仏教における「空」とは?
はじめに
私たちは因果関係を発見する生き物である
私たちは普段から因果関係を把握して生きている。
無意識的に、原因を探して生きているのだ。
例えば、友人に「最近、疲れてない?」と言われたとする。
すると、無意識的に「確かに、最近仕事が忙しいし…」などと考える。
これは、因果関係を考えることが無意識的な反応であることを示している。
仕事で失敗したときも、恋愛でうまくいかないときも、私たちはその原因を発見し、目の前の問題に対処しようとする。
この因果関係を考える無意識的な思考は、必ず「自分の予想と反した結果」に対して行われる。
「恋人とはうまくいくと思っていた」
→実際はうまくいかなかった
「これで仕事はうまくいくと思っていた」
→実際は成果が出なかった
「相手は自分のことを信頼していると思っていた」
→実際は信頼していなかった
このように、「予想と反した結果」を目の前にすると、私たちは因果関係を考えたくなる。
特に、思ったほどうまくいかなかったときに、因果関係について気になる。
因果関係はあるのか?
しかし、本当に因果関係など、あるのだろうか?
あるとしても、私たちが思っているような明快に切り取ることができる
「原因」→「結果」の関係
としてそこに存在するのだろうか?
結論は、単純明快な因果関係などないのだ。
私たちは複雑系の中に生きている。
『バタフライエフェクト』という言葉を聞いたことはあるだろうか?
「地球の反対側のバタフライ(=蝶)が羽ばたいた」という程度の些細な出来事が気象に影響を与えうる可能性を示唆した寓話だ。
もちろん、そんな効果が証明されているわけではない。
ただ、想像すれば誰でも因果関係は複雑すぎて人間の認知の限界を超えていることがわかるだろう。
この例であれば、疲れているのは
仕事が忙しいからなのか
家事が忙しいからなのか
最近通勤電車が遅れがちだからなのか
実際のところはわからないし、「原因」が「別の原因」を生んでいるのかもしれない。
仕事が忙しいことによって、家庭内の空気が悪くなり、それが疲れている原因なのか。
それとも、夫婦関係の悪化が、仕事の生産性を下げており、残業の必要性が出てきたことが原因なのか。
そう。
私たちが「原因」と言ったときのそれは
単に目についた過去の出来事を安心するために
目の前の結果と勝手に結びつけた過去の出来事に過ぎない
ゆえに、「自分の予想と反した結果」であればあるほど、安心したいという思いから人は原因を探そうとする。
因果関係とは、本来は自分の思考によって原因を発見し、問題を解消するために使うものではないのだ。
人間の認知機能を過大評価している。
私たちは、原因を発見できない世界に生きている。
なぜその問題が起こったのかを考えても、時間の無駄なのだ。
得られるのは、納得感と安心だけだ。
本当のカルマとは?
仏教用語には、カルマという言葉がある。
「因果応報:自分がしたことは自分に返ってくる」ということは、あるかもしれない。
これも、あるかもしれないとしか言いようがない。
なぜなら、私たちはそれが自分の行いによるものなのか、他人の行いによるものなのか把握できないからだ。
さまざまな要因が入り組んでいて、それら全てを私たちは把握できない。
把握しようと時間をかければかけるほど、新たな出来事が目の前に生じ、それにもまた原因がある、その原因をまた…
永遠に原因は見つからない。
自分の行いが回り回って目の前の出来事を引き起こしているかもしれないし、そうではないかもしれない。
それを考えても、膨大な時間を浪費する。
カルマとはそういうものなのだ。
魂が、毒親が、遺伝子が、環境が、、、
どれか一つを敵にし、その敵からの悪影響を「原因」にしても意味はない。
すべては関連しており、それらを私たちの脳は把握し切ることはできない。
自分の不遇な人生を恨み、そして、そこに安住するために人は「原因」を考える。
原因を考えたところで、自分の人生に縛られるだけだ。
あなたは、自分では把握し切ることができない複雑系が生み出した「奇跡」。
つまり、確率論では到底、切りとり、評価することができない存在である。
綺麗事を言いたいわけではない。
そうとしか言いようがないのが、世界の中に生きる人類という存在なのだ。
長々と因果関係について書いてきたが、ここで仏教における「空」について考えてみたい。
空とは?
