「日本の『末人(まつじん)』問題とは?私たちが見過ごしている現代社会の影」
ニーチェの予言と現代の日本
哲学者ニーチェは、20世紀と21世紀の世界が「ニヒリズム(何の意味もない、虚無的な考え方)」の影響を受け、多くの「末人(まつじん)」が現れると予言しました。それから約100年以上が経った今、私たちは「末人」と呼ばれる人々が実際に存在していることを感じています。ここでいう「末人」とは、快適さや安心だけを求め、冒険や挑戦を避け、憧れや目標を持たない人たちのことです。現代の日本社会を見てみると、「引きこもり」や「セルフネグレクト(自己放任)」の問題が、まさにこの「末人」の一例として浮かび上がっているように思われます。
日本版の「末人」とは?
「引きこもり」や「セルフネグレクト」は、日本社会においてどのように「末人(まつじん)」として現れているのでしょうか?多くの引きこもりの人たちは、学校に行かず、仕事もせず、外界との接触を避け、家の中で自分の好きなことだけをして過ごしています。セルフネグレクトの場合、自分自身の基本的なケアを怠り、健康や生活環境が悪化しても改善しようとしない状況が見られます。いずれのケースでも、安心できる場所(コンフォートゾーン)から出ることを極度に恐れ、新しいことに挑戦することを拒む姿が見られます。このような振る舞いは、まさにニーチェが予言した「末人(まつじん)」の特徴の一つと言えるでしょう。
「末人(まつじん)」となる理由は一つではない
ここで誤解してはいけないのは、「末人(まつじん)」は決して彼らの自由な意志だけでそうなったわけではないということです。彼らが「末人」であると決めつけ、すべてを自己責任として片付けるのは、あまりにも単純な見方です。実際には、彼らの中には学校や職場のシステムから無理やり排除された人も多くいます。学びたい、働きたいという強い意志を持っていたにもかかわらず、それが叶わなかった人たちも少なくありません。彼らの意思だけではどうしようもない社会的な要因が重なり合い、現在の状況に陥っているという側面も見落としてはなりません。
「末人(まつじん)」を社会から排除してはいけない理由
だからこそ、彼らを「末人(まつじん)」と呼んで社会からさらに排除するのは、差別的であり、すべての人に開かれた民主主義の理念からも遠い態度です。私たちが本当に考えるべきことは、彼らとどうコミュニケーションを取るかということです。もちろん、話し合いの場に彼らを招くことも一つの方法かもしれませんが、それだけでは限界があります。なぜなら、彼らはそもそも「共通のテーブル(話し合いの場)」に参加すること自体を拒んできたからです。
真の理解への第一歩:ただ「一緒にいる」ことから始める
それでは、どうすれば良いのでしょうか?答えの一つは、無理に「分かり合おう」とするのではなく、まずは「ただ一緒にいること」から始めることです。言い換えれば、対話を求めるのではなく、彼らのそばで過ごし、観察し、彼らの本当の気持ちを感じ取ることが重要です。私自身も、コミュニケーションが難しい相手とただ一緒に長い時間を過ごし、観察することで、表面的な会話では見えない彼らの恐れや焦りを感じた経験があります。テーブルの上での対話だけではわからないことが多くあります。
事件は会議室ではなく「現場」で起きている
結論として、重要なのは、会議室の中だけで解決を図るのではなく、実際に「現場」で彼らとどう共にいるかを考えることです。彼らとのコミュニケーションを深めるためには、私たちもまた彼らの「現場」に足を運び、一緒に時間を過ごすことで新たな理解が生まれるのではないでしょうか。私たちが一歩踏み出し、彼らの存在を認めることで、真のコミュニケーションが始まるのです。