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散歩するように書いたらいいのかも

真夏のような、もわっとした空気はいったいどこへ行ったのか、窓からひんやりした空気が、やたらさえずる鳥の声とともに、よれよれになったスウェットの隙間に入り込んで来て思わず身がすくむ。地軸が歪んでるんじゃないのか? とか、せわしない天気にわけのわからない文句を考えながら、薄暗い部屋をうろうろして朝食を準備するかどうか迷っていると、友達が起きてきて、いつものようにもごもごと聞き取れない声でおはよう、らしきことを言って、僕もおはようと聞き取れないこともない何かを返す。もう昼だ。そもそもおはようじゃない。

ふと、昨日マイナポイントを申請したときに「明日の朝には入ると思いますよ」と言われたのを思い出して、意気揚々と重さが消えたスマホを拾い上げると、溢れんばかりの光を放っている。どうやら、昨日の言葉は本当らしい。

「仕事早いね。最近金がなかったからまじで助かる。今年は早々にろくでもないことに、使っちゃったから笑笑」 さあ? ろくでもないかどうかはわからない。その時は、藁にも縋る気持だったんだから。それにしても、人は追い詰められると足元を見られてるとわかっていても沼に手を出すんだなと思う。そう思いながら、5万投げた。馬鹿だ。

それでも2秒後には、2万あったら靴ほしいなー、買おうかな、穴開いちゃったし、とか、気に入って何年も履いている靴の汚れを急に思い出したように落としながら、そんなことを言ってる自分に呆れてくる。素直に生活費の足しにすればいいものを、なぜか給付されたものは誕生日プレゼントか何かだと思っていて、記念日でもなければ、何かを達成したわけでもないのに、何か自分にプレゼントしなきゃ! みたいに思い始めるんだから、本当にどうかしてる。でも、そういう自分が好きだったりする。だって、いまを生きなくて、いつを生きるの? Big5を元にした性格診断で「主人格圧倒的にギャンブラー笑笑 神経症的傾向高過ぎ笑笑」って友達のことを笑ってたけど、人のこと言えないなー。まあ、INFPなんて程度の差はあれ、誰だって似たようなもんだ。

いつの間にか日が差してきて、昨日のアホみたいな快晴で乾ききったのに、帰って来るのが遅かったせいで湿気った洗濯物をベランダに出しながら、散歩でもしようかな、って気持ちになんとなくなってくる。小説を持って、てきとうなところまで行って少し読んで、日があるうちに帰ってくる。いいねー、いい休日じゃん! どうせ家にいたって、ろくに勉強もしないんだから。でも、お腹空いたからフルグラ食べてからにしよう。それがいい。朝が昨日の鶏大根の残りと食パンだけっていうのが、組み合わせも意味がわからないし、あまりにもてきとうすぎた。一番近くのカフェに行くにしたって、図書館に行くにしたって坂を登って下らなきゃいけないんだから。

不死鳥いた

結局、近くのコンビニに行って、もらったポイントでさっそくコーヒーゼリーだけ買って、10分足らずでさっさと帰ってきた。ちょっと高いやつだけど、実質タダだからね! 最近できた100円ショップのコーナー的なやつでストックが無くなったスポンジも一緒に買って、近くの大学生っぽい店員になんだその組み合わせ、みたいな顔をされたような気がするけど、それは自分が一番思ってる。袋要りません、あとこの微妙な空気も。風が冷たすぎるし、なんだか体重いし、なんか気持ちが悪いのが悪い。温度を見ると昨日より10℃低いし、昨日みたいに不死鳥に見える雲は見つからないし、歩く直前にフルグラヨーグルトバナナなんて食べるもんじゃない。別に重くないかなと思ってたけど、全然駄目だわ。昨日は、首の後ろが焼けてヒリヒリするぐらい軽々長い間歩いてたのに。

天気の良さで機嫌が良かったからか、一年くらい放置していた自転車の「さびに強いステンレス!」って書いてあるけど、緑色のコケが生えてたハンドルと、錆だらけのチェーンを何となく綺麗にした雰囲気を出して、かごで休んでいた茶色のカマキリの赤ちゃんを近くに逃がしてから、さあ行こうと思ったら、後輪がすぐ空気抜けるっていうので、仕方なく徒歩で1時間弱歩くことになった。忘れてたけど、空気すぐ抜けるるから修理しようと思って部品を手に入れて、やっぱりめんどいから今度にしようと思って放置してたんだった。

