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理想と現実のジレンマ

人間は生きていると難しい問題に直面する。
その一つが矛盾する二つの立場の間で板挟みになり、どちらを選んでも損をしかねないという問題だ。
一言で言うとジレンマだが、これは人間が生きているうちにたびたび直面することで、そのたびに決断を迫られる。
そして、それが人生に大きく影響してしまうこともある。
だから、僕は決して他人にこうするべきだと自信を持って言えるわけではない。
ただ、今まで生きてきた経験から言えることはある。


ここでは誰もが人生で直面するであろう「理想と現実」のジレンマについて書く。
子供の頃、誰もが将来こうなりたいという夢を持っていたと思う。
男の子だったら経営者になりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、ちょっと今風に言えばYouTuberになりたいとか——女の子だったら看護師になりたいとか、パティシエになりたいとか、アイドルになりたいとかだ。
しかし、実際はその夢が叶う人と叶わない人がいる。
当然、大きい夢、現実離れしたような夢ほど叶わない可能性は高い。
やがて「人生そう簡単にうまくいかないよね」と現実を受け入れなければいけない時が来る。
自分の進みたい道へ進めなかったのは悪い結果だが、それ以外の道へ進むのも妥協した結果なのだから悪い結果だ。
自分の子供がいつまでも定職に就かずに夢ばかり追いかけていたら、親は「いつまでも夢ばかり見ていないで働きなさい」と言う。
こういう話は昔から世間によくあることだ。
そして、男だったら普通の会社員になったり、女だったら普通に結婚して専業主婦になるという人生のパターンは世間にとても多い。
そういう生き方をしていて幸せな人はたくさんいるのだから、それも立派な生き方だ。
しかし、僕は夢や理想が人間にとって強い原動力になることを知っているので、そういうものは捨てたほうがいいなどと軽々しくは言えないのだ。
夢や理想を持つことは現実を受け入れることと同じくらい大切なことだと思っている。
自分の進みたい道へ進めなかった人でも社会に出たら当面の生活をどうにかしなければいけないので働かざるを得ない。
極端に言うと、そこには夢や理想などというものはない。
おそらくその人の表情や心というのは死んだようになっているのではないだろうか。
理想を失った状態というのはまさにこのようなことだ。
ヨットに例えると、現実的に考えることは帆を調整したり舵を取ったりすることだが、理想がないというのは風がない状態に似ている。
また、理想はあるものの漠然としていて、具体的な目標が定まらないのは目的地が見つからない状態に似ている。
目的地を決めても、理想が高すぎていつまでも着かないと思ったら、時には目的地を変えることも必要だ。
理想や希望や向上心を持つことは同時に意欲や情熱や忍耐力を生むことにつながる。
学校を卒業してやっている仕事はまったくやりたくてやっているわけではないとする。
会社の業務には全然興味がないが、生活しなければいけないから仕方なくやっている。
こういう人は世の中にたくさんいる。
電車の中で死んだような顔をしている人は多いが、それは精神的・肉体的にただ疲れているというだけではなく、その人が理想や希望を持てない状況に陥っているのかもしれない。
しかし、もし自分が本当にやりたいことが見つかったとしたらどうだろう。
その人の心も生き返ったようになるのではないか。
例えば、コンピュータゲームに興味があって、それに関係した仕事をしたいという夢・希望・目標を見つけたとする。
やる気の出たその人はちょっと大変でも仕事をしながら専門学校の講座を受講してコンピュータのプログラミングのスキルを習得した。
それはもちろん理想がなかったら実現できなかったわけだ。
しかし、理想と現実のジレンマはその先にも待ち構えている。
その人は転職しようと思ったのだが、A社とB社という二つの会社どちらにするか迷った。
A社とB社は会社の規模も給料も同じくらいだが、面接で聞いた話では、A社の仕事はただ指示されたようにプログラミングするだけの仕事、B社の仕事はゲームの制作にたずさわれる仕事で自分の才量を発揮できる仕事だった。
どう考えてもB社の仕事のほうがやりがいのある仕事だ。
この場合、B社を選ぶのは当然だろう。
しかし、例えば、A社のほうが会社が大きく、給料がB社の1.5倍となると大抵の人はA社を選びがちだと思う。
B社のほうが可能性はありそうだが、それに賭けるのは躊躇せざるを得ない。
それにA社のほうが大きい会社だから倒産するリスクも低いだろうと踏んで、その人はやりがいや可能性より給料や安定を選ぶことにした。
しかし、もしB社の仕事を選んでいたら大ヒットゲームの開発にたずさわれて給料が格段に上がるはずだったとか、そのために会社が成長してA社をしのぐまでになったとか、そういうことが実際世の中に結構あるのだ。
それがたとえ10年後、20年後のことでも長い目で見たら別の選択をしていたほうが良かったというような。
短期的な見方ばかりしていると長期的に見た場合、損をすることもあるし、将来を見通せなくなることもある。
また、楽な道より大変な道を選んでいたほうが結果的に正しかったということもある。
思考の時間軸を目先だけではなく、総合的な人生に向けることも大事だと思う。


