「社会」はどこにあるのか?
#哲学 #欲望相関性の原理 #観念 #社会 ——— 一般的な見方(自然的態度)として、私たちは社会の中に自分(たち)が存在していると思い込んでいます。しかし実際には、人間は主観というOSの外に出ることができず、どんなに客観的な事実だと思ったとしても、それは自分の主観の中で捉えているに過ぎません。
たとえば、自分が客観的だと思っているものを証明するために高性能のカメラなどを使用したとしても、それを確認するのはやはり人間の主観でしかありません。つまり、原理的に人間は主観の外に出ることができず、客観的な事実や絶対的真理には到達できないということになります。
したがって、私たちが客観的だと思っているものは、すべて心の中の意識に生じた現象だということになります。そうすると、私たちが捉えている社会も、実は自分たちの内面の意識に浮かんだ観念であり、客観的な実態としての社会はなく、誰も「社会」というものの輪郭に触れることができないということになります。
奇妙なことのように聞こえるかもしれませんが、客観的な社会というものはないとも言えるわけです。「社会の中に私がある」のではなく、「私の中に社会がある」のです。したがって、私たちに問われているのは、いかに自分の内面の意識において社会と向き合うかということです。
私たちの内面は、様々なものによって影響を受けます。そのうちの重要な要素として、欲望、関心、目的、身体性、記憶などが挙げられます。したがって、私たちがどのような欲望、関心、目的、身体性、記憶を持つかによって、社会は全く異なったものとして立ち現れてくるのです。
私たち一人一人が異なった欲望、関心、身体性、記憶を持っていることは明らかです。それゆえ、異なった社会が立ち現れることは必然であり、お互いが異なった社会を持ちながら歩いているとも言えます。
そういった意味で共に生きる場合、そうした異なった社会を対話によって新たな社会像として形成し、共に自由に生き、自由を相互に認め合いながら生きていく方向性が重要だということが見えてきます。
一見、自分の内と外を区別する一般的な見方がありますが、実はそれはすべて内面の世界に立ち現れているということを理解すると、人と人は共に対話しながら、そうした内面の世界を同じテーブルに乗せて、対話によって新しい社会を形成していくことが重要だということが見えてきます。