問題は投票率の低さだけではないという話(雑記)

投票に行く日取りを決めよう決めようと思って気づいたら寝る時間になっていた。

ネットの声としては「候補の全てをみて、自分の意見に合うマニフェストがなくても投票には行くべき。」「棄権はだめ」という意見が多いようだ。

あの外山恒一は選挙を「多数派のお祭り」と呼んだ。いかにも国家転覆を叫んだ外山恒一らしいというか、無政府主義らしいというかなのだけど、わたしはこの言葉が結構好きだ。選挙の本質…というか、民主主義の本質をついていると思う。

これは「どうせ現与党が勝つんだからやっても意味ない」ということではない。

そもそも選挙というものが国政の庇護下にある多数派のためのものであり、現行の国による統治を是としないマイノリティにとってはやるだけ無駄なのだ。

ということだとわたしは解釈している。

さすがにそこまでニヒリズムなことは思わないけど、「投票に行こう!」とだけ唱え続けるのはより酷い冷笑主義的態度(シニシズム)を生むようにも思われる。

「真剣に選んで投票した政治家と政党だけど、大して発言力も議席もないじゃん。どうせ与党の思いどおりになるんだろうな。投票の結果だから仕方ないか…」

と。

投票に行くことはもちろん大切だけど、選挙のあとのことも同じくらい大切だ。

 投票した党が議席を多く得たところで世の中はすぐには変わらない。その活動の方針がマニフェスト通りか、声をあげるべきときに声をあげているか、うわべばかりではなく問題への行動はしているか、それらを確認……言い方が悪いけど「監視」し続けるのは市民の役割だろう。

そのなかでそれぞれの抱えるマイノリティが少しでも生きやすい方向へ向かうようわたしたちが政治に要望し、声をあげていくことは選挙に参加することと同じくらい大切ではないだろうか。

選挙(多数決)は民主主義の必要条件だが十分条件ではない。話し合いにより多数決と少数派の妥協点を探っていくことのほうが何倍も重要な政治活動であって、そのためには投票と監視をセットで考えるべきではないか。



「国政に関心を持ち、選挙に参加する人々=市民」で、「それ以外=大衆」だ。

「どの党も終わってる。投票しても意味ない」

というのであれば、いっそ外山恒一みたいに無政府主義者になるのもいいかもしれない。

ただ、虚無主義に陥るのは、やることをやってからでも遅くはないとわたしは思う。

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