結局「常識」が大事
こんな風に「誕生日が苦手」みたいな少数派の感性を持っておきながら、私は、誕生日を祝うことやクリスマスを祝うことは大事だと思っている。
それは常識で考えればそうだと思う。誕生日を祝ってもらえると嬉しい。そういう感覚が人間関係の基盤にある。
私は理屈として常識が大事だと思っている。最近、みんな、「常識的に考えよう」と言わなくなっている気がするが、もう少し常識で考えていけばいいと思う。
最近、知人から新興宗教に勧誘された。ここに書いたnoteとは別のもので、ここに来て宗教勧誘に立て続けにあっている。
当然断ったのだけれども、なぜ断ったかということを説明しようとすると「宗教は間違ってると思うから」とか「宗教は搾取だから」とか別にそういう理由をきちんと紐付けて語れるほどそれらの宗教に対して理解があるわけでも実態を知っているわけでもなく、「常識的に考えたら新興宗教は入らない方が良いでしょ」と思ってるだけである。で、それでいいと思ってる。
今日、見たニュースでこんなものがあった。
この2つ事件に共通して思うのは、みんな有罪とか無罪に囚われ過ぎでは?と思う。別に無罪になることと常識で考えてどうなの?ってのは少し違うと思う。刑事事件って推定無罪だし、常識感覚よりも有罪のハードルはかなり高いところにある。仮に無罪だとしても、私はこういう人たちのことを常識的に考えて「どうなの?」って思う。もちろん金目当ての結婚だろうが、叶姉妹みたいなポジションまで上り詰めたら「へぇ〜すごいね」って手のひら返しながら「よそはよそ、うちはうち」って感じになるだろうなと思う。
とはいえ常識の問題もあって、「同性愛ってどうなの」みたいなのについては私の常識で考えると「本人たちの好きにすれば」って思うけど「同性愛とか変でしょ」っていう感覚が地域・時代によって常識だった……みたいなことは容易に想像できるので、まあ常識って変わっていくものなんだろうなと思うし絶対だと思わない。そういうのに対しては「時代だねぇ〜……」って言いながらテキトーに接しているのが良いんだろうと思う。
また別の問題として、理論として常識が大事だと思っても、私の感性が冒頭の通りあんまり常識的でない部分があり、私はそこでずっと悩んでいる部分もある。まあ「これ実は苦手なんだよね〜」と思いながらぼやきをインターネットでこっそり書いてる、くらいはかなり常識的な対処の仕方の気もするからみんなこんな感じなんだろうと思う。