マイナンバーカードを受け取って、ついでに投票して、やることやったな偉いわ自分、ていうか歩くだけで2万もらえるとか神か! 管理社会批判とか知らんわ。とか思って来た道を戻っていたら、橋の向こうから学生のカップルっぽい二人が歩いて来て、全然知らない人かと思いきや急に驚いたように、少しテンション高めに「おつかれさまです!」って言われて、よく見たら同じ専攻の後輩で、彼氏っぽい人が、え? 誰この男。みたいな顔をしてきたのがおかしくて、帰りも上機嫌に歩いてきたのに(人見知りっぽかったし、急だったから、ただ単純に、え? 誰?ってなっただけだとは思うけど)。

それにしても、誰かに受け入れられてる、コミュニティに参加してる感覚があるってだけで、どうしてこんなに気が楽になるんだろう? 受け入れて欲しいって欲求が強すぎるのかな。今年に入ってから、内輪のインスタに長文を投稿したい衝動に駆られていたけど、メンヘラに思われるのも嫌だからセーブしていたのに、MBTIくらいだったら、あるいは自分の分野を極めてるっぽいような内容だったら、別にマイナスな印象にならないし、むしろ誰かがなるほど! 面白いね! みたいなことを言ってくれるんじゃないかと思って、ストーリーズに、見たらちょっと引くような量の長文をあげてたけど、この前直接MBTIのこととかを話してた友達だけがいくつかの投稿にいいねをくれただけだった。

いや、何もないよりも全然嬉しいんだけど、思ったよりもスルーだったし、少し前と最後の投稿で見た人が半減してるから、ダルって思われてけっこう多くの人にミュートされたかも。いや、特に何とも思ってないかな。最後までたどり着いてる人は、果たして読んでるんだろうか。それとも、自分のところに流れてくるストーリーズを消費してるだけかな。自分はそうしてるって人もいたし。読んでたら、感想ください。ふーん、そうなんだ、とかでもいいから。自分にとっては重要なことがスルーされてるみたいで寂しいから。不死鳥の写真も、自分では空を見上げた瞬間に旋風が巻き起こってるなかにフェニックスが飛んでるみたいに見えたから、かっけぇぇぇ!! みたいに思って、近くにいた友達には伝わったから、誰にでも伝わるもんかと思ったら、ガチで無反応だし。そんなもんだよね。

ある友達に、どうせ誰も読んでないよな、って言ったら、俺は読んでるね、内容は覚えてないけど。なんか急に学術っぽいこと流れて来たみたいに思った、って返ってきた。なんだその感想。僕はもっと切実な自分と誰かの間にあるどうやっても埋めがたい溝のもどかしさと、それでも希望を抱きたいっていう矛盾した気持ちを表したいのであって、重要なのはそこじゃない。もっと言うと、受け入れられそうな言葉とテンション感でいる自分に対して居心地の悪さを感じてるっていう二重の矛盾なのに。やっぱ、直接内容を話した人にしか何も伝わらないの?

いや、そんな風に思うなら、そもそも簡単に流れていくようなところにそんな文章を載せるなよって話だし、本当に言いたいことをそのまま書けばいい。というか、そもそもインスタは自分が良いと思っていて、しかもみんなも良いと思ってくれるような写真だけをあげる方がいいんだろうな。そのためのプラットフォームなんだから。文章を書く場所じゃない。

インスタはいつもコミュニティの周辺にいる気がする自分でも参加できる場所みたいに思っていて、実際そういう皆が良いと思うような投稿で受け入れられることが気持ちいいのに、もっと欲が出て万人受けしないような長文を投稿したりするとかえって、なんかよくわからない不安と自己嫌悪に駆られる、ってだいたいの僕の感情的な曖昧な表現をパキッとした論理的な表現に変換してくれる友人に言ったら「それは幸福になろうとすることへの背徳感じゃないか」って。そうそう、それだわ。それは大いにある。話が早い。

あんなことをして受け入れてもらおうとしていた、実際に受け入れてもらえると思っていた自分に嫌気が差してくるし、どこにも還元されないならマイナスなだけで時間を捨てているだけだし、一人の時間がたっぷり欲しいし自分の世界を侵害されたくないと思ってるわりに極度に寂しがり屋で、そのうえ自意識過剰で不安がするりと入り込んでくる前に圧倒的に受け入れられ続けていないと落ち着かない自分が、より前面に現れてきて本当に嫌になってくるというやつ。

「小説の新人賞に応募したら? そこだったら、存分に見てもらうための場所だから」。たしかに、それがいいのかも。小説がすらすら書けたらいいのだけれど。ストリーズ上で皆と違うことをして、規範をぶち壊して少し脅かしたいと思ってるわりに、結局ビビってまずい表現を全部削って、それでもあわよくば微かに残った自分のダークサイドを受け入れて欲しいとか思うのは場違いすぎるし、愚かすぎる。しかも、そんなことにウエイトを置いてるとか。他にもっとやることあるだろうに。

