教育到達度に影響を与える背景とは
おはようごさいます、MQ代表社員のぴろ@教育大学大学院です。
大学院も夏休みに入りました。授業終了時に多くの授業で提出を求められる「授業の振り返り」を元に記事を書いてます。自分の考えの備忘録でもあります。
今回は「教育到達度に影響を与える背景とは」についての授業を受けた時に考えたことです。自分の身に置き換えたときにストンと腑に落ちました。幼少の時から父の家系も母の家系も、大学以上の高等教育機関を卒業しており、物心ついた時から「学歴は大学卒業は当たり前」の家庭に育ち、何の疑問もなく、大学・大学院に進学(大学院にいたっては2周目)したわけですが、それは「ハビトゥス」という考えで説明できるのですね。そう言えば、長男は地元の高専から希望する遠方の大学に編入学したいことを私に報告する際に、止める理由もないし、自分も親から大学に行かせてもらったこともあるので、進学したらいい、何なら大学院にも進学した方がいいと伝えたのですが、その時に長男が「高学歴の家に生まれて良かった」と言うていたと妻に言うていた話をふと思い出しました。
経済的要因だけが社会的階層の再生産の原因ではないとは思うのですが、今の時代は経済的要因が大きなファクターになっているように思います。どのようにして文化資本による影響から子どもたちが抜け出せるのか、非常に難しい課題であると思いました。前回の授業で取り上げていた「教育の格差は自己責任なのか」とは言い切れないのではと感じています。
「地方と教育の関連性とは」では、東京一極集中、地方消滅の危機に対して、教育がどのような役割を果たせるのかを学びました。これまでの中央集権的な考えをベースとした学校教育では、地方の活性化は難しいと思いますし、学校外の社会教育の重要性がますます問われるのであろうと思います。
「新自由主義」の考えは「教育到達度」の話にも「地方と教育」の話にも大きな影響を及ぼしていることを実感しています。その流れは20年前の小泉政権の「聖域なき構造改革」の辺りからの流れのように思いますが、もともと社会主義のいいとこ取りしながらの資本主義だった日本にはなかなかそぐわない仕組みが20年続いていて、それが教育や福祉といった弱者にしわ寄せされているイメージがあります。本来であれば、小回りが利くはずの地方分権のはずなのに、お金がないことであまりメリットが生かされず、結局、何もできない地方や個の「自己責任」論で終わっている感じがします。そう言っても始まらないので、まずは自分がその中で何ができるのか、せっかく大学院に進学して、勉強できる機会を得ることができたので、考えてみたいと思います。
Written by ぴろ。