見出し画像

父の記憶③:「医は仁術」と耳のタコ

関西地方で開業していた医師の父。
私も自分の意思で、医師の道を選んだ。
父は私が医師になってほどなく認知症となり、私は父から直接医師としてほとんど教えを受けることができなかった。
それでも今、私は父と同じような道を歩んでいる。

私が父から受けた影響は、幼い頃から「医者の娘」としての生活で無意識にすりこまれていたようだ。
自宅兼診療所では、常に患者さんからの電話がかかってくる。
住宅地の真ん中に位置していた診療所。
車で外出した父が帰宅した瞬間に、自宅の電話が鳴る。
相手は不安神経症の患者さんのことが多かったが、「外から見張られているんだな」と息苦しく感じたことを覚えている。

夜中も患者さんからの電話が鳴り続けることがあった。
父だけでなく私たち家族もしばしば安眠を妨害された。
寝ぼけ眼をこすりながら、下階の診療所へ降りていく父。
彼は私たちを前に文句も言わず、事務員もいない診療所で一人、診察しカルテを書いて処方薬を調剤して患者に渡していた。
一人で診療所を24時間守るのがどんなに大変なことか、私たち家族の身に沁みていた。
仕事が好きじゃなきゃ続かない。

左が父の形見の聴診器。右は私が以前使っていたもの

学生時代の実習用に、と貰った父のおさがりの聴診器。
今はもう使っていないが、大事な形見となっている。

母がよく話していた。
「パパの耳にはタコができているのよ」
通常「耳にタコができる」とは、同じ話を聞かされてうんざりする様子を表す慣用句。
ところが父の耳には、本当にタコができていた。
原因は当時の聴診器。
耳にあたる部分が固いプラスチックでできていた。

父の時代の聴診器は固いプラスチック製。今は柔らかいゴム製

昔は検査が限られていた時代。
医師は問診し、五感を働かせ診断していた。
患者さん一人一人の胸に聴診器を当て、患者の音を聞く。
その結果が「耳のタコ」だ。
当時の聴診器は固くて、とてもじゃないけれど痛くて長時間付けていられない。
痛いながらも使用しているうちにタコができたんだろう。
現在の聴診器は付け心地がよく、耳にタコができることはほとんどない。
父が仕事好きだったエピソードの一つだ。

また、父は外来の時間の合間をぬって往診に出かけていた。
疲れていたのだろうか、父は患者さんの家のこたつで居眠りしてしまったことがある。
そんな父を、患者さん達は笑って許してくれていた。

理由は忘れたが、父が不在の日に何度か代診したことがある。
私はまだ30代。急性期病院で働き、診療所での診療は初めてだった。
多くの患者さんは娘の私に「お父さんのようになってね」「この診療所を継いでね」と笑顔で声をかけてくれた。
父が築く強固な医師-患者関係を私はそこで体感した。
その世界は温かく「地域のために働くってこういうことなんだな」と思ったことを覚えている。

父の認知症が進み、医師としての教えを乞うことができずにいたある日、実家で一枚の記事を見つけた。
実家近くの総合病院が2004年に発行した医院・診療所便り。
父の診療所が紹介されていた。

2004年の診療所便り

10年ほど前の父が書いた記事。
ボケる前の父が、医師としての考えを記していた。

私はずっと、大きな組織を持つ病院と同じ発想、同じ手法で医者をしてもダメだ、生きてゆけない、と思ってきました。末端の医者として個々の患者さんと心を分かち、日々の満足をお土産にできたら最高でないかと思ってきました。
今は神経症の時代です。時代を反映して混乱した患者さんの話は長く、完全な対応はできません。しかし及ばずながら努力だけはしなくてはならない。普段着の医者をモットーに、患者さんと同じ目線、自然体で仕事は続けてゆきたいと思っています。

父の記事から抜粋

ああ、そういうことだったんだ。
読みながら、涙が出た。
父は旧帝大を卒業後、大学病院などで働いた後に30代で開業した。
白衣を着ない医者だった。
夜遅くまで、電話で、患者さんの話を聞き続けていた父の姿。
私の幼い頃、当たり前の光景だった。
「医者はこういうものだよ」
父は背中で教えてくれていたんだね。
父の想いに触れることができ、とても嬉しかった。

「医は仁術」という格言がある。
「医の道は、身体の病気を治すだけでなく、人を思いやり仁愛の徳を施すことである」という意味だ。
病気だけしか診ず患者さん自身を癒せない医者は、医者でない。
記事の向こうから、父がそう言っている気がした。

父は常に、患者と同じ目線だった。
医療ミスで病院が叩かれてた時代、父に聞いたことがある。
「自分が医療ミスを起こしたらどうするの?」
父は「ごめんなさい、って頭下げるかな」とさらっと答えた。
私たちはその時そんなものか~と思ったが、考えたらプライドの高い医師が頭を下げるってなかなかできないことだ。
頭の下げられない医師が逃げ回り、訴訟となる姿を何度か目にした。
患者と真摯に向き合い、一生懸命対応してもダメだった時は謝罪する。
医師としてという以前に一人の人として、大事なことだと思う。


「もずきち先生の患者さん、みんな話が長いですね」
診療所のスタッフからよく、あきれ顔で言われる。
皆長い待ち時間を我慢し、順番を待ってくれている。
「でも、皆楽しそうなんですよ。診察室から出ていく時。」
やった、と私は思う。
明らかに私は、父の遺伝子を受け継いでいる。

父が働いていた時より、人はさらに生きづらい時代となった。
単純に結婚して子供を育てれば幸せになれる時代は終わり、何が正解か分からない人生を不安を抱えながら歩まなければならなくなった。
人同士の心の触れ合いが減り、孤独が心を蝕み、デジタル社会に翻弄され、人は心の健康を保つことが難しくなっている。

医療の現場でも、医学が発展し病気の治療技術が格段に上がった一方で、「医は仁術」という考えが失われつつある。
病気だけを診て「はい、終わり」だ。
医療に関する情報が世に溢れ、人々は混乱する。
悩み苦しむ患者の話は長い。
話の長い患者は、忙しい医療現場では時間の無駄と敬遠される。

でも、体だけでなく心の苦しみも和らげるのが医療職の本来の役割だと思うのだ。
AIがまだまだ苦手な「人の心」。
「おまえは病気だけでなく、人の心を理解し癒せる、良き医師を目指しなさい」と、空の父が私に語りかけているような気がする。

かつて私は「医者の娘」といわれるのが大嫌いだった。
そこには妬みやっかみが含まれていたから。
今は「医者の娘」で良かったと思っている。
父からとても大切なことを学べたから。

父への供養として、これらの記事を天の父に捧げたい。
ここまで読んでくれて、ありがとう。

この記事が参加している募集