人間失格を読んで

太宰治「人間失格」を読んだ所感を書く。
新潮文庫発刊の巻末において、文芸評論家の故奥野健男さんがされている解説から多くの表現を引用してしまってはいるが、その恥を忍んででも書きたいと思ったことを先に断っておきたい。


「恥の多い生涯を送って来ました。」

このあまりにも有名な一文の告白で始まる3つの手記を主体に、第三者によるはしがきとあとがきが追加され、「人間失格」は構成されている。手記は「葉蔵」と名付けられた男によって書かれたものであり、終始「ですます」調の一人称が貫かれている。葉蔵の自己省察と事実告白が手記の内容である。

葉蔵は幼少期から内的世界に閉じこもり、人間を恐れていた。またその恐れが他人に見抜かれはしないかと酷く恐怖し、無邪気な楽天性を有した「お道化」として他人を笑わせることで、注意が自身の内面に注がれることを防いだ。彼は平生穏やかな人間が、何かの拍子に突如本性を現す姿を、「牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾でピシッと腹の虻を撃ち殺すみたい」と形容した。人間の素顔の出現に戦慄し、その裏返しで自分という人間に対しても一切の自信を有していないのが葉蔵という人間の特徴だった。たとえ家族、肉親であっても不信の殻を破らせず、また自身も他人のそれに干渉はせず、欺き合いの中で器用に不気味に笑みを浮かべる子どもであった。ただただ道化に徹し、誰にも訴えることなく形成した否定的な人間観から漂う孤独の匂いが、後年様々な女性に嗅ぎ当てられ、彼との関係に引きずり込んでいく。


太宰の人生、特にその生い立ちを知ることは、この小説を読み進める上で不可欠である。何故ならば、「人間失格」は太宰が自らの実体験にフィクションを取り入れることで文学とし、葉蔵の人生を頼りに彼の自己否定観を強烈に表現した作品だからである。


太宰治は1909年、青森県北津軽郡金木村に生まれた。生家は津軽屈指の大地主であり、父源右衛門は貴族院議員、衆議院議員を務めている。太宰はこの家の六男坊であった。

土着的な色合いの強い津軽文化の中で生まれ育ったことは、東京を起点とした中央文化に対する反骨精神を、大地主の家に生まれたことは、自らは人々の血の上に立つ滅ぶべき種族であるという罪意識を、六男坊すなわちオジカス(叔父の糟)であったことは、父母の愛から除外された余計者意識を、太宰に植え付けた。

太宰は後に生家に反逆し、共産主義を志とする政治運動に参加する。そして手段を選ばない革命運動の激しさを目の当たりにし、精神的に耐えられないほど傷つく。その絶望は、かねてから備えていた滅ぶべき種族としての罪意識を痛烈に自覚させた。そして政治運動から逃亡し、鎌倉の海で女性と入水自殺を図る。結果、太宰は救助され、女性は死亡する。知り合ったばかりの女が死に、悪しき人間である自分だけが生き延びてしまったという事実が、より一層の罪意識を彼に与えた。太宰21歳のことである。

理想を失った太宰は、「自分は救いようもない、滅ぶべき種族でしかない」という罪悪感と虚無感に苛まれ、阿呆のような生活を送る。しかしその生活を続ける中で、どうせ滅びてしまうのなら、この愚かな男について書き遺しておこうという思いに至る。こうして自らの死を前提に書き始めた処女創作集こそ「晩年」であり、第一回芥川賞の候補作に選ばれるほど注目を得た。自身の罪悪感、死をモチーフとした作品が評価を受けたことにより、彼の自己否定は更なる深みへと落ちていく。

昭和10年、太宰は鎌倉の山中で自害を図るも、未遂に終わる。その恥ずかしさからうろたえ、麻薬中毒に陥り借金を重ね、自己否定自己破壊を加速させる。周囲の人々は太宰の姿を目にし、彼を”救う”ため騙し、精神病院へ入院させる。しかしこの試みは、自らが追い求めた主観的真実の表現が、信頼を置いていた友人にすら狂人の言動としか見なされていなかったことを太宰に痛感させた。また入院中、当時の妻初代がくだらない男と過ちを繰り返していたことも知る。全てに絶望した太宰は妻と心中を図るが、またも失敗に終わる。太宰27歳のことである。

その後、作家としての再出発、大戦を経験するが、太宰の根底に常に横たわっていたのは自己の醜さ、社会や人間に対する絶望であった。この内面的真実を、彼が死を賭して告白したのが「人間失格」である。本作品には、上述したような太宰の実体験に由来するであろう多くの描写、説明が含まれている。それらはあくまで葉蔵が体験し語られるフィクションとして表現されているが、太宰自身の自己破滅の移し身となっていることは言うまでもない。

文字通り、自信の内面の抽出に全てを懸けた太宰は、「人間失格」の連載第一回が発表された約1か月後、遂に入水自殺を遂げた。39歳の誕生日を迎える1週間前のことであった。



上述したような太宰の徹底した自己否定、自己破壊は、人間社会という背景の中でどう捉えることができるのか。文芸評論家の故奥野健男さんが記した解説の中に、それについての核心的な考察を発見した。


「太宰治の生涯と文学は下降指向のそれと言ってよい。悪しき秩序、権力とたたかうためには、まず自分の中にあるそれらとたたかわねばならぬ。徹底した自己否定、自己破壊によってのみ、はじめて根源から秩序、権力を批判、否定することが可能になる。」

「えらくなりたい、高められたい、立派になりたい、という上昇指向的モラルや感性は結果的に悪しき秩序に迎合し、それを強めるだけであり、そういう上昇指向によっては真の反逆は不可能だと見抜いていたのだ。そのためにまず自己を破壊する下降指向に徹したのである。」


この解説を読み、内省的かつ自己破壊的な近代文学への自分の印象が、いかに浅墓であったかを思い知った。日常の言葉を借りて言えば、「思い悩む人間の姿がカッコ良かった時代」といった浅薄な印象を恥じた。近代において活躍した文豪たち、少なくとも太宰治に関しては、自己破壊や自己否定を、自己と他者との差別化の手段として利用したのではなかった。葛藤を理由に他者との差別化を図り、自己の優位性の担保を狙った利己的欲望の達成のためではなく、あくまで社会のため、社会とはすなわち他者の幸福のために自己否定を選択したのであった。だからこそ、太宰の姿とその血を滲ませた告白は読む人の心に肉迫し、自己破壊の美を感受させる名作と成り得たのである。


ここで、目線を近代から現代へと転換する。

一昔前は絶対的かつ一元的正義であった「上昇指向的モラル」が、現代において疑問を呈されるようになった。これについては、奥野さんが指摘されたようにモラルを妄信し上昇する途中どこかで迎合し得る悪しき人間秩序の存在が、歴史を経て明確化されたことが理由の一つだと考えられる。また他方で、強弱問わず種々の思想に接触する自由が与えられ、取捨選択を迫られた現代人の混迷が介在しているようにも思える。この結果、悪しき秩序に対抗しようとする活発な勢力は衰退し、思想の多様化に追いつかない社会秩序に対するネガティブネスが、日陰でその勢力を拡大させているのである。もはや上昇指向は近代における絶対性を失い、人々はより多元的に、其々の尺度で自己幸福を考え追求するようになった。このようなコンテクストにおいて、徹底的な自己否定により社会幸福の敵とたたかおうとした太宰の文学は、今までにない新たな現代的印象を纏うのではなかろうか。