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ギリシャ悲劇「オイディプス」の現代性:今も見えていないわたしたち
1.「テーバイ」を観てきた
新国立劇場で『テーバイ』を観てきた。
底本が『オイディプス王』『アンティゴネ』『コロノスのオイディプス』なので、面白くならないわけがない。
だが、今回、改めて、作品の内包するテーマの現代性に驚かされた。運命と自由意思、親しい人の他者性、家族愛と法律、個人と組織、苦悩の中の尊厳、そして知と無知のパラドックス、、、。
これが2500年前に書かれたのだ。ソフォクレスの天才に驚嘆するほかない。
2. オイディプスの葛藤と知のパラドックス
中でも印象的だったのはやはり、スフィンクスの謎(有名な「朝は四つ脚、昼は二本脚、夕は三本脚で歩く動物は」というあれ)を解き、英雄としてテーバイ王に迎えられたオイディプスが、真実を追求するあまり、避けようとしてきた神託(父を殺し母と結婚する)をそうと知らず実現してしまっていたことに気づき、自ら目を潰してしまうあのシーンだ。
人間の「知」が、かえってその「無知」を明らかにするパラドックスが示される中、いかに逃れようとしても、人の営みが自らは読み通すことのできない運命的な固定解へと収束していく様が描かれる。
(ちなみに、残酷なシーンはすべて舞台裏であっさり済む演出。そこが主題ではないことが明確になっていてよいと思いました)
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(This file is licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International license.)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oedipus_and_Sphinx,_pelike,_450-440_BC,_Berlin_F_2355,_141646.jpg
3. 連想(幼少期の記憶):ルービック・キューブと最適解
この「知のパラドックス」のシーンから蘇る一つの記憶がある。
幼少期のルービック・キューブの思い出である。
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Author: Booyabazooka)
小さい頃、ルービック・キューブが流行っていた。兄はそれが得意で、私が色をバラしたキューブを渡すと、目にも止まらぬ速さで6面を揃え、「ほい」と返してくれたものだ。手引き本を見ても2面揃えるのが精一杯だった私には、それは奇跡のように映った。
4. 結果としての「最適解」と人間の「物語解」
一方で、毎回おもに「崩す」役だった私は、ある発見もしていた。
ルービック・キューブは、完成した状態(6面の色が揃った状態)からごくわずかな手順でバラバラにできる。
本来ルービック・キューブは、この「バラバラにする手順」の逆手順を取れば、最短(毎回そうとは限らないがかなりそれに近い)手数で完成状態に戻せるはずなのだ。
例えば、私が7手で崩したルービック・キューブは、理論上、必ず7手以下でまた6面に戻せる。
しかし、兄は6面を完成させる時にこの「逆手順」を取ったことは一度としてなく、いつも「真ん中のセルを右側面から手前頂上面に動かす」といった「人間が認知できる物語」の連鎖によって6面を完成させたのだった。
つまり、人間には、結果としての最適解を脈絡もなく導き出すことは難しく、感覚的に意味のある物語をたどる必要があるのだ。
兄がその物語ベースの手順をあまりに高速で繰り出すので、それはほとんど神業のように見えた。しかし同時に私は、本当の神業は、人間には見出せないものの厳然と存在する、ある意味、神託のような「逆手順」の方かもしれない、と直感していたのだ。
5. 私たちは現代の神託を手に入れたのか?
コンピュータの出現以前、人はこの「人間には見出せない、結果としての最適解」を運命や神託と呼ぶほかなかった。
しかしコンピュータの出現により、「人間の認知の上でよい手筋であるかどうかに関係なく、あらゆる選択肢を総当たりして結果として最適解を見出す」アルゴリズムの実現が予測され、SFでは、AIが「人類のために」と提示する最適解を前に、納得できない人間の葛藤が描かれるようになる。
機械的な最適解と、人間の好む物語解の違い、それは、ルービック・キューブの論理上の最適解と、物語ベースの兄の解とパラレルのように見える。
では、コンピュータの処理速度が飛躍的に向上した今、人間はAIを通じて現実世界についての「最適解」、いわば現代の神託を手に入れたのだろうか?
