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目に見えない存在の影響力

本日、烏丸四条から市営地下鉄に乗って京都駅に向かう電車待ちで、体格の大きな会社員風のおじさんが乗降ドアの前でスマホを一生懸命いじっていました。

乗り降りする際にもたついたので、迷惑だなあと思いながらも、忙しそうで大変だなあとスマホをチラ見したところ、何と、ブロックゲームの真っ最中でした。。。

トホホな感じですねえ。。。

今となっては普通に見られる光景ですが、スーツ姿で、それもドアの前でもたつきながら仁王立ちされると流石に悲しくなります。。。

かく言う私は、毎日が面白すぎて、ゲームを必要と感じない体質になってしまいましたが。

さて、先のブログ(『「場の文明」の潮流と「関係の文明」の潮流としての、地球自体の生命表現の発露とは。』)の内容に、自分なりに自信があったのですが、同意(いいね!)をいただける方が全くいないのにショックを受けました。

その前のブログ(『「科学文明」と双璧する、新たな「場の文明」の可能性について』)では、それなりの手応えが有ったので、余計にそう思えたのです。

そしていろいろと思案した結果、「意識エネルギーの存在」に、実感が湧かないのが原因だろうと、思い至りました。

ですがこれは、「上位次元の存在とのコネクション」や「奇跡のご縁と誘い」を、実際に体験しなければ、納得できないのだろうと思います。

つまり、「場の意識」が顕在化しなければある程度の理解は出来たとしても、実感する事ができないのです。

そこには、「此岸(生)」と「彼岸(死)」の大きな川が、横たわっているのです。

あの弘法大師、空海さんは、生きながらにして、此岸から抜け出た境地を、「即身成仏」と表現します。

よって、いくら議論を重ねても、平行線のままなのです。

私に出来るのは、霊的な体験(特に霊能力は必要ありません。)の詳細や、ネガティブな影響力に対する備えを、ここに書き連ねる事だけだけです。

私もかなりヤバイ体験を経て、ここまで到達しています。

さて、今考えても、精神的にかなり際どかったと思います。

いっぽ間違えれば、「被害妄想」に捕らわれて、「犯罪者」や「精神異常者」になっていたかも知れません。

「目に見えない存在の影響力」にパニックにならずに済んだのが、幸いしたとも思います。
ここで役に立ったのが、「相対意識の鳥籠」を俯瞰する観点と、都合よく使われたくないと言う、ある種の自尊心です。

人間闇落ちすると、大概はパニックに陥って何処かの誰かが仕組んだ陰謀だと「被害妄想」に囚われたり、誰もこの状況を知ってはくれないと「自暴自棄」になったりします。

そこには、目に見えない「闇の存在の関与」がある事を、ほとんど誰も想定しないのです。

ですが、これを正しく想定し、この現実(次元)での、「闇の代行者の関与」の手前なら、本人が望むなら、引き返すことも可能ですし、「そこを通り抜けて、反転上昇する道」も用意されているのです。

これらの「闇」は裏腹で、「意識進化」させる手段にもなると言うことです。

まさに私が辿ったのは、「そこを通り抜けて、反転上昇する道」だったのです。

ただし、かなり際どく、孤独で苦しい道行であると、覚悟しなければなりません。

まあ、もっと楽な方法もある様ですので、そちらを希望される方は(まあほとんどの方がそうだろうと思いますが)、他のスピ系の先覚者が、お役に立てるのだろうと思います。

とは言っても、「覚醒へと至る道筋」はともかく、これによって、どの様な体験が始まり、「意識エネルギーの存在」を意識するようになったかは、お話しできると思います。

詳細は、過去のブログに、折りに触れて散りばめていますので「詳しい体験や出来事」は、そちらに譲ることとして、その体験に秘められた意味に付いて述べてみたいと思います。

「心霊体験」は、闇落ちが始まると、ネガティブな形で始まりますが、直接的に物理的な関与が起こる訳ではなく、大概はその当人の「心の隙に付込む」形で関与が始まるのです。

