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#132.【印欧語 故郷探訪#4】アーリヤとは

印欧祖語話者集団の故郷が「どこ」だったのかという地理的な論題は、「どんな人種」だったのかという関心に発展する。

人種に関する当時の思想背景はというと、1700年代後半から、人類を分類する様々な概念が提唱されていた。「コーカシア(白色人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒色人種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種)」の5種に分類する方法や、「コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイド(あるいはさらにオーストラロイド)」に分類する方法である。

ヨーロッパ人はノアの箱船でコーカサス地方に辿り着いた人々の子孫ということでで、コーカソイドと定義された。ノアの大洪水の物語通り洪水後の人類がコーカサス地方に辿りついた集団から出たのなら、全人類がコーカソイドのはずだとも言える気がするが、この説の背後には白い肌の人々が最も美しくすべての人間集団の「基本形」で、他の4つの人類集団はそれから「退化」したものだ、ゆえに原形をとどめている肌白人種のみがコーカソイドだとの考えがあったようだ。(-Wikipedia 『人種』)

続く1800年代後半という時代は、そのような風潮があったところに、ダーウィンの進化論の発表や、それに遺伝学を当てはめた優生学が興隆していく時期だ。このような考え方が言語の起源を考える上でも影響した。

その筆頭に挙げられるのは、オーストリアの人類学者・文献学者のカール・ペンカー(1847-1912年)である。1883年に「アーリア人の起源」を出版した。それによると、『中央ヨーロッパに人類の統一的祖先は生きていた。長頭・金髪・肌白が人種の純粋形である。しかし氷河期が来るとみなアジア・アフリカ・アメリカへと逃げ出し、各地で「有色人種」へと「劣化」した。一方、その土地から離れずに厳しい環境に耐え、「原形」を維持した人種がヨーロッパ人であり、その故郷はスカンジナビア半島である』とのことだ。しかし、印欧語族に属するが、短頭・黒髪・肌黒の人種はどう存在するようになったかという点が論じられていないように思う。「コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド」の人種の区分でもインド系がどうなのかがボヤっとしている。

ペンカーは原印欧語の人種を「アーリア人」と呼んだ。ピクテもこの語を使った。それは、印欧言語の最も古い形がサンスクリットだという当時の誤解のある風潮に基づいているようだ。アーリア人という名称は、サンスクリットやヴェーダ語、またアヴェスター語や古代ペルシャ語で、自分たちのことを指して使った「高貴な」を意味する語 ārya に由来する。

サンスクリットが印欧人の言語的基本形を維持しており、そこで我々集団のことを「アーリヤ」と呼んだのだから、印欧人の人種的基本形を維持している我々は「アーリヤ」なのだ、ということらしい。しかし、本来の「ārya」という語は何を意味していたのだろう。人種・身体的特徴のことを意味する余地はあるのだろうか。以下は独自の意見だが「アーリヤ」という語について考察を試みてみる。

インド語派での「アーリヤ」
サンスクリットには आर्य (ārya) 「高貴な」に対して「低俗な」を意味する अनार्य (anārya) という語がある。字義的には non-Aryan ということだが、「低俗な、ヴェーダを習得していない」というニュアンスが含まれていた。ヴェーダ期からの身分制度にヴァルナ(種姓)がある。そこでは、ヴェーダの学習を始めることが第二の誕生とされ、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャはそれができるという意味で「再生族」だったが、ヴェーダを学ぶことが許されていない、つまり一度だけの物理的な誕生しかないシュードラは「一生族」とされた。このシュードラの起源は、被征服民だったとされる。この単純化された説明も実は検証の余地が多分にあるのだが、いずれにしても、西方からヒンドゥスターン平原にヴェーダと共に侵入してきた集団をआर्य (ārya) と呼んだことは確実だと思われる。そして आर्य (ārya) の意味は「ヴェーダ教育を受けた高尚な者たち」というニュアンスであった。

注目すべき点として आर्य (ārya) が「肌白・碧眼」の人種を指していたという証拠は見られない。中央アジアに近い北インドでは、何千年という間にインド亜大陸を出入りした様々な民族が入り混じった。アレクサンドロス大王の遠征後に、ギリシャ人の王族が支配したインド・グリーク朝(紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃)という時代もあった。それもあってか、確かに北インドの人種的特徴は南インドに比べヨーロッパ人に近いものがある。しかしそれを根拠に、イラン高原から入って来たアーリヤ人は肌白・碧眼のヨーロッパ人だったと単純に言うことはできない。

