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「教室で感じた他力:不思議なメッセージ満載の一日」


序章: 不可抗力的な力の働き

今日、教室の中で意識的な営みを超えた、不可抗力的な力が働いている感じを強く感じました。どれも自動的に身体が動くような、人知を超えた力、仏の「他力」の働きだったのかもしれません。


私語と拒絶:教師の挑戦

実は、クラスで子どもたちの私語が止まらず、拒絶された感覚に苛まれていました。

もう何を言っても、何をやっても、生徒の私語が収まらず、自分の無力感と限界に私はただぼう然と立ち尽くすしかありませんでした。自分の存在意義が全くわからなくなる位、私は目の前が暗くなりました。

しかし、今思うと、こうした状態も仏の他力に導かれていたのかもしれません。


生徒からの意図せぬ助け:他力の顕現

授業後に、1人で、床に散らばったプリントを拾い集めていると、何人かの生徒が無心に黙ってプリントを拾い上げて私に手渡してくれました。

私は、子供たちのそうした思いもかけない行動に驚きながらも、子どもの行動には「褒められたい」とか「ご褒美が欲しい」とか、一切の意図的なものは感じられず、ただひたすら体を動かして、私に救いの手を差し伸べてくれていたのでした。

それは、意識的ではなく、不可抗力的な力(他力)によって動かされていたかのようでした。


ゲームの提案:不可抗力的な導き

複雑な思いを抱きながら、次の2年生の教室で、これから授業を始めようと言う時に、男の子が「ゲームをしたい」と言い出しました。

普通でしたら、こうした突拍子もないコメントについては、あまり真剣に聞こうと言う気持ちが起こらないのですが、今回に関しては、何か抗しがたい力が働いて、とにかく聞いてみようと言う気持ちになったのです。

ちょっとしたら、この言葉もまた、意識的な営みではなく、他力の導きによって生じたものだったのかもしれないと思いました。


身体を使ったゲーム:他力の教育への応用

昼休みにオーストラリアの子供たちが教室の中で、どのような身体を使ったゲームを楽しんでいるのかについて調べ、早速身体を使った集団ゲームを授業に取り入れてみようかなぁと思いました。

すると、午後の授業において子どもたちは自ら率先して、お互いに競い合いながらも、協力し合いながら、全力で集団ゲームにへ取り組み始めたのです。つまり、私がおせっかいに手を下さなくても、子供たちは自動的に集団活動を展開していたのです。そうした様子も、意識的な努力から行われていたものではなく、他力が働いている感じがしました。


結論: 他力の働きと教育の革命

今日は「他力」の力に導かれた特別な一日でした。私語を止められない生徒たちも、プリントを拾い上げる生徒たちも、ゲームを提案する生徒たちも、すべてが不可抗力的な力によって動かされていた感じでした。この他力が、教育の新しい方向への一つの道しるべとなるのかもしれません。

オーストラリアより愛と感謝を込めて
野中恒宏

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