私の場合もそうでしたが、「存在」は、決して「言葉」を使いません。

それは、「ネガティブな存在」も「ポジティブな存在」も同様です。

特に「ネガティブな存在」は、「無意識の恐怖心」を使って、相手を思う様に操作します。

「ポジティブな存在」、特に「高次元の存在」は、「チャネラー」が「変性意識の状態」を活用してメッセージに変換しない限りは、決して「言葉」を使いませんし受け取る事も出来ません。

と言いますか、「言葉」を使う必要がなく、「意識エネルギー」が、その意図により直接「インスピレーション」や「意味共鳴(空間共鳴)」として作用します。

「ネガティブな存在」は、時と場合によって、「言葉」を使用します。

相手が術中にはまり、「恐怖心」で抵抗できなくしてから、「言葉」を巧みに使用します。

私の場合は、最後の最後の「捨て台詞」として、「まだ繋がるとは思わなかった。」と、ただの一度だけ「言葉」で返して来ました。

それも睡眠から目覚める直前の、一瞬の「変性意識の状態」を通してでした。

よって、「執拗な被害者感覚」や「暴力的な衝動」を感知したなら、「目に見えない存在の影響」を一度は疑ってみて下さい。

また、「心霊的な存在」に対する正しい理解と、「恐怖心に対する耐性」を養って下さい。

当人が、既に「闇」に魅了されてさえいなければ、これだけで充分です。

ただ「戦争状態」は、その「場」が「恐怖心」に満ちており、個人の力だけではどうにもならなくなるため恐ろしいのです。

さて、怖い事ばかり並べても仕方がないので、ポジティブな存在の「意識エネルギー」の実体験に付いて書きたいと思います。

先に挙げたブログの「御蔵島」の例です。

この島には、長年に渡り、遭難者を救助して来た実績と共に、神聖なる使命が「意識エネルギー」となって存在しています。

それは、人間の「神聖なる行為」と共に、長年に渡って引き継がれて来たのです。

こう言った意味でも、「文化」と「意識エネルギー」は、密接に関係しています。

特にこれが、遭難者個人に意識されていない(集合的な意識と繋がっている)場合に、「その者の無意識」と「人間の集合意識」が、「意味共鳴」を通して、強く影響を及ぼし合います。

日本古来からの「神話」と呼ばれる「象徴性の物語」も、こう言った「意識エネルギー」の影響力なのです。

私の場合は、北九州の「産土の神様」として、「宗像三女神」の「意識エネルギー」が、生れながらに刻印されていた様なのです。

「宗像三女神」は、航海と導きを象徴した女神様であり、空海さんも、秦氏も、京都太秦も、松尾大社も、「御蔵島」へ行く切っ掛けをくれた秦野の地も、全てが「この縁」で、結ばれています。

そしてこれらは、「意識エネルギー」同士で、「空間共鳴(シンクロ)」するのです。

これらは、ある種、無意識を通した「運命の流れ」を創り出したのです。

そして、心の奥底に秘めた「無意識の願望」が、現実として体現されたのです。

そう解釈するしかない様な、大きな「運命の潮流」が、私を包んでいます。

これらはとっても「幸せな潮流」で、気が付けば、ほぼ全ての無意識化されていた願望が、叶っていると言っても過言ではないのです。

ただし、これらの願望は、『感情的な価値(「場の意識」の価値)』に対するもので、お金の様な『相対的な価値(「関係の意識」の価値)』には、効果が薄い様です。

その上、これらの影響力は、非常に儚く繊細で、「因果関係(関係の意識)の判断」に、あっけなく翻弄されてしまうのです。

まさに、ChatGPTが同意した、『複素ヒルベルト空間を持続空間の数学的形式化とみなすことで、素粒子構造を人間の超越論的無意識の構造として解釈する視座を作る試み』に、ぴたりと当て嵌まるのです。

まさに、「量子力学の不確定性原理」の様な、『「場の意識」と「関係の意識」の価値観』に相応しい表現ではないのでしょうか。

一言、否、何度でも断っておきますか、このブログに書かれた内容や出来事には、一切の作り話も、脚色もありませんので、信頼頂くことが大前提となります。

体験した内容に最も驚愕しているのは、自分自身なのですから。。。。

質問は随時受け付けています。

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