「この前レポートチュータリングのバイトしてた時にさ、まだ学生も来ないし、その枠は新人研修も無くて暇だったから、棚に置いてある岩波ブックレットパラパラ見てたんだけど…… ああ、参考にブックレットとかレポートの書き方みたいな本が色々置いてあって。『承認の耐えられない軽さ』って章があって、圧倒的に支配的な存在に承認されなければ、その承認はほとんど意味がないけれど、現代はそうした存在がいなくなっていているから、その質を量でカバーしようとして、いいねをもらおうとする、って。『つながりを煽られる子どもたち』ってタイトルなんだけど」

「ああ笑 結果的にね。東浩紀は逆のこと言ってたよ。」それはどうなんだろう? 僕は、圧倒的に承認をしてくれる人が一人いてほしいけれど、悲しいけれどそういう存在は実は一時的で相手の力だと思っていたことが、自分の中の幻想であったりする。じゃあ、誰かというよりも、何か超越的な存在を信仰する方がいいのかも。そういえば他のブックレットに若者の超自然的なものに対する「信仰」が年々増えているって統計があって、実際に聴いて回ったわけじゃないから実際どういう意味での信仰かよくわからないし、正直信頼していい説なのか、これだけではわらないけど、そうだったらちょっと面白い。「再魔術化する若者」とか書いてあった笑笑 モリス・バーマンの僕が好きな文脈だけど、さすがに捉え方が大雑把すぎるのでは笑笑

東浩紀が言うように流動的で浅く広い承認の方がいいっていうのは、そうなのかもしれない。その方が今っぽいし、現代においてはむしろそれ以外の仕方というのがそもそもにおいて難しくなっている気もする。だって、どうやって超自然的なことに信仰をするかと言えば、なんとなく超自然的なことに想いを馳せるとか、あるいは自分の周りもそれを信じているから、というある意味でそれ自体が浅く広い承認の上に成り立っていることのような気もするから。僕らの世代が何か超自然的な存在を、骨の髄まで染み渡るような、全く疑いを持たないような信仰をできるかというとけっこう難しんじゃないかとと思う。唯一あるとすれば、それは恋しかないんじゃないかな。

そういえば、僕が読んだ本の感想をあげるインスタのアカウントを作ったとき、思った以上に同じことをしている人がたくさんいて、全然知らない人同士だけど同じ本を読んだ人と盛り上がったりして、けっこう楽しかったのを覚えているし、なんだか新しい居場所ができたような気がした。数年後にnoteを始めた時も、自分よりも軽く、あるいはディープに泥沼な文章を書いていたりする人がたくさんいて、インスタでは書ききれないようなことつらつらと書いても許されるような緩い空間を見つけて、なんだか心が軽くなったのを覚えている。ああ、こんなことを書いてもいいんだ、こんなことで緩く話したりできる場所があるんだって、思ったんだった。

それなのに、いつの間にか自分のなかでの完璧さ、自分のなかでの美しさということをより強く求めるようになって、あるいは本当のところ受け入れてもらえないんじゃないかとか、それは裏を返せばもっと強い形で受け入れてほしいっていう気持ちが強くなったり、いいものにしようとしていつまでも投稿を保留にしていると面倒になってきて、ついには忘れて、結局何も投稿しなくなっていったり。それはそれでいいんだけど、自分にとってはやっぱり、ラフで緩い居場所というのがあった方が、少なくともそれがあるって感じられることがたくさんあった方がいいなと思う。それから、内輪の閉じたコミュニティでは余計なことをしない方がいいな。せっかくそこで共有されている空気感があって、自分はそこに参加する方法も知ってるんだから。

僕はどうしても、何もしなければコミュニティの周辺にいて、というよりもそうしないと疲れてしまうから、好き好んでコミュニティの中心的な文脈と競争社会からなるべく降りるようにしていて、けれどもその気になればコミュニティの中心に自然に参加できるし、たまには参加していたい、できればささやかに参加し続けていたいっていう感覚がずっとあって、それに受け入れられ続けていないとなんか不安になってくるし、そういうところにこそモチベーションが生まれてくるようなところがある。その欲求が変な風に現れて、参加したいときに参加できて、しかも受け入れてくれるみたいなところがあるのに、それをぶち壊したりしないように、ちょうどいい形で参加できるようにしておかないと。

でも、同時にぶち壊したいみたいなところもあるから困っちゃうな。それってつまり、自分は文脈というものを客観的に理解していて、それを故意的に崩すことで見る人を自覚的にすることができるというような、誰かが言ってたアートの役割的なことが自分はできるって思っているっていうことでもある。いや、ほんとかよ。それでこそ哲学をしてる意味があるっていう気もするけれど、やっぱり壊す勇気がないし、そもそも自分の意図するところは伝わりそうになくて、「大丈夫? 嫌なことあった?」みたいに、ただ心配されて終わるだけな気もするから、なんとも難しい。心配してくれるなら、それはそれで嬉しんだけど。

