ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを見て【感想】

 ジョーカー:フォリ・ア・ドゥは様々なメッセージをはらんだ傑作であった。もっとも、アメコミ映画としては楽しめないかもしれないが。

 特に、私自身としては”選挙”との関連性を見出せずにはいられなかった。
 前作において、アーサーがジョーカーに成り上がるサクセスストーリーを現実と妄想をごちゃ混ぜにしながら見せつけられた。他方、本作では、裁判を通じて死や自由、自身の素顔といった現実を突きつけられたジョーカーがアーサーに戻るお話を見ることになった。そこでは、妄想はミュージカルとして表現され、現実と妄想がはっきりと区別されていた。
 選挙においても、私たちは、ある候補者の現実と妄想を見せつけられながら、一人の候補者を成り上がらせていくこととなる。もっとも、候補者が一度代表になってしまえば、大抵の代表は妥協の産物である政治の餌食となり、何もできなくなってしまう。そして、カリスマ性のある代表はいつしか陳腐な”人間”に成り下がるのだ。

 現に、石破総理は総裁選で発言してきた内容を実現することができずに、総選挙に臨むこととなった。それだけ、人々の期待に答えることは難しいのであろう。
 もはやカリスマや創られた偶像に頼るべきではないのかもしれない。そう思わせる作品であった。

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