(恋詩)について

現代詩とポエムを分けて考えるとき、その違いはなんなのか。

わたしはずっと昔から、へんな文章を書くのが好きだった。はじめてひとに読んでもらい始めたのは高校生の頃で、とくに覚えているのは「芋」についての文章だった。雑文、としかいえないのだけど、それを読んだ人からはただただ意味がわからなくて面白いといわれた。

わたしにとって、小説も随筆も詩もぜんぶひっくるめてそのころから変わらない「意味がわからない面白い」文章だ。わかるわからない、とかじゃなくて、なにか面白い、なにか変だ、と思ってもらえたほうが嬉しい。理解。を越えてそのひとの真ん中に突き刺さった気がして。

とにかく、へんな文章をつくって、ひとに読んでもらって、熱中させることに、熱中してきた。

つい最近までは、犬をモチーフに、言葉を並べてきた。年が明けて、今年は現代詩のスタイルで「恋愛詩」を作ろうと思った。日常のことや個人的なことをことばを選んで綴ることが、ポエムだなんだと軽視されるのであれば、書き捨てられないことばで、ことばのためのことばで、恋愛をうたってみようと思った。そうすることで、新しいものが作れるかもしれないと思った。

この世界に恋をすることは、人間が生きるための最低限の条件だ。とくに現代において、わたしたちはいつでも虚無や孤独に顔をつきあわせることになる。人生をひとつの映画に喩えるなら、わたしたちはそのなかの登場人物だ。もしも自分が、130分のなかで消えてしまう使い捨ての命なのだと気づいたら……わたしたちは、そのことよりも、いまここに生きていることに気づかなければいけない。外側から世界をみて絶望するよりも、内側でこの世界に恋をしつづけて、死ぬまで生きつづけなければいけない。

だからわたしは、恋を書くことにした。熱中することを、たのしく、面白く、無意味ではなく意味不の方向で、作り続けてみようと思った。


そんな、(こいし)を、しばらくは続けてみようと思います。よろしくお願いします。


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