6. ルービック・キューブと現実世界を分かつ三つの論点
AIの一般利用が急速に広がった今、それは近い将来手に入りそうに見えなくもない。
ただ、ここに、ルービック・キューブの最適解と現実世界の最適解を分かつ論点が、少なくとも3つはあると思う。(シロートなので抜け漏れ誤り、ご容赦くださいw)
1つ目:最適解が一義的に定まるか否か
ルービック・キューブは、「最適解」が一義的に定められる。
今ある状態から、最短で6面の色が揃う手順が最適だ。
そこに曖昧さや議論の余地はない。
これに対して、現実世界の「人々のために何が最適か」という問いには様々な解釈があり得る。
ほんの数百年前まで、「人々」には成人男性の貴族orブルジョワしか含まれなかったことを考えれば、「of the people, by the people, for the people」の具体化に何百通りもの解釈があることは明らかだ。
さらに、「求めるべき最適解は、人々のための最適解であってよいのか。それは、地球とか、宇宙とか、世界の最適解であるべきではないのか。」といった問いまで出てくると、もはや合意は不可能だろう。(そして、たとえ全人類が合意したと仮定しても、世界のごく一部にすぎない人類の考える最適解を実施してやろう、という考え方自体が、おこがましい、という話にもなるだろう。(人間の最適解を世界に適用しようという考えは、西部劇で横暴ほしいままにしているファミリーが、自分たちの最適解を他の人に押し付けるのとたぶん同じだw))
2つ目:要素が有限か無限か
ルービック・キューブの世界は、要素が限定されている。
そこには、3軸を中心に回転する9つのディスクの90度刻みの動きしかない。モデル上での計算と、実際のルービック・キューブの操作の間にズレは生じ得ない。
(温度が高すぎてキューブが溶けて操作ができなくなる、とか、子供が癇癪を起こして投げたらバラバラになってしまった、といった現実的な問題は考えなくてよい、純然たるゲームの世界なのだ。チェスや将棋なども、選択肢こそ多けれ、結局は有限の世界である)。
これに対して、現実世界ははるかに複雑である。
それも、要素が10個から100万個に増えたから大変だ、といった量的な話ではない。
問題は、仮に100万個の要素を特定して測定できるようにし、それぞれに判断基準を設定し、それに基づく「最適解」を算出できるようになったとしても、現実世界では、予想外の100万1個目の要素が現れ、「最適解」をかく乱する可能性が常にある、ということだ。
考慮できる要素の数をどれだけ増やしても、常に、それ以外の要素が、計算上の最適解を最適でなくしてしまう可能性がある。(シロートなので抜け漏れ誤り、ご容赦ください)
3つ目:人間中心主義(AIが優れた解を出したとしても従わないだろうという問題)
AIが、仮に、論点2の論理的不能はさておき、大多数の人間が合意する目的への機械的最適解を算出できたとしよう。
それでもなお、人間は自分の「物語的納得」に固執する可能性が高いように思う。
人間は、ルービック・キューブにおいてでさえ、機械的な最適解を示されたとしてもそれに従うことに違和感を覚え、「これに何の意味があるんだ」と感じたりする。
ましてや、自分の人生に関わる決断となればなおさらだ。
歴史を振り返っても、時代の転換期に、古い価値観で生まれ育った人が、新しい価値観を受け入れることを潔しとせず、敢えて破滅を選ぶような話は古今東西、枚挙にいとまがない。(そしてそれが美談として語られたりもする。)
そうした価値観の問題をさておいても、人類は、過去の戦争や虐待など、数知れない「非人道的」なことをしてきた実績十分なのだが、そんな「前科何万犯」の人類よりも、AIの方を恐れるのが人間なのだ。
7. 2500年前と変わらない人の意思決定の課題:相変わらず見えていない問題(定期)
とすれば、である。
AIがこれだけ進歩した現代においてもなお、私たちは複雑な現実世界の意思決定のために「最適解」を扱える段階には至っていず、限られた認知に基づく危うい土台の上に意思決定をしていることになるだろう。
その点では、ギリシャ時代と本質的にそう変わっていないのかもしれない。
「テーバイ」では、人間がそれぞれに偏った認知の上に「国家のため」「国民のため」として正義の物語を描こうとし、神託に抗おうとしたり、神託を解釈したり、千々に葛藤しながら、家族を失い、国を亡ぼしてしまう様が描かれる。
ソフォクレスから2500年。
私たちは、ここに何をプラス、あるいは何をマイナスできるのだろう。
*AIには普段とてもお世話になっているのですが、それでもふとした拍子にその不十分さに目がいくそのことも、人間中心主義の現れかもしれませんね。
もっとも、ここでは、この世のあらゆる要素をパラメータとして切り出すことが、人間とAIのいずれにも(もっというと全能を仮定された誰か以外には)不可能であろうことを論拠にAIが最適解を出せないと言っているので、人間中心の価値観をあれこれ並べてそれを論拠に「だから人間が優れている」とする議論ではないのですが。
(自動学習とはいっても、アルファからオメガまでの要素をAIが自動で発見して計算したとたん、オメガのもっと先に別の要素が現れる可能性を否定できない気がするので、誰がやっても無理な気がしている、、、でもこの辺は頭のいい人にしか分からない話そうだからそっとしておこう、、、)
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Gallery of Classical Art in Hostinné (Original: Lateran Museum, Rome)
(This file is licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International license.)
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