人生の輪っかが閉じる瞬間
人生を生きていると、ときどき人生の輪っかが閉じる瞬間がある。
数年前に撒いた種が芽を結び地上に出てくることがある。
数年前に種を撒いた時、僕は苦悩の中にいた。のだと思う。
何をやっても追ってくる影から逃げきれずに、本の中に救いを求めて日々をセピア色の紙の中に投影して生きていた。
あの時の僕は、わからないことが多すぎた。
全てをわかろうとしていたからだ。全てに全力で立ち向かい、そして傷ついていった。
その傷を癒すための空想や哲学の世界に逃げ込んだのだと思う。
そして、数年が経った。
僕も成長して、力を抜くことや悩みすぎても答えが見つからないことにふと気がついて飽きたのだと思う。
その時が、私の鬱抜けだった。
いつだったのかは明確には覚えていない。
けれど自分の中でふつふつと立ち昇っていた、とある感情が、弾けて消えた瞬間、私の鬱は、憂鬱な気持ちはまた私の奥底に影を潜めたのだった。
僕の好きな作家にヘッセがいる。
ヘッセの詩はあの時の僕にも今の僕にも響く。
きっとヘッセは彼なりに私と同じような気持ちを抱えて、そしてその憂鬱から抜け出したのだろう。そして以下の詩にその全てが現れている。
目標
つねに私は目標もなく歩きつづけた。
どこかで休息を得ようなどとは願いもしなかった。
私の道は終りのないもののように思われた。
最後に私は気がついた、自分がただぐるぐると同じ処を
へめぐっているに過ぎないことに。私はそんな遍歴に飽きた。
そしてその日が私の生の転換期となった。
今私はためらいながらも目標にむかって歩いている。
なぜならば途上いたるところに死が立っていて
私に手を差しのべているのを知っているから。
私も今ためらいながらも目標に向かって歩いている。憂鬱を経験し、自身の中の至る所に死の手が差し伸べられていることも自覚している。
その恐怖に怯えながらも私は歩く。苦悩の中で世界を旅する術を得たのだと思う。
旅する術はすなわちこうだ。 という彼のメッセージがある。
旅する術すべ
目あてもなしにさすらうことは青春のよろこびだ。
だがそのよろこびも青春と共に私から遠のいた。
それ以来目的と意志とが自覚されるや、
私はすぐさまその場を去った。
ただ目的だけを追いかけている眼には
さすらいの滋味はわからない。
あらゆる途上で待ちかまえている
森も流れもすべての美観も閉ざされたままだ。
これからは私もさすらう仕方を学ばなければならない、
瞬間の無垢なかがやきが
あこがれの星の前でも薄れないように。
旅する術はすなわちこうだ。
世界の輪舞に加わって共に身を隠し、
休息の時でもなお愛する遠方への途上にあること。
ただ目的だけを追いかけている眼にはさすらいの滋味はわからない。
あらゆる途上で待ちかまえている森も流れもすべての美観も閉ざされたままだ。という言葉に強く共感する自分がいる。
一度沈んでもがき苦しみ、そして立ち上がったことで見える事がある。
そしてそれは沈んだことのない人間には理解ができないものだ。断言できる。
幸せな彼らにはわからない事がある。
君にはわかるだろうか。人間として深みやおかしみのある人は、きっと孤独とどん底を知っていることを。
食うものがない苦しさ。住むところを追われる苦しさ。生きているだけで襲われる強烈な不安。君にはわかるだろうか。
そしてその感情と一生付き合っていくしかないことを。
僕は今幸福だ。心の中で燃え滾る情熱を綺麗に抑えて内側から、もっと内側から弱火で自分自身を動かす。
幸福
君が幸福を追求しているかぎり、
君は幸福者であり得るまでには熟していない。
たとえすべてのもっとも愛すベきものを君が持っているとしても。
君が失った物のことでなげいたり、
目的をいだいたり、せかせかしているかぎり、
君にはまだ心の平和の何であるかは解らない。
君があらゆる望みを捨て、
もはや目的も要求も知らず、
幸福のことなどを口にしなくなった時、
その時初めて事件の波はもう君には届かなくなり、
君の魂が初めて憩う。
私はあらゆるものを持っている。そう信じ生きる。
私はあらゆるものをすでに持っている。俗な望みなどない。ただ目の前で人が生き、死にゆくだけだ。その輪廻の中に私も身を委ねている。
今日も明日も生きて行こう。死んでしまうその日まで。
それではさらばだ。私の中の憂鬱よ。
私の底に沈め。沈んでしまえ。そして一生立ち上がることなく生涯を終えよ。
君のおかげで世界を知ることが出来た。さらばだ憂鬱よ。追ってくる影を振り切る力を得た私には、私の心には、もう黒い風は吹かないでしょう。平和でありますように!さらばだ過去の私と僕!