記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

範宙遊泳「心の声など聞こえるか」感想

戯曲は観劇した後にkindleで見つけて読んだ。嬉しい。


イタかった。序盤はとにかく。範宙の作品を生で見るのは本当に久しぶりで、前回の「バナナの花は食べられる」は配信映像を見た。生で見て気づいたのは、配信だとそのイタさから目を背けられるということだった。自宅なら、適宜目を背けたり、乾いた笑いでリアクションが出来る。だけど劇場だとそうはいかない。どうしようもなく目の前にあるし、笑おうにも、そのイタさが微妙なテンションで、笑おうか笑うまいか迷ってる間に次が来るのだ。困る。困った。たぶん周りもそうだったと思う。あのイタさをどう受け止めようかという困惑で、場が緊張していた。異様だった。でも面白かったのは、その剥き出しにされた人々のイタさが、丁寧に散りばめられた伏線でもあったことだった。『あぁ、そういう、演劇ね』と無理やり定義付けして意味を見出そうとしていたものが、ちゃんとキャラクターの一部であり、ドラマであり、シナリオの意義だった。そしてその『してやられた』カタルシスが、とても面白かった。

というか(劇団では)最後の演出だったのに、映像を一切使ってなくてビビった。SNSのシーンとか、携帯で録画するシーンとか、リンクさせた映像を使おうと思えばいくらでも使えたはずなのに、なかった。奇抜な映像が持ち味の劇団とはもはや評せない、全く違うステージに行ったんだなと思った。でもそれでいて不思議と、変わってしまったんだなぁっていう切なさみたいなものはなかった。作家としての強度がある限り、この劇団の持ち味は変わらないのだろう。ただ演出の手法が変わっただけ。それは最後の演出にして、なんというか、これからの創作姿勢を裏付ける挑戦力のようなものに思えた。



3・4夫婦の話。序盤は『なぜ夫は妻を見捨てないのだろう』と気になっていた。夫が過去に何か失敗していると示唆された時、その頃に支えてもらったのだろうか、一種の弱みから妻と一緒にいることを選んでいるのだろうか、と考えていた。しかし妻の様子に気まずそうなツッコミは入れるものの、妻のこだわりのやり方に対する嫌悪感みたいなものは見えてこないのだ。粛々と従う様は、あくまでも一定の理解を示していることを感じさせた。そしてそのやり方に免疫のない1・2に対しては、軋轢を回避するように説明してあげる役割をも担っていた。なぜそこまで献身的になれるのか、妻を守れるのか、それが愛だとでもいうのか、不思議だった。

終盤、実はこの夫も正気ではなかったことが明かされる。「病院に行こう」とまで妻の状態を客観的に捉えていた夫も、己の狂気に呑まれていたのだ。彼が語りかけていた"観客"は私達ではなく、彼自身の世界の中の観客だったのだ。そう理解した時、彼の妻に対する愛が、意味を持って腑に落ちた気がした。自身の内にある危うさを(無自覚ながらも)自覚していたからこそ、彼は妻の危うさを受け止めることが出来ていたのではないだろうか。どちらか一方ではなく、お互いにお互いの危うさを理解し、支え合い、愛した。だからこそ、例え愛の言葉が声にならなくても、きちんとそれは届いていた。歪に思えた夫婦が、最終的には何よりも純粋な関係に見えたことに、感動してしまった。



1・2夫婦の話。2が1に抱いていた誤解は、妊娠の話で流れ、恐らくあのまま消滅することになるのだろう。隣人は星になったので、わざわざその後に問いただすこともしないはず。もしかしたら何十年後、「あの時はこう思っていたんだ」と、2が笑いながら打ち明けたりして、2人にとってなんてことのない笑い話として済まされるのかもしれない。

あの時正直に話していれば、すぐに誤解は解けて、2の苦しみは少なくなっていたかもしれない。しかし、それによって新たな問題を生んでいたかもしれない。裏垢を監視し、あの日出会ったパパラッチでさえも敵とみなす、疑い深い夫。信用されていない妻。解決したように見せて、その後もずるずると尾を引く出来事になっていたかもしれない。全て可能性の話であり、結果論として言わなかっただけではあるけど、時に『自分が楽になりたいだけの言葉』は、言わなくてもいいのかもしれないと思った。もやもやとする気持ちが破裂しそうになっても、内に秘して飲み込んでおけば、いつか『あの時傷つけなくて良かった』と思う日がくるのではないだろうか。



SNS(主にTwitter)に対する個人的な話。SNS=『面と向かって話せない本音を言う場所』という認識が少なからず広まっていることに、いつからかずっと困惑しているような気がする。昔、友人が「私のタイムラインには選挙の話をしている人がいない。どうしてもっと関心を持たないのか」とツイートをしていたことを忘れられずにいる。つぶやかないこと=無いことにされる、という認識に驚いたのだ。君の見ている世界は、Twitterのタイムラインで構成されているのか。そうなのか。まじか。という驚きだった。私がSNSに書くことは、本心であっても私を構成する全てではない。

思ったことをつぶやかないのは、自身の心の声を無視することと同等、というような思考とも相容れない。そして友人だとしても、鍵垢のような人の本音を覗けるような状況が怖い。遠慮のない、剥き出しの言葉が怖いのだ。醜い部分を見たくないということではない。ただ、攻撃性への自覚を捨てた言葉を、恐ろしいと思う。と、そんなことをうじうじ考えながらネット社会に生きている。



1・3の話。話せてスッキリした3に、あっ話せてスッキリしたんだ、と思った(構文)。(宗教勧誘における)自身の提案を通すための高度な話術のようにも思えたが、1が3の話をどう受け止めたか、における深堀りをしない3の姿になんだか驚いたのだ。1は3の話に対して、ツッコミを入れながらも、遮らずに最後まで話を聞いた。そこでもう、1と3のコミュニケーションが成立したのかもしれないと思った。信じるという不確定な心の動きに確証はいらない。話したいと思っていたことを全て話して、その上で信じてくれることを信じることに決めたのだ。だからそのまま、3はこの地球を1に託して、星になった。

(気になって考えてること)
星になることを選んだのは、『シリウス星の考えを広める』という任務が終了したから、なのだろうか。ただ、パパラッチに明日家に来るよう執拗にアピールしていたのは夫の方で、あの日1に話をするよう提案したのも夫だった。縄を用意したのも戯曲上だと夫なのだが、「はやく楽になりたい」と呟く妻の声は聞こえていなかったはず。2人はどこまで計画的でいつから同意済みで、どうしてあの日だったのだろう。



心の声など聞こえるものか。

聞こえちゃう時もあるし、
思ってないから聞こえないこともあるし、
聞こえたと思ってもそれが自分の声だったりする。

はっきり声に出しても聞き取りづらい時はあるし、
聞こえないことは言わなかったことになるし、
それぞれの解釈が異なれば違う言葉になる。

そしてSNSにも流さない本音が、
ぽろっと聞こえることもある。

観客にとってはたった2時間でも、あの4人にとっては、積み重ねた年月のとある1日の出来事。 かちっと何かがはまった瞬間を目撃しただけの。

そんな瞬間を聞き逃さないために、
自分もアンテナを張る努力が出来たらいいなと思った。


U-NEXTにある初演版も、いずれ見たい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?