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『ゴドーを待ちながら』雑談
忙しくなると今必要なこと以外の余計なことを考えがちになります。
急に『ゴドーを待ちながら』のことを考えてしまい、大したことは考えてないとはいえ、今考えたこととして記録しておきたくなりました。
ちなみに、この雑談は『ゴドーを待ちながら』の感想は書いていますが、有益な解釈とかは書いていないのであしからずご了承ください。
最初にゴドーを待ちながらを読んだのは3年ほど前。以下はその際の感想です。
最初に感じたのは事前に知っていた【ゴドーを待っている二人の男のやり取りを描いた戯曲】という情報から想像していた内容と違う事への戸惑い。
多分、何となく想像していたのは、もっと分かりやすく人間への風刺を描いた喜劇的な内容なんだと思う。
実際に読んで感じたのは喜劇でもあるが、その理解に難解に感じる要素が多く、思った以上に分かりやすいストーリーがないこと。
【ゴドーを待つ二人】という場を用意して、その状況に留まりながらどれだけ芝居として成り立たせられるかの挑戦にもみえた。
そもそも難解に感じている事自体も正しいのかがわからない。
登場人物達のやり取りは面白くも悲しく不安にもなる。
ヴラジーミルに内向きに考えすぎる自分を投影してしまい、自分だったらゴドーを待つことはできないと思った。
今後、作中の要素についても理解を深めてから、もう少し考えてみたい。読んでよかったのは間違いなし。実際の舞台も観てみたい。
相変わらず作中要素の理解は進んでいません。
そんな中で、急に「ゴドーってなんだ?」と考え始めてしまったのでした。
ふと考えただけなので、世に数多ある素晴らしい解説や解釈のような内容ではないですが、良ければごらんください。
当時は初読のため脚本全体について考えていましたが、改めて「ゴドー」が気になってきたのです。これは、作中の「ゴドー」というよりは、観客・読者が「ゴドー」と聞いてイメージするもののことです。
今の時点で思うのは、「ゴドー」とは不定の者であり、この芝居を観ている者が観劇中、又は終了後に感じる自分の中にある価値観や思考そのものなのだということでした。
だからこそ、明確にストーリーと呼べる様な内容が無く、不条理にも感じられる展開である必要があったのだろうと感じたのです。
分かりやすく起承転結があるストーリーがあったり、実態を伴ったゴドーが出てきては、そこから感じるものは狭められてしまいます。
「ゴドー」に「ゴッド」として神を観る解釈は、その人自身が神という存在を大切にしているからだろうし、もし芝居の内容にもゴドーにも何の意味もないということを感じたとしても、それも一つの解釈として並列に存在するのだろうと思います。
一人の人でも、観る時期によって「ゴドー」の存在の解釈が変わるし、芝居自体を面白く感じるかどうかも変わる。
実際の芝居で観るとしたら、演者が演じる姿から、そこにいない「ゴドー」を構築していくこともあるかもしれない。
今の自分にとっての「ゴドー」は、永遠の退屈に気付かないための思考の種の一つというところでしょうか。しかし、これすらも文章を書きながら考えたことなので、深層の意識を拾っているかは分かりません。
いつか、作中に込められた様々なものの意味を、意図的なのか、作劇上利用しただけなのかを考え、更に深化した思考を出来るといいなと思いますが、それはいつになるのでしょうか。
そんなことをつらつらと考えながら、やらなければいけないことをちょこちこと進めたり、進めないといけないなと思ったり、眠くなったりしていました。
サミュエル・ベケット/安堂信也・高橋康也 訳『ゴドーを待ちながら』白水社, 2013
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