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「●●なら△△であるべき」という「常識」をぶっ壊せば、愛と平和と自由の世界は現れる。

人が「自然と」興味を持つことには、深い意味があると思う。

「その人」にとって。


僕は、ずっと自分を「証明」しようと思ってばかり生きてきた。

それは、大好きで尊敬する母親を悲しませたくなかったから。


でも、それはすなわち、「本当の自分ではない」自分を、「本当の自分」だと一生懸命見せようと、なりきろうとしてきた行為だったのだなと

改めて思った。


僕が折につけ目にしたもので、気になるというか、心に響くものがあった。

それが「ゲイ」の人のカミングアウトだ。


そのシーンは、いつも何か心が惹きつけられるものがあった。


さっきも、そのシーンをたまたまYouTubeで見かけた。


すべての「ゲイ」の人がこのように辛い状態になっているわけじゃない。

自分は「ゲイ」だと明るく受け入れている人もたくさんいると思う。


でも、僕はそれでもやっぱり

「常識」「暗黙の了解」みたいなものがあることは

いわゆる表面上の「安定感」のようなものを生み出すけれど


実際には、その陰で多くの人が

「息ができない」ような苦しみを味わうことになると思う。


僕自身も元々は、

ただ「自由に」生きたいだけの人間だった。


しかし、そんなことは「常識」として許されてないと思った。

誰より、親はそんなことを理解できなかった。

 

だから、大手の外資系企業で

15年間も、心を殺して機械のように働いた。


でも、それは親が悪いのだろうか?

いや、そこも「常識」というものの存在が影響していたのだ。


もし、社会そのものが

もし、人々がみな

あらゆる人はそれぞれユニークであり

「これが正しい」「これが間違い」

なんていうものはないんだということ

それが「常識」となっている世界に

それが「暗黙の了解」となっている世界に

育ったとしたら

 

どれだけ、「息」をできる人が

増えるだろう。


もちろん最後は結局のところ

「自分が自分の人生を決めている」

ということには変わりはない。


けれど

社会の中で、人の中で生きる以上

自分以外のものに

大なり小なりの影響を受けることも事実だ。

 

だからこそ

働かずに自由に生きたい男性はそうすればいいし

働くことが好きな女性はそうすればいい

 

つまりは

「●●なら、△△であるべきだ」

この考え方を

個人単位でするのはまだ構わないが


社会として、暗黙の了解として

ある特定の価値観が採用された状態を作ることは

断じて避けるべきなのだ。

  

私たちが持つべき

たった一つの暗黙の了解があるとするなら


このお天道様の下では

みな完全に対等な

「人間」だ

ということだけだ。


そしてそれが

これから本格的に始まる

「水瓶座の時代」なんだ。


【インタビュワー】

あなたはあなたのことを中国人だと思いますか?アメリカ人だと思いますか?


【ブルースリー】

私が自分のことをどう思いたいかわかりますか?

「人間」です。

「孔子曰く」みたいに聴こえて欲しくないけれど

お天道様の下では

みんな同じ家族なんだよ。

ただ、みんなそれぞれ

「違う」だけなんだ。


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というか

ここまで書いて思ったけど

結局は、「社会」としてそんなことを決めたりする必要はなくて

こういうブログやYoutubeといった

個人個人の発信に触れた人たちが


それぞれ「自分」の中で

自分と宇宙の関係を知って

ただ「自分」を生きることを

決めればいいだけなんだね。

 

最終的に

親であれ誰であれ

「他人」というものは

自分の反射でしかないのだから。


それをできる人が

トップダウンではなく

裾野(Grass Root)から広がっていけば


ある時、ふと気がつけば

世界は

みんなが「息」を自由にできる場所に

変わっているんだ。




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