綴るほどに晒されて
「文章はその人となりを、これ以上ないくらいに表している」
それはいつしか読んだ本の中に書いてあったことでありました。
何故だか今になって再びこの頭に浮かんできたのです。
それは私がここに文章を綴るようになったからでしょうか。
そのせいか、その言葉がいつになく身に沁みて感じられるのです。
これ以上ないくらいに表すものだから、
それは裸を見ているのと同じような感覚なのだとか。
そもそも私にとっての文章を書くという行為については、
思い返せば小学校の時の作文を書くところに帰するのです。
当時は私というもの、
今のように何がやりたいことなのかなど、
いわゆる自分探しなど、その言葉自体知る由も無く、
ただ与えられた原稿用紙の上に拙い文字を並べるだけの行為に
変わりありませんでした。
ただ、それは今になってそう思っているからも知れませんが、
その行為は私にとって、原稿用紙の枠を超え、
さながら自由帳に絵を描くのと変わらない、
そのような自由を感じていたのでした。
そしてどんな勉強より、真剣であったことでしょう。
作文ですから当然、同級生や親に公開されるのです。
親からは、とてもいい文章だと褒められました。
思えばその頃より、文を綴る行為に人より長けていたのでしょう。
しかし小学生の私、素直に受け止めればいいものを、
その年代に見られるような、
何かに真剣に取り組むことへの抵抗感、
さらに直接的に言えば、ダサい、というような感覚から、
私はとても恥ずかしくなってしまいました。
思えばその時の恥じらいとは、
上記に記したように、
私という人間を文章を通して暴かれることへの、
それすなわち裸体を晒すことに変わりないものだったのだと、
今になってようやく分かることでした。
それからというもの、
歪んだ恥を覚えた私は、
作文を書く時にはあえてつまらなく書くようになりました。
こう言ってしまうと自身に酔っているだけだと思われるでしょうが、
確かにその全てを否定することはできないにしても、
とにかく適当にあしらっていました。
そのせいで親から、
前はもっと書く文章が面白かったのにと、
寂しそうな声色で言われたことはいまだに心に引っかかっています。
そんな私はどういうわけか、
それもあろうことか見知らぬ世界に向けて、
裸体を晒すかのごとく、
綴る文章を公開しているのです。
それはこの場において、
私が何者でもないからでしょう。
つまり匿名であるからこそ、
これほどまでに自由に、文字の上に舞えるのです。
小学生の私を縛り付けていたのは、
学校で、教室の中で何者かであるという事でした。
それは存在感があるとかそういう事ではなくて、
私という人間が誰であるか知られているという事。
故に私は、より恥じていたのでしょう。
昨今ではとやかく言われる匿名性ですが、
少なくともこの場の私にとっては、
これ以上なき救いであり、
矛盾するようですが、
私という人間が誰だか分からないからこそ、
どこまでも私でいられるのでしょう。
誰もが、自身が何者であるかについて、
名前を付けようともがき続ける世の中ですが、
私にとってその問いは、一朝一夕で見つかるものではなく、
それはきっと終わりなき問答の果てに、
ほんの少し垣間見えるものであると私は考えます。
終わりがないと言えば、途方に暮れてしまいそうになりますけれど、
しかし終わりがないからこそいいものです。
すぐに見つけてしまっては、
己の導きに縛られてしまいかねないでしょう。
それに終わりが見えない道こそ、
退屈はしないでしょうし、
なにより先の見えぬ道ほど、
私は惹かれてしまうのです。
それは人生という抽象的な言葉にしろ、
見知らぬ街を歩く時の、
脇目にふと見える先へ続く道を見つけたときに同じく。