イラン語派での「アーリヤ」
ārya と言う語はイラン語派にも共通している。「アーリヤ」という言葉が使われている古代ペルシャ語の単語がある。それは名前の一部で、その名前とは「アリオバルザネス」である。「アリオ」の部分が「アーリヤ」である。Ariobarzanes はギリシャ語風の綴りで、検索するとヘレニズム時代の王の名前として幾人か出てくるが、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~紀元前330年)の貴族の名前だ。フリュギアの太守(活躍期 紀元前407年~紀元前362年)や、アレクサンドロス大王に最後まで抵抗した将軍(活躍期 紀元前331年~紀元前330年)の名前として出ている。

Ariobarzanes の楔形文字の綴りを探したかったがみつからなかった。ペルシャ帝国の記録よりも、ギリシャ語や周辺言語での記録が残っているということだろうか。古代ペルシャ語の再建形は *Aryābr̥zaⁿs で意味を分解すると ariya “nobles, Iranians” +‎ *br̥zans “high, exalted” つまり 'exalting the Aryans' となる。アリオバルザネスの後半、バルネザスの部分の語根、*br̥zans はペルシャ語の بلند (boland) ヒンディー語の बुलंद (buland) につながっている。物理的な高低というより、「高らか」に歌うようなニュアンスがある。

同じ王朝の王の名前、「クセルクセス」 xšyarša は “ruler among kings” 「王たちの王」という意味がある(ちなみにクセルクセスのペルシャ語読み「クシャヤルシャ」と「クシャトリヤ」は同語源である)ので、「アリオバルザネス」は 「高貴な者の中の高貴な者」 という意味という可能性もあったのだろうか、と個人的には思うのだが、「アーリヤ人を擁護する者」という解釈の方が一般的なようだ。

ペルシャ帝国の王子や太守で Ariomardus という名もあるようだが、その意味は "honorable man" つまり「英雄」とのことのようで、この場合 Ario- は「高貴な」を意味するだけの名づけの接頭辞であって、特に民族として「アーリア人」という意味を強調していたわけではないようだ。紀元前1世紀のゲルマン人にも Ario- とつく名前があるようだ。ガリア戦争でガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と対決したアリオウィストゥス(Ariovistus)である。Arya という語の印欧祖語は *h₂eryos と再建されていて、ゲルマン祖語 *arjaz、ケルト祖語 *aryos と想定されている。ガリア語(ゴール語)で arios は「freeman, lord」を意味し、アイルランド語で aire は「長・大臣」を意味するようで、「集団の中での高い地位」という意味への繋がりを感じさせる。しかし、ゲルマン語では上記のアリオウィストゥスの接頭辞として使われている以外の例はみられないので、印欧祖語の古くから自らの集団を指す語として *h₂eryos という語が使われていた可能性はないだろう。

ではペルシャ帝国の時代には「アーリヤ」と言う語彙は、英雄個人の名前や一部の特権階級だけでなく民族全体の名として使われるようになっていたのだろうか。「アーリヤ」と言う語が、言葉の通じる集団を指す民族全体の呼称として定着していた可能性は高そうだ。アケメネス朝のペルシャ帝国はメディア人とペルシア人の混成国家だった。そのメディアの呼称についてのヘロドトスの記述には「メディア人が昔からアリオイ人とも呼ばれていた」ことが書かれている。語尾が-oiとなるのはギリシャ語で複数形の特徴なので、英語風に言うと Aryans というところだろう。ペルシャ帝国の創設者であるキュロス2世は父がペルシャ王、母がメディア王の娘だった。ペルシャ王国はメディア王国に従属していたが、反乱して宗主国を倒し、次々に版図を拡大、ついにオリエント世界を統一して大帝国を建設した。このキュロス大王は新王権への支持を確実に取り付けるためにも、ペルセポリスのレリーフで見ることができるように、メディア人とペルシャ人を同等に扱った。メディア人の言語は記録がないのでわからない。しかし、イラン各地にはイラン語群の各方言がたくさんあった。古代ペルシア語はイラン南西部の言語だが、アヴェスター語はイラン東南部の方言、また、現代ペルシャ語はそのどちらでもなく西イラン語群の末裔だ。ペルシャ帝国時代に、方言差はあれど、セム系やエジプト方面の言語に比べてよほど、言語的に近い近隣に居住する部族を、同族とみなしていた可能性は高い。「アーリヤ人」という呼称は、一部支配階層のペルシャ人や同盟関係にあるメディア人だけでなく、もっと広い範囲だったのだろう。

