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「第9の芸術」が示すものとは。
フランスのルーヴル美術館が定義した「第9の芸術」。
その一つである「葬送のフリーレン」に、「魔法とは、イメージの世界である」との言葉があります。
多くの日本人が、たかがマンガの言葉だと馬鹿にしますが、私は「言い得て妙」だと考えています。
それは、私の「奇跡の体験」が、気が付かなければ決して到達することのない、イメージの世界から始まったからです。
それは、私の「人生の暗黒期」の、とある会社への通勤の、茫漠とした「野の道の出来事(ハイデガーも到達した境地である)」から始まります。
この出来事に付いては、何度も何度も同じことを書きましたので今更なのですが、様々な切り口で物語る事が出来るのです。
体験した出来事を言えば、単純で細やかな内容です。
『見上げる電線にとまっていた「番いの小鳥」の片方が、くわえていた「巣作りの小枝」を目の前に落とし、これを私が駆け寄って拾った』
だけです。
そこに何らの「因果関係」も、「実際的な可能性」も、一切ありません。
ですが、そこに「秘められた意味」は、私の人生にとって莫大なものだったのです。
その「イメージ」は、私の「結婚と家庭造り」に関するものです。
もう既に「天命を知る」歳に近づいた、バツイチで根暗な私にとって、「最後の希望」とも言える、「魔法のイメージ」です。
そして、この「内包するイメージ」が開花するまでに、それほど時間は、かかりませんでした。
絶望のどん底から、まるで何かに引っ張り上げられるかの様に、「奇跡の出来事」が、現実として展開したのです。
そこには、「日本神話と秦氏の物語り」が、「魔法のイメージ」を形作るのです。
こんな「人生の展開」を、誰が予想できたでしょうか。
これは、「現実なの?妄想なの?偶然なの?奇跡なの?」などと言った「ハテナマーク」が、今日までも、そして今でも続くのです。
他人様から見れば、妄想以外の何物でもないでしょう。
だからこそ、「この人生が、特別なもの」と言った実感が、私にはあるのです。
そしてこの地球が、「奇跡の創造物」であるとの実感も、私にはあります。
『今世は、何が違うのか?』にも長々と書きましたが、「9次元存在」に関しましても、実感がわくのです。
多くのメディアを見渡すと、この世界は、「紛争と貧困」、更にはこれらにまとわりつく「罪悪感」に溢れて見えます。
だからこそ私は、声を大にして言いたいのです。
多くの人が憚られて、「あまり語れない現実の姿」を。
そう、「この世界は、完全で美しい」のです。
スマホやゲームばかり見て、時間をつぶす暇があるなら、戸外に出て、万象森羅の中の「場の意識」と共鳴してみて下さい。
「日本文化」に内在する「第9の芸術」が示すものとは、「この世界は、完全で美しい」ことをイメージさせる情感的な「魔法の感覚」そのものなのです。