「ハイデガー入門」読書会 - 様々な実存がわたしの中に到来した夜
❤️20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーについてもっともっと学びたいと思っています。しかし、彼の文章は難解であり、多くの人々が挫折しているわけですが、今回そのハイデガーの哲学について竹田青嗣氏「ハイデガー入門」を通じて学ぶ機会が巡ってきましたので、その序章の読書会に参加してみました。そこでの学びや感想をシェア致したいと思います。私は哲学者でもないし、哲学の専門家ではないので、以下の内容は、私という素人の主観の中での起きた事のレポートです。
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❤️1920年代から30年代にかけて、なぜ哲学者、ハイデガーが西洋社会を中心に多くの若者に受け入れられたのかについての考察がありました。私の理解では、当時は第一次世界大戦直後の時期であり、多くの人々がこの先どうやって生きていったらいいのか、また戦争が起こるかもしれないが、自分の死とどう向き合えば良いのかと言うような問いを持ちながら、大きな不安が世界に蔓延していた時期であり、こうした実存的な問いに対して、新しい考えをもたらしてくれるのではないかと言う期待がハイデガーに寄せられたということが、大きな背景の1つではないかと考えました。
❤️21世紀最大の哲学者と言われる一方で、ハイデガーはナチスドイツ加担問題がどうしても浮かび上がってくるわけです。これについては、そうしたナチスドイツとの関わりはほんの一時期であり、その前後の時期では、むしろナチスドイツに対して否定的であったと言う見解があったり、その前後の時期も含めて、ナチスドイツに対してかなり深い関わりがあったのではないかなど、様々な言説があるようです。どのような内容でどのような程度でナチスに関わりがあったのかは即断することができず、さらにはそのような背景を持った哲学者の言説に耳を傾ける価値などあるのか、どうかなどの問題もあり、この問題は非常に複雑で、繊細な内容を含めているので、簡単に結論を出さず、今後も探求を続けていく必要があると感じました。
❤️ハイデガーが存在について探求したのは、西洋哲学の世界にとっては画期的なことであったようです。つまり、それまでの西洋哲学においては、神が存在していると言う事とか、目の前にりんごが存在していると言う事が自明のこととして扱われており、その存在そのものがどういうことであるかについては、真正面から論じられてこなかった歴史があるようです。これは素人目から考えてみても、すごいことだと言う直観が浮かんできます。つまり、人間の存在をきちんと論じることことなしに、人間を探究することは難しいのではないかと思ったりするからです。そもそも、人間の存在があやふやなものであったり、存在は幻想であるということが明らかになってしまった場合、人間そのものを論じる必然性すらくらつきかねないからです。だから、ハイデガーの中に、そうした過去の哲学者たちに対する何か受け入れられない思いもあったのかもしれないなぁと思いました。
❤️今回の読書会において、ハイデガーが「存在と時間」を書いたとき、すなわちハイデガーが存在そのものに考察の対象を向けた動機というか、欲望について議論になりました。確かに、これまで、西洋哲学の中で、存在そのものについて真正面から感じることがなかったので、自分はそうした過去の哲学者が教えなかったことを成し遂げるんだみたいな、ある意味マウントを取るような、上から目線的な欲望はハイデガーの中に実はあったのではないかと言う指摘は無視できないものがありました。しかし、そうした姿勢がもしあったのだとすれば、ちょっと受け入れられないなぁみたいな意見は、読書会でも出てきました。私もそれに賛成です。
❤️はじめ、私はハイデガーは、人間そのものを深く本質的に掘り下げることを目標としており、そのためには、まず存在を明確に論じなければいけないと言うふうに思っていました。しかし、この読書会において、それは逆であり、存在そのものを探求するために、人間の存在を考察すると言う視点であったということが見えてきました。さらには、このハイデガーの存在論は、人間が自分の自由意志と関係なく、この世界に投げ出されたものであると言うこと、死と向き合う人とそうでない人がいること、死と向き合うことによって本来性を生きることができるのではないかということ、時代性と人間の存在、など、その内容は非常に豊かなものであり、それはまるで1つの芋を掘り出そうとしたら、他の芋もどんどんどんどん出てきたみたいな感覚に近いと言う指摘も出されました。何か新鮮な比喩だと思いました。
❤️竹田青嗣氏の文体は、非常に鋭く、様々な哲学者の哲学や思想の本質を捉え、それを読者の実存にわかりやすく語りかける性質がある一方で、時々読者がどきっとしてしまうような非常に強い(私は攻撃的とも受け取れる)表現があると言うことも感じます。そうした表現に出会うと、竹田氏の実存にちょっと触れたような感覚にすらなります。
❤️飲茶さんの書いた「明日死ぬ幸福の王子」の読書会以来、死とどのように向き合うかと言うことが、私の中で大きな問いとなっており、普段このテーマについて深く話し合う人間が周りにいないので、私のわがままで、この点について、各自の実存的な思いを交えながら、対話をする場を放課後に設けていただきました。本当に心から感謝です。そして、意外だったのが、皆さんの死に対する思いや経験を語っていただければいただけるほど、逆に重い気持ちにはならず、非常に豊かな気持ちになっていったということです。そして、私が死にたいして恐怖を感じてしまうのは、そもそも原理的に死は正体のわからないことなので、それは仕方がないことななぁとも思いました。だから、そうした死に対する不安から目をそらすのではなく、その不安をむしろ積極的に活かして、そこから何かが創造できるのではないかと言うワクワク感も生まれてきました。いつ死ぬかわからないと言う事は深く納得しているので、死の不安に怯えて何も創造しないのはもったいないことであるなぁと確信したのです。これも予想しなかったことです。もっとそこら辺の不安な気持ちを遠慮しないで、とことん掘り下げて何か創ってみる(例 死や恐怖についてのダジャレコなど)のも面白いなぁと思えてきました。そもそも私が、苫野ゼミに入って、哲学を学び直し始めたきっかけは、わたし自身死ぬかもしれなかった暴行事件でした。その死にかけた経験が、哲学の門を開いてくれたことも思い出されました。死は何かをスタートさせる可能性を秘めていることが私の中で浮かび上がりました。
この晩の読書会のみなさんのことは死ぬまで忘れないと思います。ありがとうございました😊
野中恒宏