「教育ママ」のような親が子供に自分の価値観を押し付けるのは無責任だと思えなくもない。
教育ママという言葉はあまり聞かなくなったが、今でも多くの家庭に存在するだろうことは想像できる。
教育ママというのは、偏差値の高い学校を卒業して大きい会社に就職することが人生を幸せに生きられる最善の方法と考えて、子供に勉強を強要してばかりいる親のことだ。
どの家庭の親だって子供に心から幸せになってほしいだろうから、わが子を愛するがゆえのことだということは理解できる。
実際、そういう親に育てられて公務員や会社員として立派な地位に就いて幸せな人生を歩んでいる人も大勢いるわけだから、僕はまったく否定するわけではない。
しかし、それでは子供にそれ以外の道での大きな可能性があったとしても、それを閉ざしてしまうことになる。
子供がほかに目指したい道があるのに親がそういう道を押し付けるのは、子供にとって人生を消極的に生きることになりかねない。
それは「幸せになるための生き方」というよりは「不幸にならないための生き方」のような気がする。
僕には子供はいないが、もしいたら、とりあえずは子供に好きな道を歩ませると思う。
子供の生き方に親が口を出すのはある程度挫折を経験してからでもいいと思う。
すべての家庭の親が教育ママのような育て方をしていたら、偉大なスポーツ選手、芸術家、パイオニアなど生まれなくなってしまうかもしれない。


