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#95.【印欧語 故郷探訪#2】黎明期

今回考察する印欧祖語研究を取り巻く時代の流れ:

1786年 ウィリアム・ジョーンズの発表
1822年 グリムの法則 発表
1800年代
 ピクテ(1799-1875年)
 ベンファイ(1809-1881年)
  ヴェーダ語研究
 ラーツァルス・ガイガー(1829-1870年)
1872年 ソシュールの試論
1870年代
 ドイツ帝国成立・ロマン主義
 サンスクリット万能時代の終わり
 ソシュール(1857-1913年)
 アンドレアス(1846-1931年)
  アヴェスター語研究
1883年 ペンカ「アーリア人の起源」
1900年代
 カール・ブルークマン(1887-1919年)
  サンスクリット研究
1908年 トカラ語 解読
1915年 ヒッタイト語 解読


印欧祖語故郷①バクトリア説

提唱者:アドルフ・ピクテ(1799-1875年)スイスの言語学者で『印欧語の起源』の著者。ソシュールは14歳のとき、72,3歳だったピクテに「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に集約するための試論」(1872年)を書き送った。 この論文ではサンスクリットに言及がなかったので、ピクテはソシュールにサンスクリットを研究するように助言した。

論拠:ヤーコプ・グリム(1785-1863年)によると「人間は北へ行くほど夏と冬の2つの季節しかもたず、南に行くにつれ3,4,5と増える」が、印欧祖語は冬と春と夏の3つの季節を持っているので、古代のバクトリアが最もよく合致する。

バクトリアの位置

印欧祖語故郷②ヨーロッパ説

提唱者:テーオドール・ベンファイ(1809-1881年)ドイツの言語学者で東洋学者。 サンスクリット研究者で彼によるサンスクリット辞書も多い。インド説話集『パンチャタントラ』を翻訳し、世界の各地の説話と比較した。

論拠:ライオンを指す語がサンスクリットでは[सिंह siṃhá] と他の言語から孤立している。(再建されている印欧祖語 *sinǵʰós は中央アジアの何らかの基層言語ー威信の低い方の言語ーからの借用と考えられる) 一方、ヨーロッパ言語ではセム語からの借用 [Akkadian 𒌨 (labbu) ← Proto-Semitic *labiʾ-] と見られる。東西両方で借用語である。と言うことは、印欧祖語の故郷にはライオンがいなかった。つまりライオンの生息地である小アジアやインドが故郷と言うことはあり得ない。


問題点:当時(1870-80年代)はまだインド学の黎明期で、「印欧語」として再発見されたサンスクリットが古代の謎を解くのに万能の資料だと言う風潮があった。ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。いずれの説も独断的で思いつき的な傾向がある。

実際には、サンスクリットの文法が規定された時期にはすでに各地方でプラークリット[口語]が用いられており、そのプラークリットからの借用もサンスクリットには認められるし、ドラヴィダ諸語やオーストロアジア諸語が起源の語彙もある。

ベンファイがサンスクリットの起源であるヴェーダ語の研究をしたのは晩年のこと。また、パフラヴィー語研究で功績のあるフリードリッヒ・カール・アンドレアスの研究に基づきヴェーダ語と酷似するアヴェスター語の研究が進むのも、あるいは、小アジアで印欧語の痕跡が解明されるのもまだ先の1900年代に入ってからのことであった。

いずれの説もあまり注目を集めることはなかったが、印欧祖語の故郷はどこかを考える大きな刺激として1800年代末〜1900年代初頭にかけて、次世代の説が登場する下地を据えていた。印欧祖語の研究が、インドを植民地化しパクス・ブリタニカを謳歌していたイギリスではなく、ドイツで進んでいたのはなぜだろう。ラテン語・ギリシャ語研究の歴史があったところへ、ドイツ帝国の成立(1871年)という民族意識高揚が比較言語学の発展に拍車をかけたと言う背景があったためと思われる。どんな国家も建国神話を欲しがるもので、それを科学的な(と思われる)方法でバックアップする理論がもてはやされるのだろう。

そのような気運の中、「ブナ」に注目して印欧語の故郷が中央ヨーロッパのドイツにあるのではという、ドイツの文献学者ガイガーが指摘した説が注目されていく。ガイガーは「色の細分化は常に同じ階層に従う」つまり「黒(暗)・白(明)→赤→黄・緑→青」の順に色彩に関する語彙が細分化(語彙が分かれて増えていく)ことを初めて提唱した言語学者だ。彼は世界各地の文献を調査し、古い時代の経典に「青」という色を示す記述が存在しないことを確認したらしい。ピクテとソシュールの中間の世代の人物のようだが、早くに亡くなったようだ。しかし彼の論文から着想を得た「ブナ問題」はその後のドイツと世界を大きな波へと突き動かして行くことになる。

次回は大きな論争を呼んだ、その「ブナ問題」について。

出典:
印欧語の故郷を探る (岩波新書)

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