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南田貞一さん「詫び」(感想)

十年以上前、町田康さんが日本近代文学館の講演会で話していたことを思い出した(複数の作家が登壇しており、講演会のタイトルは『文学・「土地」の力』だった)。

ことばっていうのは、脳みそのなかのぐちゃぐちゃなものを、まともな形にして取り出す。

太字部分は、本当はもっと過激な表現をしていた。)

ほんとうにそうであるなら、詩を書くということはなんなのだろう。

頭のなかのものを、体そのものの記憶を、ぐちゃぐちゃなままに、カオスのままに取り出すために用いるとき、言語表現は詩の形をとるのだろうか。

その過程ではきっと「通常の構文」「辞書通りのことばの用法」どころか「文学的修辞や文学的なことば(文学っぽさ)」も役に立たないのだろう。


特に印象に残った作品について。

「憬、さ、ら、ち」はおそらくだがこの詩集「詫び」の製作そのものに関連する作品であり、印刷や製本に関する語句が多く登場する。「リュウミンProM」「クラシックリネン雪70.5kg」「K70%」などの用語が詩の中でつかわれることは珍しい。

今まで詩に用いられてこなかった新しい語句を詩に取り入れることは、大きな意味と価値があると思う。

宮沢賢治が「春と修羅」で科学のことばを詩に取り込んで見事に抒情に昇華させたように、それらはもはや専門の用語ではなく、記憶や経験を吸収した詩のことばとして作用する。そのときことばは、作者の意図を媒介するためのメディウムとしてではなく、記憶そのものを閉じ込めた媒体として、そこに配置され、イメージを喚起する。

「こころ、に、うつる憬ヲ/それぞれ/もつてゐる」(P8)から母との記憶が散文形式で喚び起こされる箇所は、この「詫び」という作品のクライマックスだ。

雪、詫び、文字。

ことばがひとの手を離れ、ことばそのものの記憶があふれ出している詩は、ほんとうにうつくしい。


「午前9時」
の完成度はすさまじく、読みながら圧倒されてしまう。監視カメラというひとつの画角のなかで事実が淡々と進んでいくが、そこに神話的語りが入り混じることで、虚実の絶妙な隙間に落っこちてしまう。わたしは落っこちてしまった。この詩で描かれているすべての土地を知っているから、という理由もあるのかもしれない(私はここで描かれる土地に現在住んでいる)。画角を限定すること、固有の土地名を挙げることで、虚と実の入り混じったリアリティを鮮明にする。そこで上演される古(いにしえ)の神話はもはや古ではなく、現代のできごと(詩のなかの登場人物たち)と入り交じり、再生している。


「モリシンソウ」
という作品からは、いたるところから湿った土と木の皮のにおいがする。静寂のなかに、あきらかに植物の呼吸が聴こえる。森々とした視界のなかでは一人称も二人称も役に立たず、曖昧ないのちのグラデーションのなかに取り込まれる。

「わたしたちは森だったころがある。」(p.22)から始まるこの詩は、生命同士の距離を皮膚感覚でとらえている。「わたし」も森であり「あなた」も森であり、ふたつが隣接するのであれば、どこからが「わたし」であり、どこからが「あなた」であるのか。樹海に迷い込むように読んだ。





装幀についても、わたしは素人だけれど、述べておきたい。

表紙に用いられている紙は前述の「クラシックリネン雪70.5kg」というものらしく収録作である「憬、さ、ら、ち」「冬邑」を貫くイメージである「雪」につながる。持ったときの硬質な手触りがしっかりとしながら軽く、詩の読み応えを無意識に支えてくれる。読みながら世界観に浸かれる、シンプルだが考えられたデザインだと思う。

今回詩集を読ませていただくなかで、詩集を編む身でありながら、いままで装幀についてまったくの無関心であったことを痛感した。

詩集にとっての装幀とは"デザインdesign"のみをさすのではなく、混沌としたことばたちの集合に確固とした枠組みを指定し、そこに固定するための"デザイネイトdesignate"の意味も持つのかもしれない。

そんなことを考えさせられた一冊だった。





南田貞一さんのXはこちらです。

ドキュメンタリー詩誌「詩あ」創刊予定とのことです。

なんと連載陣が超豪華……!!!(石松佳さん!? 杉本真維子さん!? 山﨑修平さん!?)寄稿される方々もすごいです。

すっごく楽しみにしております。

nostalghiaでした。




nostalghia(のすたるじあ)

e-mail/nostalghia2020@gmail.com

X/@nostalghia2020


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