写真の姿を考える:記録と記憶と絵画と
ごあいさつ
こんにちは、諸星です。ここ最近、フィルムカメラを使ってみたいという欲求が日に日に高まっていました。毎日のようにディスプレイにかじりついてはネットの中古を調べ、作例を眺め、有識者からのアドバイスを受け、ある日衝動を抑えきれずに終業後に街に駆け出して、ついにフィルムカメラを1台お迎えしてしまいました。それが、Rollei 35というカメラでした。
このカメラをきっかけに、タイトルにある「写真の姿を考える」試みが一歩だけ進んだような気がするので、ぐるりと回り道をしながらの長い文章になりますが一緒にお散歩していただけると嬉しいです。
Rollei 35 というカメラ
ころんとかわいい機械式カメラである本機は、露出計以外に電池を必要とせず(そして幸か不幸か僕のは露出計が動かないので電池交換はずっと不要!)、ピント合わせが目測式というのが特徴的なカメラです。
沈胴式で驚くほどコンパクトなこと、そして写りも良いらしいこと(まだ現像していないので僕個人の感想や実際の写真は未来の自分に託しますが……)など、他にもさまざまな魅力や特徴があるカメラではありますが、そうした魅力の数々は諸先輩方の記事に譲ることといたしまして、今回は目測式のピント合わせについて書いてみたいと思います。
Q. 目測式って大変? A. NOです!
フィルムカメラを買いたい!と考えたときに最終候補のテーブルに挙がったのはNikonのFM2、FUJIFILMのNatura Classica、そしてこのRollei 35でした。諸々を考えてかなりRollei 35に傾いていた中で最後まで懸念材料だったのが「露出ならマニュアル操作でもなんとかなるかもしれないけど、ピントを目測で合わせるのって大変じゃない……?」という不安でした。買うぞ!と決めたときにも、「先日たまたまレーザー距離計買ったし、それと併用すればいけるいける」という自己暗示をかけながら家を出たものでした。
ピントの合う/合わないがファインダー越しにはわからず、目測でピントを合わせたい被写体までの大体の距離を測ってピントを設定するという馴染みのない操作を求められる機種ではありますが、実際に購入して使ってみると、前記の「目測式ピント合わせ大変説」は杞憂だったことが判明しました。
ピント合わせがシビアになるのは被写界深度が浅いとき=絞らないで撮影をするときなわけですが、このカメラはフィルムカメラなのでISO感度は100~400がメインで一度フィルムを入れたら固定値ですし、シャッタースピードが1/500までしかありません、露出補正ダイヤルも当然ありません。したがって、露出の調整の大部分を絞りでコントロールすることになります。
晴れた日の日中に屋外で写真を撮るときなんかは開放で撮ろうとするとシャッタースピードが1/500では全然、それはもう全然足りないので、結果としてかなり絞って(状況次第ではF22までいっちゃうくらい)撮影することになります。明るい場所・時間帯ならば僕の場合はほとんどの状況でF8~F16くらいを使っての撮影を余儀なくされているため、必然、被写界深度が十分に深くピントの合う範囲は十分に広い(あまり気にしなくて良い)という状況になっています。
Rollei 35は開放F3.5と後ろをボケさせることもできそうな機種ではありますが、先述のように絞りは基本的に光量=露出の調整に使うので開放を使う場面にはまだ出会えていません。このようなハードウェア特性を持ったカメラを使ってみたことで、ふと、昔の写真の姿に思いを馳せる瞬間がありました。
古いカメラから感じる昔の写真の姿
今回手に入れたRollei 35はおよそ1960年代のモデルなようでして、およそ60年前のカメラになっています。そうしたカメラが備える機器の特徴は、例えばシャッタースピード1/8000などの高速シャッターが当たり前に搭載されたデジタルカメラに慣れた僕たちにとっては機器が強いる制約のように感じられるかもしれませんが、当時の人たちにとってはおそらく当たり前でした。いえ、もしかしたら1/500のシャッタースピードが当時の最先端だったのかもしれません。
2022年現在、僕を含めスマートフォンではなく写真撮影専用のカメラで撮る写真を語るときにはボケみが大きな要素となっているように思います(もっと言えばスマートフォンですらポートレートモードなどでこの領域に踏み出そうとしています)。レンズはどれだけ大口径で明るいかで語られ、ボケの美しさで語られる側面が一定の割合あるとは思うのですが、この記事で取り上げているRollei 35 の絞りは露出調整のパラメータという側面で使われることが多いという特徴から考えると、昔のカメラはどれだけシャープに記録を残せるかというのが大事で、ボケというのは重要視されていなかったのではないか、と思うのです。
写真の姿と私たちの関係性