空観の定義
空観(くうがん)とは、仏教において重要な教義の一つで、万物の本質的な実在性を否定し、空(くう)という概念を提唱する考え方を指す。
本質的な実在性とは、【名前、定義、機能】のこと。
ボールペンは実際に物として存在するが、「ボールペン」は存在しない。
「ボールペン:文字や絵を描くために使う文房具」と説明することはできるが、「文字」「絵」「文房具」を説明しなければ正しく定義できない。
「文字」を説明するためにも別の「物」を用いなければならないし、その「物」にもまた定義があり、その定義を…
私たちは物理世界に存在する物をありのままに見ることなく、「物」としてみている。
そして、目の前の世界を一つの実態として捉えるのではなく、個々の「物」の集合としてみている。
机にペンとノートと消しゴムが置かれている。
「机」「ペン」「ノート」「消しゴム」はそれぞれ分節(「」のこと)化され、別々のものとして認識される。
「机にペンとノートと消しゴムが置かれている」という現象の全てを「一つの実態」として見ることはできない。
これは、フッサールサルトルの書いた『嘔吐』でも登場する。
目の前に無分節の世界を見たとき、主人公は嘔吐する。
空観とは、世界に分節を見ないということだ。
詳しくは、別々のものがそこに存在すると考えることではなく、一つの実態がそこに存在すると見ることだ。
空観を支える思想
空観は、仏教における縁起思想(あらゆるものが多数の原因や条件の相互作用によって存在するという考え方)に基づいている。
縁起は、すべての現象は相互に依存し、孤立して存在するものではなく、それ自体が独立して存在するものではないと考える。
そして、重要なことは、仏教の思想では、「空」は常に「有」と関連していると考えられることだ。
何をもって「有」だということができるのか。
もちろん、分節化された世界においては「物」があれば「有」だろう。
目の前に「ボールペン」があれば、「有」。
「マイホーム」を所有していれば、「有」。
ただ、世界を一つの実態として捉えれば、その「有」は成立しなくなる。
「ボールペン」は、インクが切れて使えなくなってもそこに、在る。
分子構造は変わらず、ボールペン自体はそこに、在る。
インクは紙の上に書かれている文字として、在る。
私たちが「有」ではない=「無い」と考えても、在るのだ。
全ては、世界を一つの実態として見れば、そこに、在る。
では、なぜ「有」という概念が存在するのか。
それは、私たちは目の前の事物に「機能」を見るからだ。
新しいボールペンを買った。
ボールペンは文字が書ける=「機能」を持つ=「有」
インクの切れたボールペンは、文字が書けなくなった。
「機能」を失った=「機能」を持たない=「無」
恋人がいる。
目の前の人が幸せにしてくれる=「機能」を持つ=「有」
恋人と別れた。
幸せにしてくれなくなった=「機能」がなくなった=「無」
世界から消失したわけではない。
人は死んでも、その人の身体を構成している分子の数が世界から消失するわけではないだろう。
土に帰り、植物の養分になる。
つまり、以下の図式が成立する。
「有」=「機能」がある=実態は在る
「無」=「機能」がない=実態は在る
私たちは認識の癖のようなもので、有無を考える。
しかし、世界単位で見れば、何も無くなっていないし、同時に何も有るわけではない。
したがって、「あらゆるものは空である」といったときの「空」とは、「自分」が「機能」を持たせ、有無を判断しているにすぎない人間への戒めだ。
仏教における「空」と「苦しみ」の関係
仏教における苦しみとは?
