根が明るい、というか、根がポップなのだ(後編)
「根が明るい、というか、根がポップなのだ」後編です。
前編はこちら↓
2007年、私は引きこもりのまま二十歳になった。そして、このころ私はベボベ(Base Ball Bear)のファンになった。
十代のころの私はアメリカに行きたくて(どう考えても現実逃避……)、洋楽ばかり聞いていたので、「日本のバンドなんてダセぇぜ」という、それこそめちゃめちゃダサい考えをしており、ベボベのファンになることを最初は自分で認められなかったけど、好きなものは好きだー! の気持ちが勝った。
そして、それまで洋楽を聞いていたときにはなかった「生で演奏を見てみたい。ライブに行きたい」という気持ちが出てきた。そのうち来るであろう日本武道館のような大きな会場にベボベが立つとき、私はそれを現場で見たい。
しかし、私は引きこもりである。ライブに行くために、まずは近所を散歩することから始めた。iPod nanoでベボベの曲を聴きながら歩いた。そして、電車に乗る練習も始めた。
ベボベの武道館公演は思いのほか早く決まった。「え? まだ私、引きこもりなのに?」と焦ったものの、チケットを取り、ライブの数週間前には予行練習として父に武道館の前まで連れて行ってもらった。
そして当日は、当時大学生でしょっちゅう様々なライブに行っていた妹に保護者としてついてきてもらった。
家族は私が数年間引きこもってることを誰よりも知っているので、その引きこもりが出かけるとなれば全面協力してくれるのである。ありがたい。
武道館にたどり着いたものの、ライブ初体験の私は緊張してしまい、吐き気と戦っていた。
人多い……来るだけで疲れた……気持ち悪い……気持ち悪い……と思っている間にライブが始まる。音が鳴り、一斉に客席が躍りだす。
なんというか、ライブってある意味宗教みたいなんだな、と思った。アーティストが教祖で、ファンは信者。誰もが誰も否定しない空間で、みんな楽しそうにしている。
私は吐き気に耐えつつ、会場にいられたことが嬉しかったし、達成感もあった。
その後、なんだかんだでベボベのライブには十回近く足を運ぶことになる。
そして、外に出る楽しさを知ってしまった私は、さらに引きこもりから脱するべく、外に出る理由がほしくて、プリザーブドフラワーの教室や料理教室に通い始めた。
私は、ベボベのおかげで引きこもりではなくなったのだ。
少しずつ外に出かけられるようになった私は、髪を切るときには母の通っている美容院に行くようになっていた。もう、いとうせいこうみたいになることはない。
その美容室で、たまたま手にした雑誌フィガロジャポンの現代短歌の特集ページが目に留まった。
私のなかでは、それまで何度か川柳ブームがあり、新聞に投句して掲載されたこともあったものの、言いたいことが十七音に収まらない! と苦悩し、川柳ブームはいつも短期間で終わっていた。
短歌のことは何も知らなかったから、現代に歌人がいるのか! という驚きがまずあって、しかも百人一首みたいなやつじゃない、現代的な言葉遣いでいいのか! と知り、これなら川柳より言いたいことがいろいろ言えるじゃん! と私のなかでファンファーレが鳴り響いた。これが、短歌との出会いだった。
私は短歌が楽しくてたまらなかった。短歌は、学校にろくに通えず、学歴も職歴もなくて、元引きこもりで劣等感の塊だった私が、初めて普通の人たちと対等に楽しめていると感じるものだった。
短歌を始めて、歌会やイベントに出かけることもあり、行動範囲がかなり広がったおかげで、初めて彼氏もできた。三十歳になる一か月ほど前のことだった。
大人になっても人間不信はゼロにはなっていない気がするけれど、異性からは嫌な目にあった経験がなかったからか、意外と問題なく彼氏と付き合うことができた。というか、それは彼の優しさと心の広さのおかげだと思うのだけれど。
彼氏との交際が続き、私は結婚したいと思うようになり、話し合いをした。彼からは、できれば働けるようになってほしいと言われた。
働くと体調が悪化しそうで、働こうと思う気持ちはなかったけれど、結婚したい気持ちはあったので働くことに。
ただ、普通に働くのは難しいと考え、それまで何となく抵抗があって持っていなかった障害者手帳を申請し、障害者として作業所で働き始めた。
作業所にはA型とB型があり、A型は雇用契約を結び最低賃金がもらえる、半分会社で半分福祉施設のようなイメージ。B型は労働時間や日数を柔軟に対応してもらえるけれど、完全に福祉施設のため、もらえる工賃は安い。私はA型の作業所に通った。
