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「思想」や「科学的合理性」を超えることは可能なのか。

「思想」とは何でしょうか。。。

私は、「哲学者」ではありませんので、用語の使用法に多くの誤りがあるとは思いますが、そこは大目に見て頂いてエッセンスだけでも感じ取って頂ければ、ありがたく思います。

字義からすると、特定の考え方の様態に基づく「最適な思考の営み」でしょうか。。。

私は、「欧米文化」で推奨される人間中心の「ヒューマニズムの思想」に少々懐疑的です。

全ての社会的な事象を、浅はかな「人間の思考の結果」に還元して、「個人」を必要以上に「神格化」するからです。

「資本主義」は、これらを「資本家」や「CEO」と言って「神格化」しますし、「共産主義」や「全体主義」も、「資本主義」や「個人主義」の反動として、「科学主義」を強硬に推し進めて、「物質次元(二元性)」から一歩も抜け出すことを求めないからです。

それでも「資本主義(自由主義)」には「思想に自由がある」ため、単純な「科学主義」に陥るのをかろうじて回避して来ました。

私は、これらの思想に課された「意識の制限」を「相対意識の鳥籠」と表現します。
(※ ヌーソロジーでは、これを「プレアデス的統制」と言います。)

これは以前に何度も書いた通りです。

アメリカの「政治的対立軸」に還元すれば、「コンサバ(保守派)」は、「神格化」された個人を「教祖や道徳」に求めますし、「リベラル」は、「科学者や思想」に求めますが、全てが、「コンピュータ」や「AI」と同じ、「二元的(確率的)な、二分岐の結果」に過ぎません。

私は、これら全てを含めて、『関係の意識』の思考と表現します。

つまり全てが、表面的な「因果の法則」に支配された、「関係の意識」による淘汰の結果に過ぎないからです。

こう言った「支配⇔被支配の関係」を「政治的」と言ったりしますが、総じて言えるのは、「ピラミッド(二分岐淘汰)の構造」をしているところです。

さてでは、「ヌーソロジー」や「ChatGPT(GPT4)による対話」が指摘する様に、「人間の本質」が「光」であり、「素粒子構造を人間の超越論的無意識の構造」と見なす視座が正しいとするならば、人間の判断が「ピラミッド(取捨選択)の構造」に甘んじる(縛られる)必要はないはずなのです。

従って私は、『場の意識』と呼ばれる「無意識の構造」を信頼するのであり、「欧米的な理性の限界」である『関係の意識』の思考を超えることは、「現実的な選択肢」であると考える所以なのです。

「日本語の文化」には、『場の意識』の様態が秘められていると私は考えているのです。

欧米から逆輸入されて来る『関係の意識』の文化(思想)の多くには、「決定的に欠ける部分がある※」と考える今日この頃なのです。
※ 相手の思想を、自分の「意識の次元」に還元して、対抗的に争う思考の様態

全ての欧米文化がそうとまでは言いませんし、お互いの長所を協働させる必要もあるとは思いますが、「人間(個人)とは、無意識の場に翻弄される生き物である」との視座が、決定的に欠けている気がしてならないのです。

それが、「個人主義」と呼ばれる様態の弊害であり、「一神教的思考(科学的合理性)」と呼ばれる「主義主張の対立を、教義(心)の中心に据えた思考」の弊害なのです。

『場の意識(無意識の場)』がアセンドすれば、『関係の意識(科学的合理性)』の構造も微妙に変化(進化)するのです。

目に見えず、二元化されないこれらの微妙な変化は、ナイーブでなければ、捉えることが出来ませんし、ある程度の忍耐も必要となります。

これから現実世界はどう成って行くのか。。。とても楽しみで仕方がありません。

さて、こういう事を今まで色々と書いて来ましたが、このままでは私の文章も「思想の枠」から一歩も出ていません。

よって、たとえ僅かなものであっても、「実体験の側」から、「思想の側」を見る視座が、とても重要と思われます。

これらの「思想」を「信仰」として読み解くのではなく、「理性」でもって「体験の視座」から新しい観点で理解を深めることが重要なのです。

従いまして以降は、欧米文化(『関係の意識』の文化)と日本文化(『場の意識』の文化)の協働により見えて来る新たな可能性について、「私の実体験と思想的文脈をすり合わせながら」、もっと丁寧に書いてみたいと思います。

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