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井伏鱒二 読書記録②


朽助のいる谷間(1929年)

幼い頃から面倒を見てくれていた谷木朽助は、私のことを贔屓していた。彼は私が偉くならなければ辛いと常々話していた。東京に出て文学青年をしている私は、弁護士だと思われるような振舞いをしていた。そんな時、タエトというハワイからやって来た朽助の孫娘から手紙を貰った。朽助のいる谷間が日本政府の命令で貯水池が作られるため沈むことになったが、朽助が了承しないため説得して欲しいと言うのだ。私は朽助のいる谷間を訪ねた。

若い頃はハワイへ出稼ぎへ行っていた77歳になる朽助と文学青年の私、そして朽助の孫娘で日本人とアメリカ人の両親を持つタエトの、谷間が水底へ沈むまでの日常が描かれていました。
長年住んでいた所が、逆らいようのない力により失ったのは、朽助も小鳥も一緒だったのだと思います。
独自の考え方をもち、頑なな所もある朽助ですが、彼の純粋さは尊いものだと感じました。


丹下氏邸(1931年)

姫谷焼きの陶器の竈跡を発掘する目的で姫谷村に来た私は、役場の収入役である丹下亮太郎氏の家へ止まっていた。
丹下氏の家には、小さい頃から丹下氏邸に世話になっている谷下英亮という男衆が居た。
これは、この男衆を中心に私の目から見た日常をスケッチした物語。

田舎独特の風習、それを外から見ている余所者、結婚してから長いのに一度も一緒に暮らさず年に一度も顔を合わせない谷下夫婦。どこか不思議で、あまりにも普通な日常の描写が面白かったです。


「槌ツァ」と「九郎治ツァン」はけんかして私は用語について煩悶すること(1937年)

私は両親を「トトサン」「カカサン」と呼んでいたが、物心がつくころから恥ずかしくなった。私の郷里では、階級によって両親の呼び方が決まっていた。同じように、人の名前を呼ぶにも階級的区別があった。名前の呼び方から「槌ツァ」と「九郎治ツァン」の争いは大きくなっていった。

ある村における言葉の使い方による騒動を描いたユーモア漂う短編。この傍からみると大したことがないような「槌ツァ」と「九郎治ツァン」の争いも、この2人の争いを語りながらも結局自分の両親の呼び方をどうするかに思考が戻る私の悩みも、当人たちにとっては真剣なのだと伝わってきた。


へんろう宿(1940年)

土佐の遍路岬の部落で泊まった「へんろう宿、波濤館」は、宿屋の経営者に該当する人がいなく、老婆が3人と子ども2人だけで営んでいた。夜中に目覚めて耳に入ったのは、老婆や子ども達の境遇についてだった。

親に捨てられた女性だけで代々経営を続けてきたへんろう宿。子ども達も当然捨て子であり、初めから嫁に行くこともしないのだという。そんな過酷な境遇を淡々と客に語って聞かせるお婆さん。物語も、あくまで一泊の宿の客人の目を通して淡々と終わる。
そこにあるのはあくまで日常であるという描き方が、逆にエピソードの印象を強くする好編でした。


遙拝隊長(1950年)

戦場でトラックから転げ落ちて怪我をしてから、部隊に居た頃から抜け出せなくなった男・岡崎悠一。村に帰ってきてからも、時々発作が起きては周囲の青年たちに「歩調をとれえ」などと命令をしたりする。
もともと彼は、遙拝することが好きで、何かにつけて遙拝し、部下にも遙拝させていた。
部下からは嫌われていた遙拝隊長。これは、そんな彼を中心とした記録である。

遙拝隊長と母親の悲哀。周囲の人間の冷めた目線。しかし、もともと好人物とは言い難そうな遙拝隊長。戦争という世界に閉じ込められている彼は幸せなのかもしれませんが、戦争が彼を作ったと思うと皮肉でもあります。
そんな悲哀と村の風景が重なって、もの悲しさが溢れてしまいました。
ある時は許容されていたことも、場所や時が変われば異質でしかなくなるということを短い中で描いており面白かったです。


井伏鱒二の小説を読んでみて感じたこと

動物や田舎を扱ったものが多く、今読んでも読みやすい程よいユーモアが感じられる文章と、そこに滲む人間臭さのバランスが好きでした。

今回読んだ10編中では、物語として大きな動きがあるのは「屋根の上のサワン」位で、基本的には日常の一幕を扱っているのが、逆にエピソードの印象を強くしていました。

まだまだ読みたい作品はあるので、これからも少しずつ読んでいきたいと思います。


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北極羆
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