週に五日、計二十時間働くのが決まりだった。元引きこもりで体力がないうえ、人よりも色々なことを気にしてしまう私は、週五日外に出かけるというだけで疲れるし、ストレスだった。
作業内容は主に内職。後から分かったことだけど、私の通っていた作業所は仕事の内容も量もかなり多めのところで、作業は綺麗さや正確さだけでなく早さも求められ、これが色々と気になってしまう私にはかなりつらかった。
毎日ぐったりで、帰宅しても家では何もできなかった。ストレスのせいで、最初の数か月間は不正出血も続いていた(これは当時飲んでいた婦人科の薬の影響もあるけれど)。
結婚したいから頑張らなきゃと思っていたけれど、ずっと疲れていて、ずっと体調が悪くて、仕事中に涙が止まらなくなることもあったし、作業所は駅のそばだからいつでも電車に飛び込める環境だな、と思っていた。
仕事の唯一のポップな要素はFMラジオだった。作業所では毎日bayFMが流れていたので、番組にメッセージを投稿するようになった。
ラジオネームはペコ。以前飼っていた犬の名前だ。ハイテンションなDJの声で「ラジオネーム ペコさん」のメッセージが読まれると、人知れずニヤニヤした。幸い、コロナ禍でマスク必須だったので、ニヤニヤしても気づかれることはなかった。
「一緒に働いてるみんな! 誰も気づいてないけど、今読まれてるの私なんですよ~」と言いたい気持ちをぐっと抑えた。
働き始めて二年が経った。ひとつひとつの作業には慣れたものの、働くこと自体には慣れていない感じがしていた。
ずっと疲れていることと体調が悪いこと、死を意識してしまうことは変わらなかったので、このまま続けても状況がよくなることはないと思い、退職を決めた。
結婚はしたいけど、それよりも自分の健康を優先したい。このまま心身の状態が悪化し続けていくのは不安だし、つらかった。
作業所のスタッフさんに伝えると「少しでも収入はあったほうがいい。あなたは普通に働くのは難しいと思うから、人と関わらなくて済むような在宅の仕事を探しなさい」と言われた。
障害者なら障害者雇用があるのでは、と思う方もいるかもしれないけど、障害者雇用は週二十時間以上の勤務が必要なので、私には難しい。作業所での週二十時間勤務を二年以上続けてみて、無理だという実感がある。
ただ、在宅の仕事を探すのも難しかった。怪しい求人も多いし、経験もスキルも何もない私にできそうな仕事は少ない。
そんな中で、ライターのアルバイトの求人を見つけて、応募し、リモートで面接を受けることになった。
しかし、ZOOMでの面接中、仕事の説明を聞いているうちに仕事に対する不安やプレッシャー、クローズド(障害を隠す形での応募)だからちゃんとしなくちゃという気持ちが一気にMAXになり、脳内がショートしてしまった。頭からプシューと煙が出てるイメージ……。
それからのことはよく覚えていないけど、面接官の声が遠くなってゆき、「私、やっぱり働けないや」と思ったことだけは覚えている。
働くことは、あきらめることにした。私が働こうなんて、欲を出しすぎていた。
働かないと、世間では白い目で見られると思うし、理解してもらえないだろうけど、私にとっては元の生活に戻るだけだし、私は生きているだけでえらい。死なないだけでえらい。
気づけばもう三十代半ば。こんなに長生きするとは予想外だ。自殺すると思っていたから、将来について何も考えずにきて、そのせいで今は路頭に迷ってる感じもするけど、私は頑張っている。生きているだけで許してほしい。
去年の年末、二年四か月働いた作業所を退職した。大掃除の後で挨拶をして、ハラダのラスクを配った。
一緒に働いていたおじさんに「仕事は?」と聞かれて、「在宅でできる仕事を探しています。結婚して県外に引っ越すつもりなので」と答えた。
本当はもう働かないと決めているし、結婚の話も進んでいないのに、最後の最後に噓をついてしまい罪悪感が残った。
そして退職した翌日、私は東京ドームでHey!Say!JUMPのコンサートに参戦。相変わらず、根がポップなので……。
私のポップなエピソードをまとめるはずが、かなり闇の部分が多めになってしまった。
でも、闇が深いからこそ浮き上がってくる明るさがある。
こうして文章にしてみると、私は過酷な状況でも何かしらの楽しみを見つけられるのだなーと感心してしまう。
もうつらいことはごめんだけど、きっと、今後も楽しくポップに生きていくのだろう。
私は、これからの私が楽しみだ。