「意識エネルギー」を意識する。
前回のブログの内容は、少々性急に過ぎたようです。
この種の現象へのご理解を即すつもりが、体験の論旨が自己賛美になり過ぎてしまい、「俺って凄いだろう」オーラと勘違いされた様です。
私自身も、先の「意味共鳴(シンクロ)」のあまりの面白さ(凄さ)に頭に血が上ってしまいました。
さて、今週の日曜日に「座禅の会(龍門会)」がありまして、嵐山の天龍寺に行って来ました。
天気が雨模様だったため、自転車はやめて自動車を運転して行くことにしました。
天龍寺の「龍門会」は、この時だけ駐車料金が無料になるため大変助かります。
コロナも5類となり、マスクも希望者のみが着用となり、大手を振って禅堂の中での座禅体験を楽しみました。
そして、中断していた「佐々木容道」老師による「夢中問答集」の講義もありました。
これは、室町幕府の時の執権であった「足利直義」と、天龍寺の開山である「夢窓疎石」による仏教問答集です。
この度の章(題52問答「禅門の修行の題目」)は、老師も仰るように少々難解な講義でしたので、根幹の部分だけ述べてみたいと思います。
それは、江戸時代の「禅宗」の中興の祖である「白隠禅師」が起こした公案(こうあん)に関するもので、曹洞宗の修行僧は、「覚醒する=(気付きを得る、悟りを開く)」ために、これを用いるのだそうです。
修行僧は、一人ひとり師匠の前に呼び出され、数々の公案(公案集に書かれた質問の体系)に対して答えを求められます。
老師によると、最近の修行僧は仏教大学の出身が多く、大学で勉強して過去の多くの問答を熟知しているそうです。
ところが、そんな知識や論理は全く役に立たず、すぐに鈴を振られて追い返されてしまうそうです。
例えば、『「無」とは何か』の質問に対して、いろいろな返答を用意して挑みますが、大概は何を答えても歯が立たないそうです。
では、いったい何が求められているのか。。。
愚直なまでに問答を繰り返して理性が吹き飛んだ先に、何かが得られるのでしょうか。
不思議なのは、同じ仏教でも、「コトバ」を使って悟りを開く宗派もあるのです。
「真言密教」などは、「禅宗」とは全くの真逆で、その典型と言えるのだそうです。
私の場合は、空海さんとのご縁によるものと思われる、「場の意識」と「関係の意識」の「二つのコトバ」をキーとします。
老師は「思考や言葉」によって得られるものではないと、講義に参加している私達を翻弄するのです。
これはいったいどういうことなのだろう。
その場では、答えを見つけることが出来ませんでした。
ところが、ここからが面白いのです。
龍門会が終わって、嵐山を少々散歩して、車で帰路についた時の出来事です。
帰り道に何気なくラジオをつけたのですが、その時ある対談が耳に飛び込んできたのです。
それは、キムタクこと俳優の木村拓哉さんと、書家の武田双雲さんの対談でした。
キムタクは、私のスピ嫁が大ファンで、世代的にもシンパシーを感じるそうです。
まあそれはどうでも良いのですが。。。おっと叱られてしまう。
双雲さんは、批判されるとへこみ易い気質だそうで、キムタクが批判を原動力に変える術を披露すると、いたく感心しておられました。
キムタクは、最近何やかやと批判されることが多いのですが、やはり一流なのですね。
おっと、フォローフォロー。。。
それでですね、双雲さん自身の話しになって、「書の文字」が表現する力について語り始めたのです。
ある時、個展で海外を遠征中に、身体が不自由で、立つことが出来ない女性が、書を見に来られたそうです。
しかしその方は、双雲さんの書を見るなり、いきなり立ち上がって、感動を表現されたそうです。
周囲の人たちはそれを見てビックリ、開口一番「クララが立った」と叫んだのです(笑)。
その時、双雲さんは、たとえ「書の文字」の意味が解らなくても、書から伝わるものがあると確信したそうです。
そしてこれが、自分の書のスタイルだと気付かされたそうです。
それは、誰かがかつて築いた道ではなく、「自分独自の道」の発見であったと。
それを聞いて、私も気付いたのです。
「白隠禅師」の公案とは、・そ・れ・を引き出す手法であると。。。「佐々木容道」老師は、これを伝えたかったのだと。
「意味共鳴(シンクロ)」は、かくも面白く、私の心を掴んで放しません。
私は多くの人と語り合いたいと思っています。
すでに私は、準備が出来ています。
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