昨日、2年振りくらいに投稿した『春』は自分にとっては、こうしてつらつらと思ったことをそのまま書いているよりも、自分が本当に思っていることにものすごく近くて、少なくともこうした長文よりかは簡潔に洗練された形で本質的なことを表せていると思っているけれど、こういった投稿は、たいてい人気がない。パッと見でよくわからず、しかもネガティブに見えるような投稿は、友人が言うところのパブリック・ポジティブじゃないから。チューリップの写真には、今年で一番いいねが来るくらいに良かったのにな。自分にとっては、チューリップと同じか、それ以上に重要なことなのに。

最初はインスタに投稿しようかと思ったけど、やっぱりやめた。せっかく最近、綺麗な印象の投稿ばかりだったのに、闇の印象を入れたくなかったから。少なくとも、まだ早いと思う。特に僕をそれほど知らない人にとっては、意味がわからないか、不愉快か、心配になるだけのものだから。そんなことを考えていることさえ、やっぱり自分への裏切りだと思う。「生きていることそれ自体が、自分への裏切りに感じる」というのは、もっと広い意味で、自分は理想を目指して生きているけれど、現実には永遠に理想にたどり着くことがないし、生きている限りにおいてそれを感じ続けることになるというようなこと。「記憶」のことは、いまの僕にはまだ語るだけの心を持ち合わせていない。

だからなるべく、考え尽くすことで考えないようにしたい、自分がいるという意識をなくしていたい、魔法にかかっていたい、誰かを信じていたいって思うのは自然な流れだと思うし、きっとこう思うよりも、もっと先のより豊かな感じ方や考え方があると思うんだけど、いまの僕にはまだわからない。

ある友人は『春』を読んで、大枠を理解してくれたけれど、それは彼が哲学をしているからで、たいていはそうはいかないことをよくわかってる。実際のところ、ハートはわずかなのだから。ハートをくれた人が、そういうことを感じないし、考えない人もいるけど、それを感じて生きるのは辛いよね、っていうことが本当の意味でわかってくれる人だったら嬉しいな。

こうして思っていることを、だらだらと書いているだけで少し心が楽になるような気がする。何か書こうとすると、いろんな言葉が空中に湧いてきて、掴もうとしてもするすると逃げてしまい、あまりにも後から後から溢れてくるから、それが何だったかも忘れてしまって、それが嫌だったりもするけれど、掴んだ言葉だけを頼りに少し落ち着くことができる。

ある先輩は単行本はすべて読んでいるくらいに村上春樹が好きらしく、おすすめをきいたらデビュー作の『風の歌を聴け』だというから、あの人のおすすめなら信用できるなと思って、村上春樹の成長を一冊で感じられると友人に勧められた『中国行きのスロウボート』と、短くていいと言われた『スプートニクの恋人』を脇において(スプートニクは少し読んだけれど、冒頭の大陸を横断する竜巻のような恋というかなりオーバーな形容に置いて行かれて、僕の方は本をそのまま置いて行った。)、図書館のは借りられていたし、デビュー作だったら記念碑的に持っていてもいいかなと思って、さっそく買い求めて読んでみると、これが拍子抜けするくらいに軽く読める。同じ作家でもこんなにも違うのかとも思うし、小説でもこんなんでいいんだと何か許されたような気分になった。

この一年は、アリス・マンローに感銘を受けて、僕も彼女のように洗練された文章が書きたいと思い過ぎた結果、日記以外は何も書けないみたいなことになっていたし、人目に付く場所では受け入れられるようなものを探して恐る恐る書くようなことばかりしていたから、なんだかほっとした。そっか、ただ、書きたいように書いたらいいんだ。別に気負う必要もないし、何か書いていれば、もしかするとその間に洗練されるかもしれない。そんな風に思って、久し振りにこんな風に書いている。

アリス・マンローのような美しい文章が書けるようになるのは、人生の最後だって構わない。それまでは、あまりにてきとうで肩の力が抜けすぎた文章を書いていたっていいし、真剣に書こうとするときでさえ無様に藻掻いていたって、人からおかしな人間だと思われようが、人生のすべてが掛かっていたって、自分で本当に美しいと思える言葉が見つかるなら、それでいいんだと思う。

ああ、こんなことをしていたら、休日が終わってしまう。日が落ちる前に少し、散歩でもしようかな。お腹空いたし、今日こそカフェに行くのもありかも。

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