見出し画像

新たな「スピリチュアルな展開」へ4

いろいろと忙しくしておりだいぶ間が空いてしまいましいた。

『「真言の心柱」の夢』は、このブログを書き始めた一つの大きな動機です。

前回は、この夢の詳細な出来事(単に、夢の内容ですが)について書きましたが、それが何を意味するかは、不明なままでした。

ですが、必ず何かの意味があるはずだとの確信はありました。

それが、これから訪れる「新しい時代の考え方」に関連するものであるとの確信が得られたのは、もっと後になっての事です。

この「真言の心柱」の命名も、明晰夢の印象から来たもので、夢の中の「視覚的な感覚」と、「場の意識」に関する思想的な理解が、背景にあります。

その解釈につきましては、過去のブログに書きましたので、そこに譲ります。

夢の中なのに「視覚的な感覚」という表現も変なのですが、「人間の思考」自体も「音声的(言語的)な脳内反復の帰結」であり、あながち無関係とも思えません。

そして、どの様な人間の営みにも、「五感の感覚」を伴うのです。

「言語音声的な行為」以外の思考の方法を連想しろと言われても、「インスピレーション」以外に的確な表現が見当たりません。

覚醒(目覚め)とは、こういった理解に気付く「体験や思考の発露」であると、私は考えています。

『「真言の心柱」の夢』は、明らかに「普通の現実体験の産物」ではなく、何某かの意図を伴った、印象の喚起に思えたのです。

漆黒の柱に刻まれた「真言の」の文字は、その深い掘り込みの造形からして、普通の夢見では表現されない「ディテイル」を伴っていたのです。

その造詣の印象に最も近かったのが、その後の座禅の会で嵐山天龍寺を訪れた際の、山門前に立つ、寺院名を刻んだ石柱でした。

まさにあの石柱に刻まれた「深い掘り込みの造形」そのものだったのです。

では、その「印象自体が、夢見に現れただけ」と思いたい所ですが、その前後関係が反対だったのです。

思い違いを想定したとしても、その「印象の強度」は、夢見のほうが明かに勝っていたのです。

では、誰の意図なのか。。。

そこで思い当たる人物はただ一人。

日本における、真言密教の創始者である、弘法大師「空海さん」です。

まさに「アセンデッドマスター」という呼び名に相応しい、その人物を確信した瞬間です。

後に調べた処では、「空海さん」は、母方が「秦氏」であり、時代は異なりますが、天龍寺の開山である「夢想国師」も「秦氏」の流れと伝わります。

そう、あの「夢想国師」も「夢見」に導かれた一人と聞きました。

「夢想国師」はもともと、「真言宗の僧侶」でしたが、「夢見」により、「禅宗の僧侶」へと改宗したとも聞きました。

言霊信仰や理念に偏りすぎた「真言密教」より、目覚めの実践を重要視した「禅」に魅了されたとも言われます。

この知識自体も、天龍寺の「座禅の会」に参加して、そこの講義(夢中問答集の解説)の中で得られたものです。

各宗派には、時代と共に紆余曲折があり、現在となっては全てを「物質的な相互作用」に還元させる流れが普通ですが、現在における真実がある様に、過去においても真実があり、それが新たな知識と共に「進化させる努力」が、重要なのだと思います。

これら、無意識下に進行する「偶然」と呼ばれる流れに対しても、「導き」と解釈するのが最も妥当に思われました。

この様に見てくると、「真言」や「心柱」や「明晰夢」に託された意味に、新しい時代に向けたヒントが隠されていると考えたのです。

これら幾重にも積み重なった「夢見の意味」に、アセンデッドマスター、「空海さん」らしい、メッセージ性が感じられて、親近感とともに、いつまでも輝きを失いません。

いいなと思ったら応援しよう!