本について話すことの難しさ

好きな作家や作品があっても、それをどう解釈した結果、どこが好きなのかって実はかなり違うと思う。膝付き合わせて朝までそれについて語り合って理解を深めるのならいいけれど、たいていそこまでは無理だし、だれも求めていないと思う。だったら「好きな作家・作品」というラベルを安易に掲げたくないのかもしれない。
「好き」という共通項ではじめたのに、ちょっと話してみたらなんだか違う……っていうすれ違いって、何も知らないではじめるよりも切ないような気もするし。

https://note.com/hei_shise/n/n2ee927e8c848

うーん、こんなに共感できる文章があるだろうか(とか毎週言ってる気もするけれど)。読んだ本について人と喋ると、それが好きな本であればあるほど、全然分かり合えないなという感覚にたどり着くことがしばしばある。その経験は少し心の中で気まずくなるので、あまり人と本の話をするのは得意ではない。

じゃあ自分の中でしっかり言語化して伝えれば良いのではないか、ということも思いつくが話しながらそれをするのは難しい。自分がその本のことを好きであればあるほどに、私がその本について考えていることは非常に長く、話すよりも書いた方がより明晰に語ることができる。

そこでnoteだ。

例えば私の書いたこの「風の歌を聴け」のnoteは、私が現時点でこの小説に考えることをできるだけ全て書いている。非常に長いが、すごく簡単にまとめると、この小説がコミュニケーションの失敗の話であること、そしてそのコミュニケーションの失敗は、キャラクター対キャラクターの間にとどまらず語り手対読者という次元でも表現されているということ、そしてその観点から見るとこの小説が徹底的に「愛していることを言葉にできない」ということから書かれているということ、そしてそれをコンセプトとして小説を解釈するとまだほとんどの人が言及していない解釈がこの小説で成立するということだ。そして私の考えるこの小説の魅力は、この「愛していることを言葉にできない」というある種のテーマが本当に徹底的に徹底して読者に対してまで貫かれているのに、それでも伝えたいと願っている矛盾した語り手の愛の温度である。なのでそれを共有できないと悲しくなるが、そもそもそれはかなり難しいと思うので、この小説についてリアルで喋ることはない。無論そういうコミュニティがあればいいのだが。

まあ、これは好きな本に限らない。嫌いな本にも当てはまる。とは言え私もほとんどの本についてはもっとテキトーな感想しか持っていない。たまたまある程度の密度で本を読むと自分の感想が立ち上がってくる。

先日三宅香帆の「働いてるとなぜ本が読めないのか」を批判するnoteを書いたけど、ここで私が本当に書きたいが半ば書くことを諦めていることがあった。すごく雑に言語化するとそれはこういうことだ。
この本の定義にのっとって、人文書や良い小説の魅力をノイズと捉えるのであれば、私は、それを読んだ人の価値観を変えられる本のことだと思う。
そして読んだ人の価値観を変えられる本というのは、すごくざっくり言うと、一回目に読んだ時よりも二回目に読んだ時のほうがより面白くなるような本である。
そして、二回目に読んだ時のほうが面白くなるような本が世に出るためには、当たり前だけど、その本を2回読んだ人がその本を紹介して世に出すことが必要である。
そして例えば大学教授の論文や、芥川賞みたいな審査員がいる賞はこれに該当する。逆にインターネットでバズったエッセイとして夜に出てくるのは、読者が一回だけ読んでRTしたくなった文章の方が多くなるはずだ。
なので、インターネット発の文芸評論家が、その読者層に向けてベストセラーになる本を書いても、その内容はどうしても一回だけ読んで面白い内容に偏る方向に向かうと思う。
そしてこの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに対する答えとしてノイズの有無を持ち出すとしたら、それは「その情報媒体のノイズの有無」ではなくて、「ある情報媒体をノイズと感じてもなお読み進めようとする態度」に焦点が置かれるべきであった。なぜならば、この三宅が引用して二項対立の根拠にする論文はそもそも「情報」ではなく「情報知」に言及する内容であったからだ。情報という言葉と異なり情報知という言葉は、主体の態度を含む言葉なのである。そして、この「ある情報媒体をノイズと感じてもなお読み進めようとする態度」を形成するのは、2回読んだ人がそのコンテンツを紹介して世に出すことでコンテンツが生み出されていくエコシステムであり、三宅がインターネット発の文芸評論家としてこのような内容の本を書きそれが人文書として評価されることは私にはそのエコシステムをむしろ衰退させるものだと感じられるからである。

なので私が三宅香帆のこの本について語るときには必然的にこの、「2回読んだ人がそのコンテンツを紹介して世に出すことでコンテンツが生み出されていくエコシステム」というものの存在を前提としてそこに対する評価や賛否であったり、そもそも三宅のこの本についてそのエコシステムと結びつけて議論するのがよいのかどうかという話に焦点が行ってしまい、それ以外の争点は割とどうでもいいなと思ってしまっているのである。

もちろんこれはそもそもこの本の内容として登場するものでは全くなく、僕の方からこういう概念を持ってきて、勝手にくっつけて、勝手に論評してるということであり、故にこの本について人と話そうとするとこのエコシステムの説明から入らなくてはいけないが、それは会話の中でやろうとしてもうまく言語化できないのだ。

しかしかと言って、私としてはこの本はこう読んでしまっているので他の人の大抵の論評を見てもなんか全然違う部分を読んでるなぁという感想になっていくことが多い。

なのでnoteに書いている。読んだ本について自分が考えたことを、きちんと人に伝えられる形にしていくため。

もちろん、そんなものを読む人はごく限られているのでまあ、誰にも読まれないと思っている。それなのになぜ書いているのか。書くことが他者の対話としてよりもむしろ自己との対話だからである。

実際にきちんと本について話そうと思ったら、「違う、お前は全然この本のことを分かっていない」と罵声と灰皿(私は非喫煙者なのでこれは比喩だが)を飛ばし合いながら自分の主張を一方的に主張し合うしかない気もしてくるのだが、もちろんそういうわけにもいかないだろう。時々腐女子の生態を描いたマンガやエッセイなどで、カプ同士で戦争をしているのを見ると、割とうらやましいなと思う。

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