このような時代の流れに伴う価値観の違いについて、個人的にきちんと考えたいなーと思うポイントが2つあります。下記の2点です。
写真に対する考え方の変化
技術の進歩がくれたもの、隠したもの
以下に、それぞれについて考え事メモを残しておこうと思います。
1. 写真に対する考え方の変化
昔のカメラで撮られる写真はボケが重要でなかったのではないか、と述べましたが、それはカメラが登場した頃に写真に求められていた役割が「写るものを正確に記録すること」だったからではないか、という仮説を持っています。
この観点からボケが重要視されるようになってきた現代の写真を眺めてみると、主役となる被写体にピントを合わせて背景をぼかす類の写真は「焦点が合っている中心視野とあまり焦点があっていない周辺視野を持つ人間の眼差し」という性質をより強調する性質があるのではないかという仮説を考えることができます。換言すれば、記録から記憶になっていったように思うのです。
さらに言えば、昨今はここからもう一歩考え方に変化があるように感じます。例えばTwitterやInstagramなどのSNSではまるでファンタジーのように美しい日常風景がたくさんの”いいね!”を集めていたり(これについては参考になりそうな本を買ってみたので近日中に読みたい!)、自分撮りに対してプリクラのように簡易に加工をして”盛る”ことが日常的に行われていたりします。このような活動の中で生まれる写真は記憶からさらにかたちを変えて、「現実を見せたい姿に編集して描き直す」という観点からはもはや絵画的な写真とすら言えるかもしれません。
これらをまとめると、写真の姿として記録・記憶・絵画の3つのかたちがありそうだという仮説にたどり着きます。もちろんこれは僕が立てた仮説ですので別の姿が加わったり、もっと適切な表現があったりはするのでしょうが、僕個人の思索の中で立てたモデルなので当面はここを起点に写真の姿に対する考えを深めていきたいなーと思っています。こうした姿に対する考察に加えて、自分が撮る写真、自分が描く絵はどのような姿・どのような受け止められ方を目指すものなのか、という表現の方にも活かしていきたいなーという所存です。
2. 技術の進歩がくれたもの、隠したもの
技術の進歩によって高速シャッターが簡単に切れるようになった結果、開放でも写真が撮れるようになった。その結果、背景を大きくボカす写真撮影が可能となった。このような利得はとても喜ばしいものではありますが、背景ボケのある写真が当たり前になったことで、例えば背景をボカすことの意味や効果がきちんとお腹に落ちてくるまでに時間がかかるケースもあると思います。
それが自覚されるべきものなのかには一考の余地があるとは思うのですが、技術が発展して何かが簡単にできるようになることは、それ以前のものが表出される機会を大きく減らす可能性があること、そして簡単になったがためにそれを行うことの意義を見えなくする可能性があることについては、慎重に向き合う必要があるのではないか、というのがここ最近ずーっと考えていることだったりします。
技術発展を否定するわけではなく、適切な距離をとりながら共存する歩き方をいろんな角度から今後も探っていきたいなーというのを、自分の趣味のひとつであるカメラや写真の領域でも改めて考えさせられた次第でした。そんな素敵な気づきをプレゼントしてくれたRollei 35 というカメラ、大事にしたいです。
おわりに
カメラロールを眺めてみると、初めてカメラらしいカメラを手に入れて写真を撮るようになったのが2019年1月中旬だったようでして、そのときはSonyのα6000というカメラを使っていました。
その1年半後くらいにFUJIFILMのX-T3にカメラを買い替えてから夢中になって写真を撮るようになったので写真についてはまだまだ若輩者ではありますが、2020年の暮れ頃から自分なりに写真を撮るという営み、写真の姿、カメラというハードが表現にどのような影響を与えてきたのか、など写真についてあれこれ考えてみるようになりました。
今回、フィルムカメラを手に入れたことをきっかけに写真について考えてみたことを文章にしてみたのは、ぼんやりと考えてきたことを整理するいい機会になったと思います。
写真に関する学術的な知識なんかは全然ないので、写真史、写真論、メディア論なども今後どこかで食べてみながらもっともっと写真について考えを深めていけたらいいなーと思います!
あれこれと回り道しながらのお散歩だったのでタイトルにたどり着くまでに時間がかかってしまいましたが、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!こういう考え方あるかも、とかこういう本も面白いよ、とかありましたら大歓迎ですので教えていただけるととっても嬉しいです。それでは、筆が走り出す頃に(もしくはシャッター音が聞こえてくる頃に)またお会いしましょう。