであり、この前提が違っている場合は結論が変わってしまうというのは直感的にも理解し得ると思う。
ここで一つ例を出してみる。
例えば、「大学に行くべきかどうか?」という問題は現在活発に議論されていて、その主張は人によってさまざまである。
ここで主張が割れる原因こそがその主張をしている人が持つ「前提」の違いである。
その主張をする人が研究者であればもちろん大学には行くべきだと答えるだろうし、高卒で自ら起業したような起業家であれば大学など行かなくていいと答えるはずだ。
このようにそれぞれの主張の前提を知っておけば、それが矛盾することも特に違和感のあることとは感じないと思う。
なのに我々はこのような問題にぶつかった時、この前提を忘れどちらが正しいのか?という結論に注意が行きがちである。
だからこそその結論が自分が思う結論と違った場合、「この人は何を言っているんだ?」というふうになってしまうのである。
大切なのは結論ではなく、その背後にある前提
しかしよくよく考えてみると、そもそもこの手の主張が対立する問題には正解は絶対にない。
逆説的だが、正解があるものは問題にならないからである。というのも、1+1が2であることは誰もが正解であるとわかっているため1+1が2であるかどうかという問題はそもそも問題にならない。(実際は1+1が2が本当に2であるのかという問題を提起する人もいるかもしれないがここでは例として出している。)
つまり、まだ正解がどちらかわからないからこそ今現在進行形で問題として現れそれを議論しているのである。
そうなるとこのような問題において、その結論は大して重要ではないことがわかる。
なぜなら結果はどちらも可能性としてあるわけであり、可能性がどちらもあるということはあとは自分がどちらを選択するのかという問題だからである。
そしてその選択をする時に重要なのが「前提」なのである。
前提を知れば、その結論に至った過程を知ることができるし、その過程を知ることで自分はどちらの主張に近いのかをより論理的に理解できるようになる。
大変だけど前提を見る努力をしてみる
我々は面倒ごとは苦手であるが故に何か問題が生じた場合、手っ取り早く回答や正解を求めがちである。
偉そうにこんなことを書いている私自身、どうすればnoteが伸びるのかを手っ取り早く検索している人間である。
しかし自らもそのように結果を求めれば求めるほど、より一層自分が抱える問題の本質は結論にはないということを知る。
だからこそ、面倒でも地道に前提から追うことによって結果的に自分が思う結論に辿り着くことができるのではないかと思う。