記憶の中の亡霊
自分というものが分かりません。
ありのままでありたいと願いつつ、
その正体を知らぬままに、ただ祈っているだけ。
仏教においては、自我というものは本来消し去るべきものらしく、
やたらと自分らしさを押し付けてくる世の流れを、
少し疑ってしまいそうにもなってしまいます。
そんな作り上げられた流行りの中に、
ただただ流されては苦しんでいるのも、
一息つけば馬鹿らしいと、
暗い部屋で嘆いたところでどうにもなりはしないのに。
私はきっと、いろいろなものを見過ぎたのでしょう。
もっともらしいことから、
知らないと損すること○選、なんてもの、
それを知ったところで、今日から明日、
何も変わりはしないのに。
人生において、大切にしたいことがありました。
それを、思い出すことが出来ないのです。
そんな思いがあったという事実ばかりは覚えていて、
それが何かを思い出せない。
例えば、自分を信じてあげるとか、愛してやるとか、
かつての友との思い出とか、
帰り道の空に見えた、燃えるような夕焼けとか、
恋を覚えた胸の締め付けられる感覚も、
夜を超えるための何気ない会話まで。
そんな綺麗なことで頭を埋めていたいのに、
くだらないことだと思っていた事ばかり、覚えていくのです。
頭の垂れ方、目上の人と話すときの口調、
了解しました、ではなく、かしこまりました、と言わねばならない、
メールの定型文、クレームの対処法、
覚えなければいけない仕事、これからのキャリアプラン、
来月の更新料、同世代の平均年収、
劣等感と憂鬱。
そんなものに汚されて、
いや、自ら沼に足を踏み入れていくようで。
そして、こんなことを考えなくてよかった昔のことを思い返しては、
世に染まってしまったなどど、こぼしてみたり。
ただ思い返してみれば、
今になって汚れたわけじゃない。
私の言うかつては、そんなに純粋無垢だったのか。
一通りそんなことを吐き出した後に何を思うたか。
私の言った、大切にしたかったこととは何だったのか。
広告に載せられた言葉ではない、本当の意味でのありのままとは何か。
全ては分からぬままに。
いや、見ようとしていないだけかもしれません。
自分の純粋な心の目を、いつから見ていないことに気付きました。
それは年を重ねるにつれて、
今を生きている輝かしい人を見れなくなるように、
眩しい程の笑顔を浮かべる人の顔を見れなくなるように、
その眩しさ故に目をそらしてしまうように。
それは結局のところ、
その輝きに反射される、自分の姿を見ないようにしている、
ただの裏返しなのかもしれません。
ここまで来て、私は何が言いたいのでしょう。
人に見てもらう以上は、やるせないままに終わりたくはありません。
それでいて、やはりまとめることなどできない。
ただの嘆きに等しい文章を吐き出した後には、
少しばかり心に隙間が生まれます。
きっと誰もが、言葉で表せない、
言葉にしてしまえば、やたら長ったらしいほどの思いを抱え、
それでいて平気な顔で生きていられるのでしょう。
私もそうして、強くありたい。
だから、思い出せなくなったことは、
無理にすくい上げることはせず、
そして浮かび上がることには、
また文字にしてここに記そうと思います。