僕がこういうことを考えるきっかけになったのは、税理士の資格を取ろうと思い、通信講座を受講できる専門学校を探していた時だった。
僕はAという専門学校とBという専門学校のどちらにしようか迷っていたので、両方の学校から講座の無料案内資料を取り寄せた。
どちらの資料にも実際に講座を教えている講師がこれから講座を受講しようと考えて来ている人向けに教室でガイダンスを行っている様子を収録したDVDが付いていた。
興味をそそられたのは、専門学校AとBの講師の話す内容が全然違っていたことだった。
Aの講師の話す内容は、ほかの専門学校との教え方の違いを強調していて、試験はこうすれば受かるというような攻略法をわかりやすく説明しているものだった。
また、税理士の実務の話では、実際に成功して大きな事務所を構えた人などを引き合いに出して、とにかく儲かるということを強調していた。
僕はこの講師の話を聞いたあと、自分にもできそうな気がして、とてもやる気になったのを覚えている。
Bの講師の話す内容は、そう簡単に受かる試験ではないということを強調しておいて、厳しい試験勉強をどう攻略すればいいかということを中心に説明しているものだった。
税理士の実務の話では、税理士になっても辛いことはあるが、それでも税理士になったほうがいいというような話だった。
僕はこの講師の話を聞いたあと、生半可な気持ちでは挫折してしまうと自分の気を引き締めたものだった。
僕はBの講師の話しか聞いていなかったら講座を受けなかったかもしれないが、Aの講師から聞いた話が僕の気持ちを後押しして講座を受けるに至ったと言ってもいい。
結局、僕は数年間勉強したあげく、日商簿記2級まで受かったものの、挫折してしまったのだ。
しかし、僕はあとから専門学校AとBの講師のガイダンスの仕方のどちらが理に適ったものなのか考えざるを得なかった。
専門学校は受講料で経営が成り立っている以上、ガイダンスを任されている講師の役目としては——専門学校の経営的に言えば——一人でも多くの人に講座を受講してもらうことに違いなかった。
しかし、実はそれだけでは駄目なのだ。
なぜなら、そういう専門学校の評判としてもっとも重要な指標に合格率というのがある。
合格率というのはその専門学校のその年の受講生がその年の試験に合格した確率だ。
だから、あまりやる気のない人が安易に講座を受けて、たくさん試験に落ちてもらっても、学校としても困るという面もあるのだ。
実際、大手の専門学校で受講生の数は多くても合格率が低い学校もあった。
僕が選んだ専門学校は両方とも合格率が高いことを売りにしていたが、Bのほうが若干合格率が高いのはあとから考えたらもっともかもしれなかった。
誇張や歪曲があまりなく、実際の受験勉強や税理士の業務の実態に近かったのはBの講師の話のほうだったと言える。
ただ、Bの講師の話していたエピソードに次のようなものがあった。
その先生が会計事務所で働いていた時、税理士の同僚が突然いなくなってしまったというのだ。
同僚と一緒に近所を探し回った結果、近くの公園で仕事の辛さのせいで泣いていたという話だった。
僕は受験勉強をしていて辛いと感じた時、さっきの話を思い出して、こんな大変な勉強をして試験に受かってもまだ大変な思いをしなければいけないのかと思うと心が折れそうになったものだ。
Aの講師に関しては、その先生は難関試験に挑もうとしている人向けに「試験合格法」のような本を出版していて読んだのだが、本の内容はガイダンスとは全然違い、甘い考えでは絶対に受からないというようなことをたびたび強調している内容だった。
その先生の考えでは、ガイダンスでは一人でも多くの人にやる気になってもらってから、講座で教える段階で厳しく指導するというやり方らしく、全然悪気はないのだろうが、先生のガイダンスを聞いて受講した人の中には「話が違うじゃないか」と感じた人もいたのではないだろうか。
それで、僕は教える立場の人間のことを考えざるを得なかった。
他人に何かを達成させようと一生懸命努力されている方は世の中にたくさんいると思う。
受験、仕事、スポーツなど例を挙げれば切りがないが、そういう人達が抱えるだろうジレンマのことだ。
現実の厳しさを伝えることも大事だが、はたしてそれだけでいいのか。
達成したあとや達成に向けて努力する過程でこういう良いことがあるという面も同時に伝えられなければ本人の情熱やモチベーションは維持できないのではないか。
これはバランスが大事な難しい問題だと思わざるを得ない。


ジレンマは論理学では三段論法の意味を持つ。
例として、他人の相談に乗る時がわかりやすいと思う。
例えば、人生について真剣に悩んでいる知人がいて、ある日、真面目に相談を持ちかけられたとする。
その時、あなたが「そんなこと知らないよ。自分で考えなさい」と一方的に突き放したとしたら、相手はあなたのことを冷たく無責任な人だと思うに違いない。
しかし、これはある意味そうかもしれないが、そうとも言い切れないのだ。
逆にあなたが相手の話を真剣に聞いて、「こうしたほうがいい。こうしなさい」と言ったとする。
それはある意味相手にあなたの考えや価値観を押し付けたことになるのだ。
もしその人があなたの言う通りにして失敗してしまったらどうだろう。
あなたはその人の人生を狂わせたことになりかねないし、これはこれでとても無責任な態度になってしまう。
だから、三段論法で考えると、「相手の相談に乗らないで突き放すのは無責任である」「相手の相談に乗って自分の考えを押し付けるのは無責任である」「相談に乗るか、乗らないかいずれかである」「ゆえに、いずれにしても無責任である」ということになる。
これは何を意味しているのか。
人は他人の人生に対して常に無責任ということなのか。
それは誰も他人の人生に責任なんて持てないということだと思う。
言い換えれば、誰も自分の人生に責任なんて持ってくれないということだ。
自分の人生は自分で責任を持つしかない。
自分の人生に責任を持っているのは自分以外の何ものでもないということだ。

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