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上島竜兵の死を考える【ぼやくカートンちゃんvol.2】

一昨日の午前、あるニュースがお茶の間を騒然とさせた。ダチョウ倶楽部の上島竜兵が61歳の若さで亡くなった。

その時はどうも色んな情報が交錯していたから、はっきりと断定することはできなかったが1日経ってどうやら自殺らしいことが判明した。

つい先日もドリフのネタを現代の芸人たちでリバイバルするという番組があった。そこでも彼の姿はあったのだ。

言われてみれば、確かに声が小さくて最初は誰かわからなかったくらいである。思えば色々と限界だったのかもしれない。もしかしたら公私ともに仲の良かった先輩、亡き志村けんを思い出してしまったのかもしれない。

身体を張った芸風がこのコロナ禍で裏目に出て自分の在り方を思い悩んでいたとか、彼が主宰する芸人同士の飲み会、「竜兵会」が激減して発散できる場がなかったとか、死に至った要因は今も色んな情報が飛び交っている。とはいえ結局は思惑に過ぎない。

余談だがナイナイの岡村も確かうつで休業していたし、彼らの明るさの裏にはそうした脆さがあるのかもしれないな。

どんな理由にせよ、あんな明るい芸風の方が自死を選んで亡くなるのはかなり大きな衝撃がある。

それだけで人によっては結びつかなくていいもの、つまり”自分事の死”に発想が繋がってしまうこともある。最近ではそういうのもあってワイドショーの終わりには厚労省の電話相談に関する案内が流れたりする。

「こころの健康相談統一ダイヤル」とか「いのちのSOS」とか呼ばれるアレである。

確かTwitterとかもそうだったよな。自殺を連想させる言葉を検索すると案内が出される。これも最近からなような気がする。

その案内が果たして正しいのかどうかはわからない。

とはいえはっきりと言えるのがいい加減、「こころ」とか「いのち」とかこの手のメンタルの問題をぼんやりとした言葉で表現するのはやめませんかって思うのだ。

自殺を選択するというとまるで自分の意志かの如く考えるだろうが立派な脳の機能障害なのだ。そこをいい加減我々は理解したほうがいい。

”気持ち”を理解するのではなく、そうした危険を孕むヤバい脳の病気なんだと。

理解すべきは”気持ち”ではなく”症状”

健康な人にとって死にたい気持ちを理解出来ないのは当たり前だと思う。

はっきり言って相手の気持ちを完璧に理解するのって不可能だと思う。

相手の気持ちを理解するのは努力次第でなんとかなるから常に理解してなきゃいけないと思い込んでいる。

それは子供の頃から立派な大人とは「誰かの目線に立って考えられる人」とか、「想像力を豊かな人」だと習うからだ。

でも全ての気持ちが理解できないことが果たして悪いことかと言われるとそれはどうだろうな、と思う。

中には理解しちゃいけない気持ちだってあるのだ。

SNSではこうした訃報が流れるたびに理解できない人の発言に対して「こんなんだから(=世間が冷たいから)自殺者が減らないんだ」とバッシングされることも少なくない。
そうそう、最近よく聞く反応だと「死ねるほどの勇気があるんだから本気で何かやったらどうだ」とかね。
この手の理論は大抵わかってないとかなんとかで、バッシングされる。

わざわざあえて理解出来ないことを言ってしまう配慮の無さなのかもしれないが、実際言わないだけで到底信じられない・理解出来ない人が多くて当たり前だと思う。

実際、先日の訃報でも人によっては「なんでそんなことを」とか「貴重な命を自ら断つなんて」とかコメントを聞く。

それを聞いてこうした「死にたい」理解を健常者に求めるのはやめたほうがいいかもなと思ったのだ。

世間では理解することが思いやりなのかもしれないが、それは自分にも相手にも同じ思いを味わわせることではないのだ。

むしろ逆でこうした思いを少なからず思ってしまったカートンちゃんからすると理解させてはいけないことだと思う。

では理解すべきはなんなのか。やっぱり「死に至る脳の機能障害である」という認識なのかな、と思う。

最近になって段々とその輪郭が掴めてきたけど、カートンちゃんだって最初は意味がわからなかった。自分のことなのにコントロールが効かないなんて、発病して数か月はひたすらに困惑していたのだった。
それが段々と同じ人たちに出会ったりするうちに解像度が上がってなんとなくだが理解できるようになってきた。

理解できて初めてわかったのが、決して「こころ」とかそんなフィーリングの問題ではないということである。

詳しい原因は今も研究中のように、正直ハッキリとした仕組みはよくわかっていない。ただよく聞く説明として神経伝達物質の問題だと言われることが多い。
それに対して「こころ」とはどんな意味かというと、「心」つまり「心臓」と。少なくともイメージとしては頭よりも胸部に宿っているイメージがある。
加えて面白い説明がある。これは2015年に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。2015」キャンペーンでの「心」への投稿から選ばれた優秀作品を一部抜粋したものである。

◆ある者にとっては鋼であり、ある者にとってはガラスであるもの。
Kentaさん
◆世の中で一番売ってはいけないもの。
Shinさん
◆人間の核。不安定で常に変化しており、脆く弱く壊れやすく、ときに自分の生死をも左右しうるもの。しかし、苦境を乗り越えるたびに強くなる。
bunbunさん
◆せかいいち性格の悪いともだち。
ホンダマリコさん
◆人間の核の部分。存在するようで存在せず、存在しないようで存在する。
ゆいおさん
◆目に見えず、触れることもできず、あったりなかったり、強かったり細かったり、人によっては頻繁に折れたりする。なのに、時々、すべてに打ち克つ力になる。
ふくにゃさん
◆頭の良きライバル。
カリカリさん
ここからわかる通り「心」と聞くとなんとなくだがなくしてはいけないという特別感があって、人によって強弱あるものだとされている。なにより「頭で考えるのではなく心で考えろよ」というようになにかと頭と対比されることが多い。
大辞泉公式サイト「あなたの言葉を辞書に載せよう。2015」

我々の感情の正体は脳神経物質による信号ですよ、と言われると夢も希望もない感じがするが、「心の病」と聞いてなかなか脳と結び付きにくいのはこうしたイメージの違いもあるのかもしれない。

なんにせよ、一つ言えることは自殺となるともはや気持ちの問題ではないのだ。その証拠に精神科では「自殺願望」は「希死念慮」という一つの症状としてカウントされている。
脳が引き起こす重大な症状なのである。

終わりに

最近この手のニュースが増えて少しずつ周りの認識も変わりつつある。あくまで肌感だが着実に変わってきているような気がするのだ。それが良いことなのかは正直よくわからないが。

ただ、一生のうちにうつ病になる頻度が約15人に1人と考えられているこの時代、遠かれ近かれ周囲でも病んじゃった人と出会うことはあるかと思う。

そんな時にお互い感じるこのモヤモヤがこころから脳へと認識を変えることで少しは解消されるのではないか、最近カートンちゃんはそんな気がするのである。


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