そう言えるのは、インド・イラン祖語を話す集団がイラン高原に定住した頃から、自分たちのことを指して「アーリヤ」ということが定着していたことがうかがえるからだ。それは、アケメネス朝ペルシャよりもさらに古い時代、アヴェスター(紀元前600年~300年頃成立と思われる)で「アーリヤ」が出てくるのは、ザラスシュトラがアフラ・マズダーより啓示を受けた地が Airyanem Vaejah(“origin land of Aryans”)と呼ばれていることから推測される。インド神話とイラン神話は似通っていて(さらに言えばギリシア・ローマ・ゲルマンの神話にも通じるものがあるが)、言語・習慣の起源を同じくする集団が一所から散らばっていたという認識があったことがうかがえる。

時代が下った後の「アーリヤ」
サンスクリットから時代が下った後はどうだろうか。仏教経典が書き記されたパーリ語では、煩悩を捨てて悟りを得た聖者 (ariya) のことを指す。仏道修行によって得られた悟りに階位があるそうだが、その階位のことを指して聖果 (ariya-phala) という時の語でもある。タイ語で「文明」のことを อารยธรรม (Xāryṭhrrm) と言うが、サンスクリットの आर्यधर्म (Āryadharma 字義的には "the religion [=dharma] of the Āryan [people]) からの借用だ。

आर्य (ārya) はドラヴィダ語にも借用されている。タミル語でஅச்சன் (accaṉ [アッチャン]) という語になっているが、意味は「お父さん」である。実際の父親だけでなく(宗教的な場合も含め)に対しても使うことがあるようだ。時代が下り、南方に行くにつれ、ヴェーダを持って西方から来た民族は「アーリヤ」と呼ばれる民族だったという記憶が薄れて行ったのだろうか、民族名というより、社会的地位に重きを置いた語に変わってしまっている。

インドでは男の子の名前としてAryanは普通だが、外見的特徴を指すというより、学識・教養のある(例えるなら「たかし」や「さとし」)と言うニュアンスだ。

以上のことから、「アーリヤ」と言う語彙が、身体的・外見的特徴が「高貴」なのではなく、社会階層、特に教養があることが特徴の、高い身分を表す語だったと考えられる。インド・イラン祖語の集団が民族全体の呼称して使ったことも十分に考えられるが、いつどの言語集団と接触した時に、誰と対比してそう言ったのか、その語が最初に用いられるようになった背景を探るのは、ヴェーダやアヴェスターなどの文献資料が残る時代以前に遡る必要がありそうで、かなり難しそうだ。

いずれにしても『ヴェーダを持ち外から入って来た征服者が、被征服民と対比して自らを「高貴な者たち」と呼称した』と言うストーリーは、ペンカーやピクテなど、ヨーロッパ人が優位だとのスタート地点に立つ論者にとっては、説に取り入れるのに都合が良いものだった。

インドを植民地として支配し直接関わっていたイギリスにおいてなら、こういう呼び方は出てこなかったのかもしれない。ペンカーやピクテの説では、サンスクリットに言及するのは良いが、そのサンスクリットと現存するインド系言語との関りについては全く話題に上っていないようで、印欧語に属するが肌白でない話者によって話されている言語がある状況についての解像度が全く高くないような印象を受ける。「アーリヤ人の起源」が書かれ、もてはやされたドイツ・オーストリア人の新興国家は海外領土がなかった。彼らにとってイギリス人と比べてやはりインドはずっと遠い国だったのかもしれない。

現代の用法ので「アーリヤ」
現代ではアーリヤという語は、印欧語族のうち、後にヴェーダ語・サンスクリット・アヴェスタ語になるインド・イラン祖語に関連して用いられる。そしてもちろん、「イラン」という言葉の語源も「アーリヤ」なので、少々混乱が生じる。人によっては、Iranianとの置き換えでAryanと言っている、つまりインドを含まずに「イランの」という意味で用いる人も少なからずいるようだ。他方、Indo-Aryan というときは必ずイラン語派を含まないインド語派のことを指すので注意が必要だ。(Indo-IranianとIndo-Aryanは違う)

Aryanという語が出たときには、以下の全てを指す可能性があるが、実際に指す内容が何かを混同せず適切に見極めなければならない。

インド・ヨーロッパ祖語
Proto-Indo-European Language
 インド・イラン祖語
 Proto-Indo-Iranian Language
   イラン祖語
   Proto-Iranian Language
   インド・アーリア祖語
   Proto-Indo-Aryan Language
   (Proto-Indic)

ペンカーなどが提唱する人種説も、それほど単純に受け入れられた訳でもないようだ。その後登場する考古学的な「証拠」がその説を補強していくことになるようだ。

出典:
印欧語の故郷を探る (岩波新書)

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