成田悠輔は、「音楽は儲からないからミュージシャンは馬鹿」と冷笑しているのか?


成田悠輔さんのツイートは、一見して何をいいたいのか分からない。しかし、強烈な印象がある。この音楽業界について触れたツイートも、書かれているのは基本的にファクトであり、これをもって「人は音楽にお金を使わない」「ちっちゃなパイ」と評価するのもそこまで飛躍のある論理ではなく、何かを示唆しているようで、その解釈が難しい。

このツイートを見て、多くの人はどう思うだろうか。例えば「お金持ちになりたいなら音楽なんてやるのバカじゃない?」という冷笑に見えるか。全てを市場と経済規模に換算する傲慢さと見るか。

実際に上記のようなツイートもあるわけで。成田悠輔氏が拝金主義的資本主義的価値観を内面化しきって、他者を揶揄しているという受け止めだ。

だけど、私の中で成田悠輔さんって全然そんな人ではなくて、むしろかなり現実的(悲観的)な視点を持ちながら、拝金主義的資本主義の考え方を嘆いて、軽蔑し、批判している人だと思う。ただ彼はそれをそのまま伝えても誰にも伝わらないと絶望仕切っているのだ。そのために、このように、あえて「嘲笑」しているかのようにも読める絶妙なラインの発言をして、対立を生み出し、その中で世の中が思考を深め良い方向に動いていくのを願っているようだ。

私の中で、成田悠輔は、他者に対して絶望している人である。彼は絶対に自分の真意を語らない。「なぜ突然メディア出演を始めたのか」という問いに対しても必ず「断るのが面倒だから」とはぐらかす。

冒頭の成田悠輔のツイートの「真意」に近づくためには彼が「お金」に対してどのような発言をしてきたか見るべきだと思う。

これは切り抜き動画だが、成田悠輔が生育環境も含めて、「お金」に対する価値観を話してるシーンである。

この動画の中で成田悠輔は自身が「お金に興味がない」ことに加えて、世の中にとって「お金が重要ではない」ということを強調している。

また引用した動画の6分50秒程度以後の箇所では成田悠輔が考える「お金」の意義について触れられている。ここで彼は「お金は過去の行動の履歴、データのようなもの」ということを言っている。自分が一万円を持っているということは、過去に自分が一万円をもらえるようなこと(例えばそれは居酒屋のアルバイトで丸一日近く働いたというようなことだったりする)(そしてもちろんお金をもらえるということは「他人に何かをしてあげた」ということである)の記録だということだ。つまり自分が他者に対して提供した価値の記録がお金なのである。そしてその上で彼はお金が「不完全」なものだと言い切っている。

それを踏まえると冒頭の彼のツイートは「他人に対して価値を提供したという履歴」としてのお金の不完全さを扇情的に指摘する趣旨で読むべきであろう。「音楽という極めて意義のある活動に対して『お金』という仕組みでは報いることができない」という現状の資本主義に対する絶望である

成田悠輔と芸術

以上の読みを別の方向から裏付けることを考えてみる。成田悠輔は果たして音楽のような芸術を価値のあるものだと考えているかどうか。

成田悠輔はチームラボを訪れた際にその映像と音楽の中で「不感症の僕が珍しく感動しました」ということを言っている。チームラボが芸術かどうかはまた別の議論の余地があるかもしれないが、彼はこういうものに感動を示す人間だ。

また別の動画になるが、長渕剛との対談動画の最後の方で(25分頃から)彼の歌を聴いている成田悠輔は心から感動しているような顔をしている。彼が歌った後にコメントを求められての「言葉を付け加える気がなくなってきますね」という言葉は本心からに思える。(無論彼はどういう時であれ社交辞令なのか茶化しているのか分からないようなコメントをして真意を濁すので、彼が本当にそれを思って言っているのかは非言語的な表情のような部分を見てなんとなく感じることができるだけだが。)

また、彼の音楽被害の参考になる動画としてギタリストのMIYAVIとの対談動画の26分頃からの発言がある。

ここで成田は音楽を政治と対比させる形で「政治は対立をエンジンとするが、音楽は共鳴に特徴がある。音楽による世界政府は可能か?」という問いを投げる。

政治に対して「対立しかない」と絶望している成田から見て、音楽とはそれとは正反対にある調和的な存在である。

このことからも私は成田悠輔が音楽のような芸術を価値あるものだと考えていることは間違いないと思う。

彼が構想する経済圏・お金のあり方とは

では彼が構想する、お金のない世界とはどのようなものか。財務省の広報誌での彼の発言が参考になるだろう。

ここで彼が議論しているのは、一物一価から一物多価という状況への転換である。購入者の状況に応じて、その商品の値段がいくらになるか決まっていく世の中だ。

一見奇抜な発想に思えるが、冷静に考えてみると、企業を相手にしたBtoBのビジネスでは、ある種オーダーメイド的な側面が入り込むことで一つのサービスに一つの値段が対応するというような価格設定というよりも個別の交渉で価格が決まることはしばしばあり得るだろう。これは、相手の会社についての情報が一個人に比べてより豊富に存在しているということが可能にしていることと言えるかもしれない。情報の増大による一物多価は、toCにおいても、自動的に瞬時に個別交渉が行える状況が実現しているということだ。

このような世界の中で、どう、より適切な価値の再分配を行っていくか。従来それは市場の失敗の中で国家が担うものであったが、お金というもののあり方が変わった世界ではそれがよりよい形で実現できるのではないか。下記の通り、再分配機能を国家に頼らず実現することができるかもしれない。これが成田悠輔の考えていることである。

結論

結論、彼が冒頭のツイートの背景で意図しているのは音楽に対する嘲笑ではなく、むしろお金に対する失望とそのあり方の問題提起である。しかし、彼はコミュニケーションに絶望している人間なので、あえてこういう品のない言い回しでツイートをすることで、問題提起を図ろうとしている。そのために彼の発言は誤解にしばしば晒されている。

感想

集団自決の発言以後、成田悠輔氏は大きな誤解に晒され続けていると感じている。彼は基本的に上の世代への憎悪は激しい一方で、多くの部分ではオーソドックスな問題提起を極めて過激なレトリックで発信するタイプの学者だと感じる。

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