『満月の夜』
十六夜の月が、煌々と酒杯を照らしている。
今宵は神無月にしては寒くもなく、ゆるやかな風が少し紅潮しはじめた頬をやさしくなでる。
この瞬間、自分は何不自由なく満たされ、人生で最高の時を迎えようとしていた。そういってもけっして自惚れなどではあるまい。娘たちもそれぞれ嫁ぎ、それを祝って皆がこのような祝宴の場を設けてくれた。
自分に今、満ち足りていないものなどない。心からの満足感が体中を包み込んでいる。
月は……、十六夜の月はあくまで美しく、冷めた光を自分に投げかけている。今宵の心地よい酔いを醒ますような冷たい、青白い光……。
心からの満足感に浸っている自分に
「本当にお前はそれでよいのか?」
とでもいっているような、強く、冷めた輝きだ。
月よ、お前は私に何かいいたいことでもあるというのか?
管弦の楽が流れる。妙なる調べが月明を包み込む。
月よ、何を私に問いかけることがある。そう、私は今、満ち足りているのだ。
「父上、この度は誠におめでとうございます。」
「おう、お前か。お前も今宵は飲むがよい。」
「ありがとうございます。お言葉に甘えまして、父上のこの上なきご繁栄 と、入内されました姉上たちのお幸せを祈って、恐悦至極ながら謹んでお受けいたします。」
ふ、こいつももう二六歳か……。まずまずの男となりおった。
どうだ、月よ。まだ何か自分に不足しているものがあるとでもいうのか?
「さぁ、どうか御一献。誠に光栄にございます。私のようなものの杯を受けてくださるとは……。」
さてさて、こうして次々と酒を注いでくれる人たちは、はて誰であったかな? 忘れるほど、今宵は酔いが早いらしい。いや、たくさんいるからな。どこぞの貴族の子息であったかと思うのだが、とんと名前は思い出せん。しかし、この男も自分が酒を注いでやったら、さぞかし喜ぶだろう。
「さあ、貴殿も飲みたまえ。」
「は! 誠に! もったいのぉございます。誠に光栄の至り……。」
誰もが自分の前ではひれ伏す。これもまた、誰もが追い求める地位とはいえまいか。たとえ、この酒をこぼしてみたところで……
「あぁ、ありがとうございます。誠に、誠に、ありがたく……」
衣服の上に酒をこぼされても、文句をいうどころか、ありがたがっておる。本心ではどう思っているかわからぬがな……。これが力、権力というものだ。しかし、少々張り合いがないともいえるな……。
確かに、この者たちの反応には、ある種もの足りないところもあるな。
権力者である私の前では、誰もがひれ伏すだけで、本心など語ることはない……。それは、人として本当に幸せなことなのだろうか?
月よ。何を見つめている。それがお前のいいたかったことだとでもいうのか!
よし、それならば試してみよう。
「小野宮殿!」
「は、何でしょう?」
「さて、興ものってきたところなので、歌など詠もうと思うのだが、貴殿は、返歌をつけてくれるか?」
「もちろん。ご所望とあらば、御意のままにいたしましょう。」
ふ、このうるさ型の長老であれば、どうかな? 自分がとんでもなくつまらぬ歌など詠んだら、どう返歌をするかな? それともやんわりと歌の稚拙さを諭してくれるであろうか?
この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば
さあ、どうする? この褒められたものではない歌に、どう返歌をするというのだ?
「……いや……。
……いや、いや、このような優美な歌には、とても返歌などできません。代わりに皆でご唱和させていただくことにいたしましょう。」
♪この世をばわが世とぞ思ふ……
……。月よ。どうやらお前の勝ちのようだ。
皆、自分に追従するばかりで、誰も本心など語ってくれぬわい。この藤原道長に本音を語ってくれるのは、月よ、もうお前だけになってしまったのかもしれぬな。
♪望月の欠けたることもなしと思へば……
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