四苦とは生老病死。
釈迦が悟る前に4つの方角から王宮を出たとき、それぞれの苦しみを見たとされる。
これは、釈迦が悟りの道に入るきっかけを作った出来事だ。
・生きる苦しみ。
・老いる苦しみ。
・病める苦しみ。
・死ぬ苦しみ。
そこに、4つの苦しみを加える。
・愛別離苦(あいべつりく)とは、大切な人や大好きな人であっても、いつかは別れ、離れなければならないという苦しみ。
・怨憎会苦(おんぞうえく)とは、逆に怨増を抱く苦しみだ。
顔も見たくない人でも出会ってしまう苦しみと言い換えてもいい。
・求不得苦(ぐふとっく)とは、求める事物が手に入らない苦しみ。
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみであり、自我を自由にできない苦しみである。
これらは、執着が原因で生じる。
私たちは、愛するもの、他人、事物、自我を自由にしたいと思う。
執着するのだ。
しかし、自分の思い通りになるものなどこの世に存在しない。
全ては、多くの繋がりによって、今の状態を維持しているにすぎないからだ。
自分の所有物だって、経年劣化は免れない。
空観は、苦しみや迷いの根源である執着心を断ち切り、解脱へと至るための道としても重要な役割を果たしている。
私たちは、ある物事に執着しているとき、そのものが実在していると考え、それにとらわれる。
「そこに有る」と思うことが執着の始まりであるからだ。
しかし、空観(そのものは本来、有るものにすぎないものであるということ)が理解できれば、執着から自由になることができるのだ。
さらに、仏教では、すべての存在が常に変化し、流動的であるとされている。
この変化の過程で、あらゆるものは常に自我と他者との区別を超えていく。
他者の自我が自分の自我に影響を与え、自分の自我を変容させるときもあれば、事物によって自我が変容することもある。
自我を固定的な存在として位置づけたいのは、人が「自我」に機能を持たせているからだ。
自我が流動的だとすれば、あなたは今日、30年間連れ添った配偶者と別れるかもしれない。
今の自分にとっては、不適切な配偶者だから、と。
こんなことしていたら、社会など維持できないし、他人と生活することすらままならない。
だから、過去の自分のとった行動を記憶として蓄積し、今の自分を生きる。
そのことによって、生存を脅かさない物事についての判断基準が出来上がり、それによって普段の生活を無意識的に営める。
自我を設定する事によって、多くの物事を考えなくてもいいという機能が得られるのだ。
人間の細胞は半年間で全て新しい細胞に入れ替わる。
細胞レベルでは、今の自分は半年前の自分とは異なるのだ。
毎日、違う食べ物を食べ、さまざまな人と出会い、人は生成変化しているにもかかわらず。
このように、すべてのものが常に変化することによって、「空」は無限に広がる。
もちろん、無限とは、人知を超えているという意味だ。
人知を超えた存在がいれば、無限ではない。
執着を断つことが善なのか?
私たちの苦しみが全て、執着からくるのであれば、執着を取り払えば苦しまずに済むのか。
もちろん、執着を取り払えば苦しみは原理的になくなる。
しかし、話はそう単純ではないだろう。
執着を取り払うのが難しいという意味ではなく、執着を取り払った人間が人間と言えるのか?という意味で。
私たちは、執着を持っているから人間なのだ。
さまざまな他人と関わり、事物を求め生きている。
それは、無意識に眠る欲動がそうさせるからだ。
それの根本は、本能であり、人間を人間たらしめているものである。
本能を失うことは、生物としての最低条件を失い、地球上で機能を持たない存在となる。
私たち人間でさえも、地球の中で大きな役割を担っている。
酸素を吸い、二酸化炭素を吐くからそれが植物の光合成の原料となる。
経済活動をする事によって誰かの幸福に寄与している。
私たちは誰も悟るべきではないし、悟りの先に待っているのは、独りよがりの心の安寧だけだ。
ただただ、安寧を求めるのであれば、そうすればいい。
しかし、そこに社会的動物としての人間の持つ何かは存在しない。
より良い人生のために
全てに空を適用すると私たちは本能を失い、生物としての最低条件を失う。
では、空という概念は無駄なのか。
もちろん、無駄ではない。
もし無駄なのであれば、2500年以上も語り継がれるわけがない。
空は、悟りすました顔をするために使うのではない。
苦しんでいるとき、それすら幻想だと自分を納得させるために使うのでは無い。
うまくいかないときに、欲望も空であると欲望を抑圧するために使うのでもない。
「仮に世界が空だとしても諦めたくないもの」を探すために使うのだ。
仮に、空だとしても、僕にとって妻や息子は愛おしい。
脳科学的にも、精神分析学的にも、哲学的にも、、、
ありとあらゆる知識体系が、言語的に、論理的に、目の前の人間に対して向けられた愛が幻想だと言おうが。
釈迦が執着することによって苦しむ未来が待っていることが必然であると言おうが。
それでも僕は妻や息子を諦めないし、執着する。
愛がたとえ、幻想であったとしても。
愛するものがいるから苦しむのだと言われようとも。
心の平穏?
そんなものを得るぐらいなら、僕は醜く愛し、苦しむ道をいく。
たとえ、今生の別がそこにあろうとも。