見出し画像

善とは絶対的なものか? ―バスの席譲りから考える現代社会の「善」のかたち―


西田幾多郎の「善の研究」を読んで「善とは何か」について深く考えるようになりました。西田の著作は抽象的で具体例も少なかったため、理解が難しい部分が多々ありました。そこで読書会に参加して、より明確なイメージをつかもうと考えました。

そこで私が例として挙げたのが、「バスの中で子供がお年寄りに席を譲る」というシーンです。当初、私は以下のように考えていたように思います:

1. 善行には段階があるのではないか
2. 完全な善とは、長年の訓練や修練の結果到達するものかもしれない
3. 芸術家や武道家が無意識のうちに素晴らしいパフォーマンスを見せるように、意識せずに自然と善行ができる状態が理想的なのかもしれない

しかし、読書会での議論を通じて、新たな視点を得ることができました:

1. 人間が完全な無意識状態であったかどうかを他者に証明することは原理的に難しいのではないか
2. 子供が席を譲る動機には、さまざまな可能性が考えられます
  - 教師や親からの教えに従ったのかもしれない
  - 周囲の視線を気にしたのかもしれない
  - 純粋な善意からかもしれない

つまり、行為そのものが善であるかどうかは、単純には判断できないのかもしれません。重要になってくるのは:

- 行為者の意図
- 受け手の意思や感情
- 両者の間での相互理解

ヘーゲルの「哲学」の考え方を借りれば、善とは絶対的なものではなく、状況や関係性の中で相互に認め合うことで成立するものなのかもしれません。例えば、話を聞くと、お年寄りの中には健康のために意図的に立っている方もいらっしゃるでしょう。そうした場合は、そのお年寄りが立ち続けることを受容するのも一つの善行なのではないかと思います。

このように、善とは対話と相互承認によって形作られていく可能性があるのではないでしょうか。



#席を譲る #善とは何か #西田幾多郎 #現代社会 #倫理 #哲学 #日常の中の善 #相互理解 #コミュニケーション #思いやり ​​​​​​​​​​​​​​​​

いいなと思ったら応援しよう!